第17話

 夜になり、大輔は三度タランチュラを訪れた。

 ドアの前のチャイムを鳴らし、すぐに頭を下げた。


「先日は大変失礼いたしました! お金を払いに来ました!」


 ドアが開く。

 顔を上げると黒服のバーテンダーが立っていたので、大輔はさらに深く頭を下げた。

 そして再び謝罪するより先に、バーテンダーが口を開く。


「いらっしゃいませ。どうぞ」


 バーテンダーは優しく店内に招き入れてくれた。

 それでも大輔は席にはつかず、入り口の近くで言った。


「あの、お金を、払わせてください。飲み逃げしてしまって、すみませんでした、ほんとに、すみませんでした」


「ああ、いいえ。大丈夫ですよ。料金はチャージ料金を含めて三千八百円。それに、その前に一万円置いて帰られましたよね、それのお釣りをお預かりしてましたから、その分から払ったことになってます。むしろまだ千円くらいありますよ」


「え、で、でも、二コラさんが、」


「二コラはイラついてましたからね。それに二コラは勝手に注いだウィスキーの分はサービス分。料金に入っていませんよ。ご安心を」


「そ、そうですか、……そっか」


 安心しすぎて腰が抜けそうだった。

 犯罪者にならなっくてよかった。

 

「一杯飲んでく?」


 バーテンダーは少しフランクに話しかけてくれた。おかげで大輔の心もくだけ、フランクに返した。


「いいんですか?」


「もちろん。あ、お金は貰うけれどね、差額分」


「はい、もちろんです」


 大輔はカウンターに座った。三回目だが、もういつもの場所という気がしているのは、おこがましいだろうか。


「あ、あの。やっぱり、またお金払うの忘れて帰っちゃうかもしれないんで、先に払っておいていいですか。えっと」


 大輔はポケットから一万円を取り出した。

 バーテンダーが困ったように笑みを浮かべてからそれを受け取った。


「そもそも酒場っていうのはああいうものなんだ」


「ああいうもの?」


「酒を飲んで、思い思いのことを言って、心が大きくなって、好き勝手して、そして喧嘩したり笑いあったり。お金だってさ、ツケとかけっこうあるしね。酔っ払いにまともなことを言って聞いてくれると思うほうがおかしいんだよ。だから、素面の時によってる時の分のお金を支払ってもらったりね。はは。インゴットはそうだった」


 バーテンダーは大輔が渡した一万円を茶封筒にそっと入れた。そこには「イミテーション」と書かれていたような気がする。


「インゴットはよく酒で失敗していたね。酩酊状態で支払いなんてしないで帰って、翌日に「これ昨日の分」って金を持ってくる。悪びれたことなんて一度もない。そしてまた飲んで、酔っぱらって、支払わずに帰ってゆくんだ」


 バーテンダーはジントニックを大輔の前に置いた。


「一回だけ「今日はちゃんと払ってく」って言って、その日の分を支払って帰ったことがあった。珍しいこともあるもんだと思って笑ったよ。それっきりだった」


「それっきり?」


「それは最後だった。インゴットはあれ以来、……来てない」


「……」


「二コラはインゴットになついていたから、ずいぶんをさみしそうだった。もう一年になるんだけど」


「一年……」


「ニッケルもたまに来るんだけれど、インゴットの話は重苦しくてできないねぇ。ま、あの人は口数が多くないし、何考えているかもわからない。一人で黙々と飲むのが好きみたいだから……」


「ニッケルっていうのは誰ですか?」


「あれ? 知らない? 白銅貨っていえばいいかな」


「あ、白銅貨さんがニッケル。へえ……」


 白銅貨という名前、いやコードネームだろうか、それよりも少し印象が落ちる。

 けれどそちらのほうが親しみやすい気がする。


「インゴットさんとニッケルさんは、なんでも屋なんですか?」


「うーん……。二コラがいたら、「そんなことも知らずに名前をかたってたのかよ!」って怒るところだけれど、知らないのは無理もないよね。インゴットは、代官山限定の探偵だったんだ」


「た、探偵ですか」


「そう。確かちゃんと職業としてやっていたよ。探偵仲間もいたみたいだけど、どんな理由か知らないが、ある日代官山にやってきた。そしてひっそりと探偵業を始めた。看板も出さない、広告も出さない、名刺もない。依頼料は相手が決める。インゴットはその値段に一度も文句をつけなかった。けど、結構

貰ってたんじゃないかな。代官山で探偵に依頼する奴なんて羽振りがいいに決まっている」


「代官山ってお金持ちの街ですもんね」


「そうだね。けどよくわかんない街だよ。インテリっていうのかな。スマートっていえばいいのか。あまり目立ちたがりはいない。金持ちでござーい、ってテカテカしている人間から数歩離れた場所で、すまして立ってる人。そんなイメージだ。心を完全に開かない。上っ面を取り繕っているようで、どこかラフな感じも出していて……」


 バーテンダーはぴったりの言葉が見つけられずに、ううん、とうなった。


「インテリぶった裏がありそうな善人が住んでるって感じかな」


「もしかして代官山嫌いですか?」


「まさか。もうここで十年も暮らしてる。干渉しあわないから気が楽なんだ。親しき中にもエアウォールありってね」


 大輔のジントニックが空になった。


「次はどうしますか?」


「じゃあ同じので」


 今回はウィスキーは勧められなかった。

 ふと、二コラとは会えないのかもしれないと思った。


「そんな代官山にインゴットは「合った」」


 二杯目のジントニックが大輔の前に置かれる。


「依頼内容は知らないけれど、インゴットはこの店を顔合わせの場所に使い、金銭の受け渡しもここを使った。いつ頃かニッケルが仲間に加わった。そして二コラ。インゴットの名前が広まるにつれて、キナ臭い依頼も増えたみたいで、インゴットはそれを嫌がった。二コラを窓口にして、手紙を受け取り、その中で安全そうなもの選んでここで会う。仲介は、二コラ」


「じゃあ、俺が今回受けちゃったのは、もしかして」


「詳しくは知らないけれど、本来なら受けない内容だと思うよ」


「です、よね……」


「インゴットはえり好みが激しかったから」


「どんな人物なんですか?」


「男。中年。見てくれは、まあ、いいほうかな。見た感じチャラいというか、あんまり信用できる人物には見えなかったね。酒好き。けど浮いた話は聞いたことはない。探偵業をしていないい時、何をしていたのか、しらない。二コラもしらないね、きっと。ニッケルなら知ってる。同じアパートに住んでるし、ニッケルを仲間に直接引っ張ったのはインゴットだし」


 話をもっと聞きたかったが、そこにほかのお客がきたので、この話題はおしまいとなった。

 二コラもくる気配はない。待っているわけではないが、なんとなく大輔は気になって仕方がなかった。

 二杯目のジントニックを飲み干すと、大輔は立ち上がった。


「また来ていいですか?」


「来ないと呪うよ?」


「う……」


「はは。待ってるよ。お預かりしたお金もあるしね。不定休だけど、週に四日から五日は開けているから」



 続く。

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