第4話 都市伝説

「……何してるのよ、霧沢君」


 予想外の人物を見つけた。


 ここはホワイト・アロー号の甲板デッキだ。

 滑り止め用の塗料で緑色に染まった床に、鋭い陽射しを含んだ強い海風。遠くに見える蒼い夏空には綿飴にも似た入道雲が浮かんでいた。


 客室部分の建物が生み出す影にギリギリ入る位置に置かれた木製のベンチ。辺りに全く人の気配がないその場所に、きりさわなおは真っ白に燃え尽きた有名ボクサーを彷彿とさせる格好で座っていた。


「……遠江、か」


 さらりと纏まった黒髪に、線が細くて中性的な顔立ち。切れ長の両眼に浮かんでいるのは夜の海と同質の深みを感じさせる黒い瞳だ。船酔いによる苦痛が限界に達しているのか、いつもの冴え冴えとした印象は布を被せたと錯覚する程に薄くなっていた。


 長めの前髪を海風に揺らした霧沢が、苦悶に眉根を寄せながら、


「船に酔って……ベッドで寝てても気持ちが悪くて……」

「外の空気を吸いに甲板デッキまで来たのはいいけど、ここで気力が尽きたってこと?」


 こくり、と弱々しく頷く霧沢を見て、遠江は体から力が抜けていくのを感じた。溜息を吐きながらも、スカートの裾を抑えて霧沢の隣に腰を下ろす。


「……?」

「なによ、その意外そうな顔は。こんな辛そうにしてる霧沢君を一人残してどっかに行く訳にはいかないでしょ? 本当に倒れられても目覚めが悪いし……見ちゃった以上は手を差し伸べたって事実を作りたいだけ。だから少し一緒にいてあげるの」

「そっか……ありがと」


 震える頬を持ち上げた霧沢が、力弱く目許を和ませる。


 トクン、と。

 不覚にも胸が甘く疼くのを感じた。


「(え、なに? この素直な霧沢君は?)」


 遠江にとって、霧沢直也とは心を許してはいけない相手だった。全力を出しても勝てるかどうか怪しいから警戒してるし、意見は対立するし、基本的に馬が合わない。お互いに適切な距離を測り、一定以上の領域に踏み込まないことで決定的な衝突を避けてきた。


 それが、今はどうだ。


 いつも投げ掛けてくる皮肉やからかいは一切ない。ただ純粋に助けを求め、嬉しそうに微笑んでいる。胸中に去来するのは絶対に敵わないと諦めていた相手を掌握したような心地良さ。この戸惑いは、全然懐かなかった飼い犬が急に尻尾を振ってじゃれついて来た時の感覚に似ていた。


「(ハッ、この流れはマズい!!)」


 勢いよく頭を振って、脳内から邪念を振り払う。

 母性をくすぐられてはいけない。この感情はキャットに変な話を吹き込まれた事による錯覚。雨の日に手の付けられない不良が捨て犬に傘を差すようなギャップによるものでしかない。一瞬の勘違いを真に受けては痛い目を見るだけだ。


 ふと、霧沢がこちらに視線を向けているのに気付いた。正確には手に持っているペットボトルに。


「……なあ遠江、悪いんだけどそれを少しくれないか?」

「それって、紅茶?」

「そう、ずっとここにいるせいで喉が渇いてさ」

「でも、それじゃ――」


 関節キスになる、と言おうとして慌てて止める。

 口にするのは恥ずかしいし、変に意識している自分に腹が立った。何か、こう、負けた気分になるのだ!


「は、はい! どうぞ!!」


 頬に薄くあけを乗せて、ビュッと勢い良くペットボトルを差し出す。

 助かるよ、と短く告げた霧沢は一切の躊躇なく紅茶を呷り、ごくっと喉を鳴らしてペットボトルを唇から離した。普段通りを装っているのではなく、本当に何も感じていないと言わんばかりの態度だ。


「(……なんか、これはこれでムカツクわね)」


 チクチクとした苛立ちが胸に募っていき、霧沢に向ける視線が尖っていく。

 変に意識されても困るのだが、ここまで無反応なのも如何いかがな物か。私は男友達か、と突っ込みたくなる。少しは何か反応してくれないと葛藤していた自分が馬鹿みたいではないか。


「……遠江?」

「なんでもないっ!」


 残っていた紅茶を一気に口へと流し込んだ。これで勝負は引き分け。謎の基準でプライドを納得させた遠江が、空になったペットボトルを持って木製のベンチから立ち上がる。


「それじゃ、私はもう行くから。陽に当たると日射病が怖いし、動けないなら部屋に戻った方が――」


 言っている途中で、一人の女子生徒がこちらを見ている事に気が付いた。


 初等部の生徒だと言われても信じられそうなほど小柄な少女だ。

 凪いだ湖面のように静謐な瞳に、繊細さと可愛らしさが同居した顔付き。青雪色アリスブルーのショートカットには雪の結晶を模した髪飾りが乗っており、首元には赤い革紐を編み込んだチョーカーが嵌められていた。


「――、」


 第一校区中等部の夏服を着た少女の顔に浮かぶのは驚愕の色。両眼を大きく見開いて、唇をぱくぱくさせている。しらばく言葉を失って立ち尽くしていたが、おもむろに携帯端末を取り出して耳元に当てた。


「た、たたた大変ですすず先輩! ライバルが出現しました!!」


 突風のように走り去って行った少女を見て首を傾げていると、ベンチに座ったままの霧沢が街中で偶然知り合いを見つけたような声で言った。


「……ひょう?」

「え、知り合いなの?」

「ああ、風紀委員の後輩。何も走り去らなくてもいいのに、どうしたんだ?」

「……、」


 何か、とんでもなく面倒な事に巻き込まれたのではないか。

 そんな気がして、遠江は思わず青い夏空を仰いだ。



      ×   ×   ×



「要するに、私達は厄介な仕事を押し付けられたという訳ですね」


 ホワイト・アロー号の船内を歩いていたなかはらすずはそう断言した。

 櫛で梳かれたように真っ直ぐ流れる黒橡色の長い髪。ピンと伸びた背筋に隙はなく、ただ立っているだけで胸の裡に秘めた怜悧さが漏れ出しているみたいだった。シャープな顎のラインに鋭い目許と、全体的にキリッとした顔立ちの少女である。


「まあ、そうなんだけどさ……もう少しオブラートに包んでもいいんじゃない?」


 冷徹な中原の言葉に苦笑いを浮かべたのは、長身の女性だった。

 歳は二十代後半くらいか。緩くウェーブした長めの髪が一房に結われており、首元からサイドに流れている。引き締まった細身で、着ているのはストライプの入った白いワイシャツに黒いタイトスカート。面長で整った顔付きである事も相まって、まさしく男子生徒の視線を集める女性教師といった美貌だった。


 早乙女さおとめみや

 風紀委員会直属の精鋭部隊『特殊任務遂行班』――とくはんの顧問である。


あまかぜじまにおける警備状況の実地確認。有事の際に備えるのは、紛いなりにも治安を維持する組織として必要な事でしょ?」

「理屈は分かりますが、連中の心の声が聞こえてくるのが癪に障ります」

「心の声?」


 一階部分の通路端にはソファが置かれており、大きな丸窓からの眺望を座って楽しめるようになっていた。実際に他校区の夏服を着た生徒数人が景色を見て楽しそうに騒いでいる。そんな彼らを冷たく一瞥して、中原は少し悲しそうに長い睫毛を伏せた。


「第一校区の風紀委員会として一度は確認しておかないと面子が立たないけど、夏休みを削ってまで仕事をしたくはない。だったら立場が弱くて断れない『特班』に全て任せてしまえ――大方こんな風に思われているんでしょう」

「そんな悲観的にならなくてもいいと思うわよ、報告書さえ書けば終わる簡単な仕事なんだし。添削するのも私なんだから、体裁さえ守ってくれれば文句なく第一校区に提出してあげるわ。だから仕事なんて思わずに、素直に旅行のつもりで楽しんだら?」


 風紀委員会内における特班の地位は依然として低いままだ。

 正式な設立は後期が始まる十月以降であり、現在は試行段階。先月の投棄地区ゲットーの一件を含めて幾つか成果を挙げているが、元々設立反対派が多数を占める風紀委員会内で評価される事はなかった。結果として、今回のように雑用を押し付けられる事も一度や二度ではない。


 中原は通路を抜けて、ホワイト・アロー号の搭乗口がある場所までやって来た。


 観光客が宿泊するホテルのフロントみたいな広場だ。

 三階部分まで円筒状に吹き抜けた構造。中央には二階客室へと繋がる階段があり、飴色の光沢に覆われた手すりには瀟洒な金属細工が施されていた。絵画の飾られた壁際には歓談スペースが設けられ、様々な校区の生徒が少人数で固まって談笑している。


「どう、美鈴ちゃん。もう風紀委員には慣れた?」

「残念ながら。こうしている今でも好奇な視線を感じています」


 中原が左腕に嵌めた風紀委員会の腕章に触れながら顔を顰めると、早乙女はばつが悪そうに目を逸らした。


「……もしかして、迷惑だった?」

「まさか、逆ですよ。出身のせいで発言力だけは持っているくせに肝心の界術師としての力が伴っていなかった……そんな居心地の悪い状況から救い出してくれたんです。むしろ感謝しています」


 どんなに高い能力を持っていたとしても、界術師として三流なら評価されない。

 ラクニルに通う生徒ならば誰もが直面する現実だ。


 中原は始まりの八家の一つ『てらじま』に資金を提供している大企業スポンサーの役員の一人娘だが、界術師としての能力には恵まれていなかった。実力カラーは高等部二年生にして最低の青色。寺嶋家が生み出した方式『界術陣カイジん』を習得しているが、ロクに術式を発動させる事すらままならない。

 同年代では頭一つ抜けた優秀な頭脳に、対立する両陣営を納得させる交渉力。界術師とは関係のない箇所で高い能力を有していたのだが、発揮できる場がなくて持て余していた。そんな時、幼い頃からの知り合いである早乙女京子が特班の参謀として抜擢したという訳だ。


 幅の広い階段の前まで来ると、受付カウンターが見えてきた。出航したばかりの頃は係員がいたが、現在は無人だった。代わりに最新AIを搭載した人型案内ロボット『パッピー君』が乗客の質問に答えている。


 受付カウンターの壁に嵌め込まれた大型ディスプレイでは、あまかぜしまの情報が映し出されていた。


「純粋な疑問なんですけど、あまかぜじまを一般公開した所で観光客は来るんですかね。直通の船でも十時間以上掛かるのに」

「観光ってよりも、界術師関連の施設を作る事の方が主な目的らしいわよ。本土だと敷地すら確保できてないみたいだし」


 書類の束を胸の前で抱えた特班の顧問は、踏み心地の良い赤い絨毯の上を黒いヒールで歩きながら、


「イメージとしては軍隊の基地を移設するようなものかしら? 過去には幾つか候補地も挙がったみたいだけど、地元住民の強い反対に負ける形で白紙に戻ってるのよ。天風島は六家連盟の持ち物だった訳だし、色々と都合が良かったんでしょうね」


 完成する施設に裏事情がないとは思えないけど、とうんざりした表情で肩を竦めた。肩口から左胸に垂れるサイドテールが小さく揺れる。界術師絡みの政治事情に詳しいのは、流石『てらじま』の分家関係者と言った所だろう。


 ふと、早乙女が両腕で抱えている書類の一文が目に入った。


ハクリュウ伝説?」

あまかぜじまにまつわる古い言い伝えね。白く巨大な邪竜が島に現れると嵐が訪れる。何度も海が荒れて漁に出られない事に困った周辺住民が有名なまじない師を呼んで、白竜の怒りを鎮めてもらった。白竜は現れなくなり、海には平和が訪れました……こんな内容だったかしら? 物語として以外でも当時の人々の様子や風俗を示す資料として重宝されているはずよ」

「ああ、聞いた事があります。勧善懲悪の英雄譚。確か、絵本とか古い映画の題材になっているはずです。その呪い師が、実は歴史の裏舞台に隠れていた界術師だったという都市伝説もありましたよね? テレビの特番で見た記憶がありますよ」

「年末とか夏休みに放送するやつね。あれ、眉唾だって分かっててもついつい見ちゃうのよねー」


 日本のとある街では大量のUFO目撃情報が寄せられるため宇宙人の基地があるはずだとか、未来予知Future Sight残留思念読取Psychometryなどの超能力で犯罪者を逮捕するなど、一部に熱狂的なファンを持つ番組である。

 界術師が一般的となって、物理法則では起こりえない現象でも『界力術』として認識される現代においても、依然として超自然現象オカルトは信じられている。それが本物か偽物かは定かではないが、人智という光の届かない都市伝説が存在しているのは事実だからだ。


ハクリュウ伝説が本当かどうかは置いておいて、あまかぜじまに何らかの界力術が仕掛けられているのは事実なのよ。まあそのせいで、ここまでハクリュウ伝説が有名になっちゃったんだけどね」

「仕掛けられているって……つまり、現在進行形という意味ですか? 一体どんな界力術が?」

「それが、分からないの」


 片目を閉じた早乙女は、手品の種明かしをする大道芸人みたく楽しげに続ける。


「六家連盟が本格的に調査した事もあるんだけど、どんな界力術なのか判別できなかった。それどころか効果や規模さえも掴めなかった。理由は明白――使われていた界力術の方式を、私達の技術では解読できなかったから」

「……?」


 小首を傾げた中原は、搭乗口前の広いスペースを抜けて大きな丸窓が連なった通路へと進んでいく。

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