第3話 葛藤と疑念

 しらづめひょうはウキウキとした様子で船内を歩いていた。

 凪いだ湖面のように静謐な瞳が印象的な少女だ。初等部の生徒と見間違えられても文句を言えない小柄な身体。両サイドに垂らしたショートカットには、雪の結晶を模した髪飾りが乗っている。首元には二本の革繊維を織り込んだチョーカーが嵌められていた。


 白詰は風紀委員会直属の精鋭部隊『特殊任務遂行班』——とくはんのメンバーである。中学生ながら本土の裏社会で活躍する界術師二人を打ち負かす実力者だ。四月に起きた『界力活性剤アークマイム事件』ではきりさわなおと共に行動し、特班設立に大きく貢献した。

 普段は分厚い氷を更に厚くする冷淡な空気を纏っているのだが、今ばかりは真夏の陽射しを浴びた向日葵よりも元気一杯な様子だった。スキップでも始めそうな勢いで、ホテルの廊下を思わせる通路を進んでいく。


「えーと、直也先輩がいる部屋は……」


 携帯端末を取り出して、特班の同僚であるしろあきらから得た情報を確認する。


 始め、霧沢は特班のメンバーとして研修に参加する予定だった。だが紆余曲折あって最終的にはクラスの友人と参加する事になる。色々と面白くない白詰は学年は二つ上だが新入りの御代に動向を探らせていた。そして案の定、船に酔ってダウンしている事が分かり、情けない先輩を仕方なく看病してあげようと思い立った訳だ。

 通話アプリには『看病する振りで近づいて既成事実を作っちまえ!』と背丈がデカいだけの男からスタンプ付きでメッセージが入っていたが、『うざい』とだけ返しておく。


「安易な色仕掛けは命取り……単なるギャグで流されるほど氷華のカラダは安くないんですよ。頭脳派インテリな氷華に抜かりはありません」


 四月末に霧沢への恋心に気付いて以来、白詰はあの手この手でアピールをしてきた。手料理を振る舞った事もあるし、週末に一緒に買い物に出掛けた事もある。だが、そのどれもがイマイチ効果を発揮していない。霧沢が鈍感……というよりも、ただ単に恋愛対象として見られていない気がしている。


 たとえるなら、生まれた時から同じ屋根の下で生活してきた妹。


 何故かは知らないが、霧沢自身も歳下の女の子を扱う事に慣れていた。勇気を振り絞って抱きついてみたりもしたが、当の本人はどこ吹く風といった様子。『……?』と小首を傾げられてしまえば、顔を真っ赤にして恥ずかしがるこっちが馬鹿みたいだ。


「ともあれ、まずは妹のように扱われる関係性を破壊しないと」


 指定された部屋の前に着いた。

 ラクニルからあまかぜしままでの所要時間は約六時間。宿泊の必要がなく利用客もいないため、船酔いで体調不良を訴えた霧沢に特別に一部屋が与えられたのだろう。


 ピロン、と持っている携帯端末から通知音が鳴った。御代からの返信だ。『えーでもせっかく密室で二人きりなんだぜ? こんなチャンスは滅多にねぇと思うけど?』とのこと。どうやら全然懲りていないようなので、今度は『だまれ』とだけ即座に返しておく。


「(密室で、二人きり……)」


 加えるなら、霧沢は船酔いで満足に動けない。客室エリアに人の気配もないため、少々大きな物音がしても誰かに聞かれる事はないだろう。


 ぽー、と何かを想像しかけて、慌てて首を左右に振る。


「こほん」


 真っ赤になった顔を落ち着けるために、咳払いを一つ。飛びっきりの笑顔を浮かべ、ノックの反応を待たずに客室の扉を開け放った。


「もう仕方がないですね! 船酔いでダウンした脆弱な先輩を氷華が――」


 しかし、すぐに異変に気付く。


 誰もいない。

 安いビジネスホテルみたいな間取りだった。電気は付いておらず、丸窓からレースのカーテン越しに夏の陽射しが差し込んでいる。先ほどまで誰かが寝ていたのか、ベッドはシワシワに乱れていた。


「(直也先輩がいない? 外の空気でも吸いに行った?)」


 ならば、いつまでもここにいる意味はない。踵を返そうとした白詰だったが、何故か両足は縫い付けられたように動いてくれなかった。

 視線の先にあるのは、しわしわに乱れたベッド。


「……直也先輩が、さっきまであそこに……?」


 どくん、どくん、と。

 心臓の鼓動が速度を増していく。無意識の内に伸びていく右手。はっと我に帰り、即座に左手で掴み止めた。


「(氷華は、今……何をしようとして――!?)」


 かあぁと猛烈な速度で熱が顔に駆け上がっていく。腕を掴んだままその場から離れようとするも、視線は意中の相手が寝ていたであろうベットに釘付けだった。


「だ、だだだだ駄目ですそれはっ! 人間としてその一線を越える訳には!! でも、だけど……いや、だからって言ってもっ!!」


 密室で、周囲に人の気配はない。ここで何をしても誰かに知られる事はない。加えてこんなチャンスは今後二度と巡って来ないだろう。どれだけ正論を口にしても、脳内では勝手に願望リターン常識リスクを天秤に乗せた損得勘定が始まっていた。


 欲望と理性がぶつかって火花を散らす。

 果たして、頭脳派インテリ少女が導き出した答えとは!?



      ×   ×   ×



 船の甲板デッキは思っていたよりも暑くなかった。


 滑り止め用の塗料によって緑色に塗られた床が広がっている。甲板デッキへの入口の近くには移動型の露店が並び、その正面には白いプラスチック製の席が用意されていた。印象としてはデパートの屋上にあるイベントスペースに近いか。ホットドッグやジュースを片手に多くの生徒が楽しそうに騒いでいた。


 そちらとは別の方向。

 喧騒から遠ざかるために、とおは船の後方へと甲板デッキを歩いて行く。前方に多くの生徒が集中しているのか、少し進むだけで一気に静かになった。進行方向と太陽の関係でこの辺りが建物の影に沈んでいる事も、人を遠ざける要因になっているのかもしれない。


 大きな影を生み出している建物に背中を預けて、遠江は携帯端末を耳に当てた。


『そんなに心配する事はないぜマイフレンド。大丈夫にゃ、いざとなったらあーしも力を貸してやるよ。だから今は旅行を楽しむがいい!』

「それは、そうなんだけどさ」


 明るいキャットの声を聞いても、心を覆う影は消えてくれなかった。


「あの実験が再開された……なんて聞かされて暢気に旅行なんてできる訳ないじゃない」


 かつて――それは、まだ少女がとおという名前を手に入れる前。彼女は危険な人体実験の被験者として使い捨てモルモット同然の扱いを受けていた。身体が壊れるのが先か、精神こころが狂うのが先か。昨日まで仲良く話していた友人が翌日には『処分』される。そんな人間らしい生活など一ミリも望めない環境で育ってきた。


 だが、その地獄とは三年前に決別している。

 研究所も閉鎖。その実態が公になる事はなかったが、関係者の多くは闇の中でされて、事件は完全に収束したはずだった。


『にゃー、こいつは伝えない方が良かったか……? なんか余計に心配を掛けちまってるし』

「キャットは悪くない。実際、本当にあの実験が再開されているのなら私自身が標的になる可能性は高いはずよ。なにせ私は貴重な生き残りなんだから、研究者からすれば喉から手が出るほど欲しい素体サンプルになる。用心は必要よ」


 真夏だと言うのに寒気を感じて、空いている左手で自分の肩を擦った。

 先ほどまで一年A組の面々と遊んでいたのだが、どうにも気分が盛り上がらない。このままでは旅行の楽しい空気を壊してしまうと思い、賭けババ抜きで得た戦利品である無糖の紅茶のペットボトルを持って甲板まで逃げてきたという訳だ。


 夏の熱気を含んだ生温い風がライトブラウンの長髪を乱暴に揺らす。船の後方では尾のように伸びる白い気泡が青い海面を彩っていた。スクリューが吐き出した泡が連なっているのだろう。目に掛かった前髪を左手で押さえながら、沈痛そうな声音で続ける。


「情報はどこまで集まったの?」

『確定的なものはまだ。今回は黒幕は柊グループや六家界術師連盟とは系統が違うっぽいんだにゃ。それにちょっと気懸かりな点もあるし』

「気懸かり?」


 近くの段差に置いたペットボトルを持ち上げ、無糖の紅茶を一口呷る。


『圧力の掛かり方に癖がある。これはあーしの感覚だが、今回の黒幕は界術師じゃない気がするにゃー。研究に対する純粋な情熱よりも、その先にある利益や権利の方が重要視されてるっぽい。企業か、個人か、あるいはもっと大きな枠組みか……今はまだハッキリとしてないけど』

「……なんか複雑ね、誰かをぶん殴れば解決したりしないの?」

『なまじそれを実現しちまうだけの力があるからそう思うのかもしれないな。でも残念、世の中はそんな平坦にできてないんだぜ。マッキーにもカスミンの苦労してる顔を見せてやりたいぜ』


 にゃははは、と電話の向こうで金髪ネコミミ少女が笑った。


『ま、あーしに連絡してくれてもこれ以上の情報は話せないって事にゃ。進展があったら電話するからそれまで待ってな! どうしても不安だって言うなら誰かに相談すればいいんじゃないか?』

「こんなの、誰かに話せる訳ないでしょ……」

『そう言えば、マッキーは「そっち側」とは完全に決別してたんだったな。だけどそれが原因かもしれないぜ?」

「原因って、何のよ?」

『そこまで不安になっちまうマッキーの弱さの』


 珍しく、真面目なトーンでキャットは続ける。


『いくら無理やり心を日常に調整したつもりでも、つい二年前まで「裏側」にいたんだ。欠伸あくびが出るほど平和な空気に少しは慣れたのかもしれないが、長い年月を掛けて熟成された根本ってヤツは変わってくれない。意外とまだあるんじゃないかにゃ、

「……、」

『感情にしたって、考えにしたって、溜め込んで良い事なんかないぜ。不安、疑念、葛藤……そういう良くないモノによって気付いた頃には毒へと変質している。そうならないために人間は誰かに相談するんだろ? 他人の意見を取り入れて、自分の心を調律していく。だったら同じ立場の相手ってのは必要なはずだぜ。対等じゃなきゃ、そいつの言葉はマッキーに響かないからにゃ』


 対等。

 その言葉を聞いた途端、心臓がたこ糸で絞られるような想いになった。


 かたばねしょうにしても、かみやなぎたかすみにしても、一年A組の同級生クラスメイトにしても、全員が大切な友人だ。

 だが対等かと問われれば、素直に首を縦に振れない。

 もちろん彼らの事は尊敬しているし、自分が他人を評価できるような立場だと驕る気もない。それでも、キャットの言う通り根本的な部分でズレを感じてしまうのも事実。同じ面に立っていても奥行きが違うせいで交われないようなもどかしさを感じてしまう。


『でもナオヤちゃんは? マッキーと立場が似てると思うけど?』

「そりゃ、話は聞いてくれるだろうけどさ……」

『随分と歯切れの悪い返事だなー。いつもならさっさとナオヤちゃんに連絡して厭がるマッキーの顔を楽しむんだけど、投棄地区ゲットーの一件で喧嘩中だからできないんだにゃ……』

「勝手な事をされないで良かったわ」


 キャットときりさわなおに何らかの繋がりがあるのは知っていた。入学式の日に霧沢の正体を教えてくれたのがキャットだからだ。


『だけどマッキーもウカウカしてていいのかい? ナオヤちゃん、ありゃ天然のおんなたらしだぜ。まだラクニルに来て数ヶ月しか経ってないのに、すでに女の影がチラホラ』

「……その情報を聞いて、私にどうしろって言うのよ?」

『あれ、てっきりフラグが立ってるとばっかり』

「あのねぇ」


 はあ、と溜息をついた遠江は左手で額を押さえた。電話の向こうで本物にしか見えないネコミミをぴこぴこと動かしながら、頬の三本ヒゲのペイントを楽しそうに持ち上げている姿が容易に想像できる。


「霧沢君との間にそんな浮ついた話はないわ、一切ね。大体まだ出会ってから半年も経ってないのよ。ただのクラスメイト以上の関係に発展のしようがないじゃない。それに……よく分からないし」

『分からない?』

「……四月。キャットに教えてもらって、特班設立を賭けた霧沢君といまりょうの模擬戦を見に行ったでしょ。あの戦いを見てから、考え方が変わったのよ」


 今津稜護と言えば、第一校区に通っていれば知らない生徒はいない程の有名人だ。夏越御三家出身で、風紀委員会副委員長。第一校区の代表候補生に選ばれた正真正銘の怪物。界術師として互角に戦える生徒など数える程度しかいないと言われていた。


 だが、霧沢直也は今津稜護に勝利した。

 正面から愚直に戦いを挑み、正々堂々と打ち負かした。


「霧沢君の力は異常よ、少々『裏側』を経験しただけの私じゃ推し量れない。それに加えて不自然な点が多いのよ」

 

 特班に入るまでの経緯だって、不自然な点ばかりだ。

 天城家出身だと言って立場を悪くするのだって得策ではないし、風紀委員会への入会でも正式な手順を踏む必要はないはずだ。腐敗した第一校区の風紀委員会ならば裏で手を回した方が確実。それこそ、本土の裏社会で何度も見てきたような汚いやり方をすればいい。


「霧沢君の最終的な目的は知らないけど、少なくともあの時は風紀委員会に入るために行動していたんでしょ? だったらあんなに回りくどい道を選ぶ必要はなかった。最短距離が提示されているのに、敢えて遠回りを選択する。それって何か隠してるって事じゃない。私には思い浮かばない程の深い『闇』を」

『うーん、ナオヤちゃんに限ってそれはないと思うんだがにゃー』

「分からない、底が見えないってだけで、私からすれば充分に警戒するべき対象になるの。これはあの『地獄』で学んだ生き残る術よ」


 じつの授業中にもりしたしゅんの妨害から助けられた事をきっかけに一度は心を許した。互いに秘密の一部を共有して、協力していくのも良いとさえ思っていた。


 それでも今津稜護との模擬戦を見て考えが変わった。


 持っている力が規格外のくせに、敢えて険しく遠い道を選択する。

 RPGでラストダンジョン直前の装備のまま、もう一度最初のダンジョンからやり直すのと同じだ。アイテム収拾だってレベリングだって、わざわざ始まりの村まで戻る必要はないのに。そんな噛み合っていない在り様が、本来なら有り得ない状況が、培ってきた直感を刺激する。

 

「それに大前提として馬が合わないのよねー。何かと意見だってぶつかるし、態度も大きくてムカツくし」

『それはマッキーがナオヤちゃんを対等だって感じてる証拠だと思うけどな。知ってるか、喧嘩や言い争いって同じ立場同士でしか起きないんだぜ?』


 それによー、とキャットのからかいは留まらない。


『一回はナオヤちゃんに気を許したんだろ? 計算高いマイフレンドの事だ。それだって境遇の似ているナオヤちゃんなら、本当の意味で自分の理解者になってくれるかもしれないっていう打算の結果なんじゃないか?』

「……だとしたら、何だって言うのよ?」

『いやな、そうやってツンツンしてる理由が分かるなーって思って。簡単に言えば照れ隠しだ。迂闊に気を許ちまえば、何かの拍子にそれが本気になっちま――』

「と、とにかくっ! 霧沢君と何か起きる事はない! 今も、これからも!!」

『だぁーっ、なんだよもう面白くない! だったら!! マッキーが自宅に隠してるフリルとかレースとかリボンが一杯付いた少女趣味ガーリー全開な服は一体何のためにあるんだにゃっ!!』

「ごほぉっっっ!?」


 盛大に咳き込んだ。


「な、ななななんで私のクローゼットの中身を知ってるの!? しかも秘密の方!!」

『あーしは何でも知ってるんだぜ。ついでに言えば、誰に見せる訳でもないのに休日に隠れて試着しては鏡の前でポーズを決めている事もなっ!』

「な、なん……っ!?」

『マッキーはどっちかって言うとクール系だからな。いいじゃん、可愛い系の服を着てナオヤちゃんの前に現れてみろよ! フリル付きのブラウスにピンクのワンピースを合わせて、靴もリボン付きのパンプスとか。きっとギャップでイチコ――』


 ブチッ!! と。

 ふーふー荒い息を吐く遠江が思いっきり電話を切った。


「(……どうして、知られてるの?)」


 試着する時はカーテンを閉めて、自室の扉には鍵まで締めている。撮影した写真もオフラインで保管していた。万全の対策。抜け道などあるはずがない。


「(誰かに話される前に口封じをするしかないわ、どんな手を使っても!)」


 割と真面目に暗殺計画を考えてみるが、あの神出鬼没な怪物を相手に有効な手立てが思い浮かばなかった。

 別にやましい事をしている訳ではないのだし、正直に告げてしまおうと考える事もあるのだが、最終的にはいつもプライドが邪魔をする。普段からリーダーとして人前に立つ機会が多い弊害か。子どもっぽい趣味だと知られる事が猛烈に恥ずかしいのだ。


 携帯端末を夏服のスカートにしまった遠江は、緑色の塗料に染まった甲板を進んでいく。何となく来た時とは反対側に足を向けてみた。こちらの方が人が少ない気がしたのだ。


 だがそこで。


「……何してるのよ、霧沢君」


 予想外の人物を見つけた。

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