第4話

 大輔は少し驚愕したことがある。

 帰宅して焼きたてのパンを食べたあと、十時も過ぎたことだしと買い物に出た。

 しかし、代官山のショップはどこも開いていなかったのだ。

 大抵は十二時に開店で、早くても十一時だった。

 ちょっと遅すぎではないだろうか。

 スマホでちゃんと調べてくれば良かったと、悔しく思った。


 結局またパン屋しかやっていない状況だ。

 再び帰宅する気も起きず、散歩がてら近くの大きな公園へ向かってみることにした。

 その途中、巨大な本屋があった。

 何度が通った道はその巨大書店の裏側だっため、なんの施設かさっぱりわからなかったが、表から見たときにビクリと体が震えた。

 蔦屋書店。

 大輔のよく知るツタヤと同じものとは思えなかった。

 三棟を空中回廊で繋ぎ、壁はほとんどガラスであった。

 中には魅せる陳列棚と、客さえもインテリアに変えてしまうベンチやソファーがある。

 ガラス越しに見える、芸術書の背表紙を眺めながら歩く青年。なんて絵になるシーンだろう。

 噂に聞く、代官山TSUTAYA、というやつか。

 大輔は思う。自分は、ガラスの向こうにいる青年のように、絵になるワンショットの登場人物にはなれそうもない。

 再びの劣等感から、大輔は足早に蔦屋の前を通りすぎようとしたが、なにやらむくむくと怒りが込み上げていて、くるりと踵を返すと蔦屋の中へずかずかと入った。

 なぜ怒りがわいたのか分からないが、ともかく、無性に腹立たしかった。

 本もろくに見ず、三つの棟をくまなく歩き回る。

 目につくもの全てが目障りで、しかしどれもこれも好奇心を掻き立てた。

 一番興味が沸いたのは車のコーナーだったが、一番読みたいと思ったのはファッション誌だった。

 英語やフランス語、そしてほとんど文字がないもの、新聞のようなもの。

 片っ端から読み漁ってゆく。

 文字なんて必要ない。写真さえあればいい。

 文字は邪魔だ。

 公園に行くのも忘れて、一心不乱にファッション誌に没頭していたら、いつの間にか正午などとうに過ぎていた。



 脳が疲れた。

 手にしていた洋雑誌を置くと、大輔はやっと時計をみた。

 十三時。

 空腹だ。

 フラフラしながら棟をでる。

 蔦屋の中にはカフェやスターバックスが入っていたが、入る気はしなかった。

 しかし腹が減っている。

 食べ物屋を探そうと蔦屋の裏側から細い道へ出る。裏路地のような小道がいりくんでいて、慣れない大輔に不安を与えてくる。

 どちらに進もうと一瞬悩み、右へ曲がってみた。

 そちら側は意識とセンスと値段の高そうなショップが乱立していた。

 う、と思うも、落ち着いて考えればここは何度か通った道である。


「そーいや定食屋の看板があったけな」


 それはあった。

 代官山の雰囲気から少し浮いているような、場末感かある。

 すゑ広。

 藍色の暖簾に白抜きで店名が書かれていた。

 外の看板の品書きは、ほとんどが売り切れになっていたが営業中の札はまだ下がっている。

 代官山で定食屋かよ、と自嘲が禁じ得ない。自分にはお似合いだとも思う。

 カラカラと扉を開けて中にはいる。

 ハンバーグ丼と西京焼き定食しか残っていないらしい。

 値段もやや高い。西京焼き定食が千五百円越えだ。代官山価格というやつか。

 ハンバーグもいいが、白い米が食べたくて、大輔は西京焼き定食を頼んだ。

 涙か出るほど、美味かった。





「あそこは通い決定だな」


 穴場の定食屋に満足である。

 腹が満たされ、美味いもので気分が高揚すると、大輔の足取りは軽くなっていた。

 昼を過ぎて代官山は本気の顔を出していたが、蔦屋で食傷気味であったので、もっと雑多な場所に行きたくなった。

 代官山からは渋谷が近いはずだ。

 しかし、渋谷か。

 若干、渋谷は怖い。そもそも渋谷には何があるのだろう。スクランブル交差点とハチ公以外に、なナニがあるというのか。

 大輔はスマホ画面に指を滑らせた。

 代官山から近いのは、中目黒と渋谷と恵比寿。

 むしろこの三つの駅の中心にあるのが代官山のようだった。


「恵比寿……? なんだろ、知らね」


 ビールの名前なら知っているが、聞いたことがない。

 確実に渋谷よりも小さいだろうし、中目黒みたいにお洒落っぽくない。小さな下町の雰囲気がある。

 駅ビルの中にパン屋とお菓子屋が入っている。

 ちょうど良い気がした。

 大輔は恵比寿に向かうことにした。

 定食屋を出て左に行くと、奇妙な緑のオブジェがある。

 それが巨大な花だと気がついたのは、信号待ちをしているときだった。

 花の根元を横切って、スーパーの入っている商業施設をつっきり、足元がふわふわしている渡り廊下みたいな橋を行き、代官山駅に入った。

 改札は通らずに正面口から再び出ると、左に進む。

 緩やかに湾曲している坂道。

 代官山の中心部から離れると、人通りもまばらになってきた。

 半地下の店舗に店が入っている。古いビルに見えるけど、ちゃんとテナントで埋まっている。

 パン屋が多い。そして美容院も多い。

 大輔は自分の髪を撫でた。

 代官山にも美容院や床屋があった。あちらは敷居が高そうだから、この辺で切ってもらおうか。

 そんなことを考えていると飲み屋街に入った。焼肉屋もある。チェーン店もあって、やっと大輔は安心することができた。

 飲み屋の路地を進むと目の前が開けて、大きな建物が現れた。

 ロータリーの向こうに駅ビルがあった。カルピスの巨大な看板がかけられている。

 小さな駅かと思ったが、やはり東京、これくらいは当然の迫力だろう。代官山の駅にはちょっと驚いたが。しかし代官山は小さいのにお洒落だった。

 恵比寿は大きいがお洒落な雰囲気はないので親近感がわいた。ユニクロが入っているかもしれない。着替えを買わないといけないのだ。

 しかし駅ビルにはユニクロは入っていなかった。むしろメンズ服が少ない。


「使えないな……」


 恵比寿の男たちはどこで服を買っているのだろうか。

 駅ビルを散策し、雑貨屋やインテリアショップ、時計屋に本屋と渡り、少ないメンズ服の店で着替えを数着購入した。

 なにが似合うかを考えていたら、店員が話しかけてきたので困惑した。苦手なのだ、店員に話しかけられるのが。

 しかし大輔はふと思い出した。

 今は金がたくさんあるのだ。五億あるのだ。店員に適当にお勧めされた服を全部買ったって、どうってことないのだ。

 そう思ったら、大輔はしばらくは着まわしに困らない程度の服や靴を購入していた。

 ポイントもたっぷりついて、アプリもインストールさせられた。いいカモだと目をつけられただろう。

 けれど、五億あるのだ、どうってことない。

 心の余裕は金の余裕でもあるんだな。

 そんなことを考えながら、大輔は店を出た。

 帰りにお菓子屋の並ぶフロアに立ち寄った。

 引っ越しの挨拶になにか良い物はないだろうか。なにが喜ばれるだろうか。

 そう考えたとき、胸がズキッと痛んだ。

 喜ばれるだろうか。迷惑がられないだろうか。嫌な顔をされないだろうか。キモいとかいわれないだろうか。

 胸がズキズキしてくるし、胃がシクシクしてきた。

 洋菓子、チョコレート、和菓子。様々な菓子が並んでいる。

 どれがいいのだろう。

 金の余裕から生まれた余裕など、あっけなくどこかに散ってしまった。

 考えてみれば、両肩にでかい紙袋を下げたヨレヨレの服装の男子など、ダサさの極みだ。

 東京デビューをしようと空回りしている痛い奴だ。

 恥ずかしい。

 気持ち悪い。

 可哀想。

 ダサい、痛い、かわいそう。

 胃がシクシクして止まらない。


「すみません、お願いしていた揚げまんじゅうを受け取りに来たんですけど」


 ひときわ明るく可愛らしい女声の声がした。

 思わず視線を向けると、隣に綺麗な女性が立っていた。

 綺麗で、活発そうで、可愛くて、背筋がピンとしていて、パステルピンクのカーディガンとクリーム色のスカートをはいていて、やはりパステルピンクの長財布を持つ手の爪は、ピカピカしている。


「十個、揚げまんじゅうと揚げ煎餅のセットのやつを急ぎでお願いしていたんですけど」

「はい、のしつきで承っていたお品ですね。ご用意できております」

「助かります! お得意様がこちらのお菓子をとても気に入ってまして、ほんと助かってます」

「こちらこそいつもご贔屓いただきましてありがとうございます」

「みかど屋さんの揚げ煎餅と揚げまんじゅうは間違いないですから! あと、のしつきのものとは別で、揚げまんじゅうを三十個ください。普通のとゴマと季節餡のを十個ずつ、箱はなくて大丈夫です。領収書は別々で」

「かしこまりました。少々お待ち下さい」


 大輔は目の前にいる女性と、目の前のショーウィンドを交互に見た。


「あ、あの……」


 大輔は思わず声をかけていた。

 女性は、え、と呟き、恐る恐るといった具合で振り向いた。


「あの……、すみません、」

「は、はい……、なんですか?」


 女性の表情が歪んでいる。大輔の心臓が捻れるように痛んだ。

 嫌がられている、気持ち悪がられている。

 声をかけなければよかった、けど、今会話をやめたらもっと気色悪いやつになる。


「あの、こちらのお菓子は……喜ばれますか?」

「え、……と?」

「その、僕、東京に引っ越してきたばかりでして、近所に挨拶にこれから行きたいんですが、なにが喜ばれるかわからなくて、喜ばれたくて……、こちらのお菓子は……喜ばれますか?」


 口のなかが乾燥して、うまく舌が回ってくれなかった。

 女性はあっけにとられていたし、冷静に考えれば、お店の店員の前で大変失礼なことを言っていた。

 余計に焦ってしまい、視線が定まらない。

 少しの間があった。


「おすすめしますよ!」


 女性が満面の笑みで、そしてはっきりとした声でそう言ってくれた。

 大輔がビックリしてしまうくらい、芯のある言葉だった。


「喜ばれますよ。こちらの揚げまんじゅう、ほんとに美味しいんです。お得意様に挨拶回りするときはスッゴい重宝しますし、お客様のお茶請けで出すだけじゃなくって自分たちで食べる分のために買い置きするくらい! 私も大好きなんです、おすすめします。絶対喜ばれますから!」


 喜ばれる。

 この女性が言うのなら、絶対だと思った。

 自信がある人だ。誰からも好かれる人だ。表舞台を歩んでいて、揺らいでいない人だ。


 大輔はその言葉を信じ、アパートの部屋の数と同じ分だけ、揚げまんじゅうと揚げ煎餅のセットを購入した。

 そして女性に、ありがとうございました、と頭を下げて、一足先にショーウィンドから離れた。


「あ、ちょっと待ってください」

 すぐに大輔は女性に呼び止められた。

「えっ……?」

「おひとつ、どうぞ。購入されたの、ご挨拶用だけですよね。ここの揚げまんじゅう、本当に美味しいんですから! 是非食べてください!」


 そう言いながら、女性は揚げまんじゅうの小さな袋を差し出した。

 なにが起きているのか分からず戸惑っていると、女性は服屋の紙袋にそれをぽとんと落とした。


「引っ越しの挨拶に行かれるなんて素晴らしいですね。きっと良い東京生活になりますよ」

「……あ……ありがとうございます」


 今度はちゃんと声が出た。

 ありがとうございます。



 喜ばれる。

 喜ばれる、良い東京生活になる、喜ばれる。

 帰路は幸せな気分だった。

 代官山のお洒落な空気に気圧されることもなく、他人の目も気にならなかった。

 隣のおじさんは仕事から戻っているだろうか。

 早く挨拶をしに行きたかった。

 緑の小路に子供の声がこだましている。

 どうやら小学生たちが近くの道をはしゃぎながら通っているらしい。

 バイクの音は郵便か夕刊の配達。


「あ、ポストに名前書かなきゃな」


 改めて、鉄の格子門の横を見る。

 ポストは四つ。

 一○一は竹山。おじさんは竹山さんというらしい。

 一○二が自分。

 二○一にはH・K。

 二○二には名前がなかった。

 真上の部屋は空き部屋なのだろうか。たしか不動産屋は、このアパートのラスト一部屋と言っていた。

 安全面から名前を出していないのかもしれない。

 一○二のポストに何か入っていた。

 案の定チラシだ。近くにピザ屋があるらしい。エステサロンのチラシもある。さすが代官山だ。

 チラシの間から、茶封筒が出てきた。


「えっ」


 まさか、と思った。

 少し嬉しかったが、その宛名を見て、がっかりするというよりも首を傾げた。


 渋谷区七曲町

 七曲ハイツ

 一○二


 インゴット様



 続く

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