第5話
インゴット?
なんだろうか。
裏をひっくり返したが、差出人の住所はおろか名前も書かれていない。大輔は眉根を寄せた。
前の住人宛の手紙、だろうか。
いたずらだろうか。
ポストに入れ直すのも少し気味が悪くて、ひとまず回収した。
部屋に入り荷物を置くと、窓を開ける。
風が通り抜けていった。
窓を開けっぱなしにしても平気そうなくらい、のどかだった。
少し寒いが、心地が良い。
「さて、と。どうしようかな。……インゴット……様宛の手紙」
ペラペラと目の前で振る。あまり中身は無さそうだ。緑の木漏れ日に透かしてみた。
「わっかんねーわ、そりゃそうだけど」
開けてみようか。
耳元で小さな悪魔がささやいた。
「いやー、それは流石にね」
せめて差出人が分かれば、送り返すことができるのだが。
喉に魚の小骨が刺さっているようだ。気にしなければそのうち消えるのに、気になってしかたがない。
「……、いいや、うん」
大輔は手紙を置き、かわりにお菓子の包みを一つ抱えると、のどかな空気に毒されて、窓を全開のまま部屋を出た。
ぐるりと半周しておじさんの部屋の前に立つ。竹山の表札は年期が入っていた。
ノックするが返事はない。
「こんにちは。隣に越してきた淋代ですー。挨拶にうかがいましたー」
よくある台詞を叫んでみたら、少し面白かった。ひひひ、と小さく笑いが出てしまった。
おじさんには明日の朝また会えるだろう。
次に二階に上がってみることにする。
錆び、蔦が巻き付いた階段は、見た目よりも頑丈にできていた。カン、カン、と音が鳴る。これだけ響けば下の階の部屋に響きそうだが、昨夜も今朝も大輔は足音を聞いていない。
防音加工のお陰かもしれない。
「もしくは人がいないか」
真上の階、二○二の窓は分厚いカーテンが閉められていた。表札はない。人が住んでいる感じは全くしないが、ドアノブにガスや電気の説明書が下げられていないので、住人がいる可能性はある。
ノックをして、声を掛ける。
「こんにちは。下の階に越してきた淋代といいます。ご挨拶にうかがいましたー」
返事はない。虚しさで息苦しい。
「ご帰宅前……かな」
きっとそうだろう。
となると、隣の二○一も居ないだろう。
それでも年のために隣に赴いた。
こちらは生活の気配がした。磨りガラスの向こうにうっすらとクッションの影が見える。ユニオンジャック柄かもしれない。
お洒落な人が住んでいそうな気がした。
「こんにちは。同じアパートに越してきました、一○二の淋代と申しますー。ご挨拶にうかがいました……」
声は尻すぼみ、遠くからガラスの鳴き声が侘しく響いた。
平日の夕方。
普通なら、大人はまだ仕事をしている時間。
少し前まで大輔もそうだった。辞めてそんなに時間が経っていないのに既に感覚を忘れている。
ま、スーパーはシフト制だったしな。
自分に言い訳をしてみるが、社会からものすごい早さで置いていかれている気がし始めた。
背筋に冷たい風が吹き付けている。
生活する金はある。
五億。
孤独で、五億。
「……………………」
気持ちが急激に沈んだ。
せっかくお姉さんにお勧めしてもらったお菓子が空虚に思えてきた。
一人で食べようかな。
足取り重く大輔は自分の部屋に戻った。
その部屋には清々しく風が吹き込んでいた。美しい木漏れ日もさしていた。
けれど、部屋にはなにもない。
部屋のすみに、ビニール袋に入った細々とした生活用品が置いてある。服屋の紙袋。着替えた下着に、纏めたゴミ。
五億あるんだけどなあ。
いや、これからだ、これから変わるのだ。
自分を奮い立たせようとしても、どうにも心は動かなかった。
お菓子を紙袋にそっと戻し、部屋の真ん中に胡座をかく。
見上げると、そこにははだか電球。
大輔はおもむろに、ポストに投函されていた手紙を手に取った。
渋谷区
七曲町
七曲ハイツ
一○二
インゴット様
七曲ハイツ一○二の住人は、誰だろう。
「……俺だな」
インゴットは、今は、自分かもしれない。
茶封筒の裏面を見る。〆の代わりに蝶の柄のテープがはってあった。
差出人は女性だろうか。
大輔は手紙を開けた。
***
インゴット様。
何回お手紙を差し上げたことでしょう。もはや回数など分かりません。
きちんと届いているのかもわかりません。
しかしお待ちしております。
お願いいたします。
水曜日の夜。タランチュラ。ニコラ。
内容はお会いしましたら直接お伝えしたします。
どうか、お願いいたします。
***
続く
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