第8話

 大輔はそのまま窓から飛び出した。

 雨を靴下がぐっしょりと濡れたことが思った以上に不快だった。意外と石があって足の裏が痛い。

 それでも早急に手紙を奪い返さなければならないと感じていた。


「返せよ!」


 怒鳴り、手紙に手をのばした。

 しかしエリート眼鏡はするりとそれをかわし、冷たい目で大輔を見ている。

 思わず怯んでしまうような、凍てついた目で、大輔は二の句がつげなかった。


「なにか勘違いをされているようだ」


 エリート眼鏡は端整な顔を崩すことなく、そればかりか顔のどこも動かさなずに、エリート眼鏡は言った。

 ペラリと手紙を大輔に見せる。


 白銅貨様


「しろどうか?」


「はくどうか」


 エリート眼鏡はあからさまに顔を歪めた。

 こいつ、嫌な奴だ。


「これは君ではない。君宛ではない。間違いだ。そして、インゴットも君じゃない」


 なんで知っているんだろうか。それも間違いだというのだろうか。いや、確かに間違いではある。大輔は自分がインゴットではないことは重々承知だ。

 けれど言い訳するとしたら、インゴット宛は自分の借りた部屋宛に届いていた。


「もしもインゴット宛に手紙が届いたなら、俺によこせよ」


「なんで。あんたはインゴットなのか?」


「違う」


「じゃあなんであんたに渡さなきゃいけないんだよ。俺のポストに入ってたらなら、俺宛の可能性が高いだろ。そっちも返せよ」


「残念ながらこっちは君のじゃない。君は一○二。こっちの宛先は二○一だ」


 そう言って、大輔の目の前で手紙をひらひらさせた。


 確かに、二○一。


 白銅貨様。


「郵便局がよく間違えるんでね。もしも君のポストに二○一の手紙が入っていたら俺のポストに入れ直してくれよ」


 白銅貨はするりと手紙をスーツのポケットにいれ、


「失礼」


 と一言。足元に置いていた革のカバンを持ち大輔の横をすり抜ける。


「おい!」


 すぐに文句を言おうと振り返った。しかし大輔は言葉を失った。その先に、見開かれ、しかし今にも人を射殺しそうな鋭い目があったのだ。首を僅かにこちらに向けただけ。目だけがギョロリと大輔を睨んでいる。

 それは一瞬と出来事だった。

 白銅貨なる青年は流れるようなスマートな動きで階段を昇って、二○一の部屋に消えた。

 大輔は呆然とそのドアを見つめていた。

 寒い。

 それが雨に濡れているせいだからと思いたいが、あの目付きが忘れられない。





 風邪を引いた。


 翌朝どうにもならない悪寒を感じながら窓を開けぐったりと庭を見ていると、となりのおじさんが窓から覗きこんできた。


「どうした。具合が悪いのか」


「昨日……傘をささずに雨のなかいたので」


「日本人は雨に当たったくらいで風邪を引くのかなんて外人にいわれたことあるが、今の時期の雨は寒いからな」


 おじさんは外国人の友達がいるらしい。さすがだ、代官山に住む都会人は違う。

 大輔はわずかに劣等感が生まれたのが分かった。


「病院は行ったかい?」


「あー、……」


 そう言えば保険証はどうなっているのだろう。社会保険から国民保険に変わっていて、手続きは……、住民票……、頭がぼんやりする。風邪のせいだろう。

 確か会社を止めるときに手続きをしていた。ただ、おそらく実家に届いている。住民票を移せば新しく作れるだろうか。



「市販薬でもいいから、早めに薬を飲んだほうがいいんじゃないかい」


「ですねー……」


「病院なら、オススメの診療所がある。こう見えて代官山はそこそこ詳しいんだ」


 おじさんは冗談めかした笑いかたをしたが、そりゃあ代官山には詳しいだろうととっくに思っていた。


「タランチュラって、なんなんですか?」


「ん? タランチュラ? すくそこのバーのことか?」


 いきなり聞いたのに、おじさんはするりと答えをくれた。


「バー?」


「うん。タランチュラって直ぐに読めないんだが、……良く知ってるなあ」


「いや、知らないんですよ。けどそこで……待ち合わせが……」


「知らない場所を指定されたのか? 相手も酷だな。タランチュラは古くからある……まあ、老舗だな。駅前の煉瓦作りのビルの地下にある。看板にタランチュラなんて書いてない。モヤモヤーっとした絵が目印だ。宇宙だか星雲だかの絵らしいな」


「おじさんは良く行くんですか?」


「あまり行かないな。今は家でのんびり一人酒がいいよ。缶ビールでね」


「そうなんですね……」


 寂しい言葉に思えるのに、おじさんの言葉からは一切の寂しさがうかがえなかった。むしろ本当に楽しんでいるように思えたのだ。

 ふと、大輔は二○一の白銅貨なる嫌な男について訊ねてみようかと思った。

 そしてインゴットについても。

 けれどなんとなく不愉快さが生まれ、大輔は口をつぐんだ。

 そう言えば今日は水曜日だった。

 タランチュラに行ってみようと決め、夜がくるまで布団に潜り込んだ。



 続く

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