第3話
「さっむ……」
最悪の目覚めだった。
固く冷たい床の上で寝ていた。起き上がろうとして、肩や首や腰が変に痛み、なかなか動けなかった。
スマホを見ればまだ朝の五時である。カーテンがないので二方向から明るい光が注ぎ込んでいた。
布団、買おう。
起きて真っ先に考えたのは、寝るときのことだった。
寝て起きてむしろ疲労が増した気がするが、再び寝るのは選択の誤りで間違いない。
買っておいたペットボトルの水を飲み、パン屋の美味しいメロンパンを腹に詰め込んだ。
チェリソーは、鍋がなかったので茹でられず、フライパンもなかったので焼けもせず、部屋の片隅に置いてある。
鍋と食器も買おう。
向かい合う窓を開ければ、冷たい風が勢いよく吹き込み、部屋をぐるぐる旋回してから外へ出ていった。
「おー、おはよう」
窓の外にはおじさんがいて、スウェット姿で椅子のようなものに腰かけていた。
低めの作業台かもしれない。
脇にコーヒーカップが置かれ、新聞を手にしている。
「おはようございます……。お早いんですね」
「歳だからなあ。いや、そう言う君も早いじゃないか」
「あ、ちょっと寝れなくて」
「コーヒーをあげようか。ちょっと待っててくれな」
「え?」
おじさんは新聞を台に置くとサッと部屋に入った。
おじさんの部屋には縁側のようなものがついていて、大輔の借りた部屋より間取りが広そうだった。
二階を見上げると、一階よりも狭い。
おじさんの部屋だけが違う間取りのようだ。
最古参だからだろうか。それともなにか別の理由があるのだろうか。庭も自由に使っているし、昔になにか物語があったのかもしれない。
ぼんやりと空想していると、おじさんは小さな縁側から姿を表した。
味のあるコーヒーカップを手にしている。
「そのちゃぶ台の出番だなあ」
なぜか嬉しそうに、おじさんは大輔の窓の下にある小さなテーブルを引き出した。
「コーヒー党でね、自分で豆を挽いてるんだ。お口に合うかはわからないが」
「ありがとうございます」
おじさんの淹れてくれたコーヒーは少し濃く、苦味が強いか酸味は少なかったので、大輔は美味しくいただくことができた。酸味の強いコーヒーは苦手なのだ。
「美味いっす」
「そうか、嬉しいねえ」
にこりと笑ってから、おじさんは新聞を開いた。
庭に鳥がやってきている。
爽やかな朝だ。
おじさんは仕事をしているらしい。
準備があると言って部屋のなかに戻っていった。
てっきり定年退職をしているかと思っていた。どんな仕事なのだろう。少し気になったが、仕事の話を振れば自分にも返ってくる。
無職と答えれば、金のことを聞かれ、宝くじで五億のことも知られる。
実家のことを聞かれ、連絡したのかと聞かれ、過去のことを聞かれるかもしれない。
想像したら体が重くなった。
胸の辺りに鉛の玉がつまっている。
心の分厚く重たい鉄の扉がギギギギと閉まり、断頭のようにガチャンと音をたてて施錠がされた。
これでは田舎にいたときと同じだ。
全然変われないじゃないか。
なんのために東京に来たのかを大輔は思い出した。
しかしおじさんはもう庭にはいない。明日の朝、もしくは今日の夕方、また顔を会わせたらなにか話をしようと決めた。上っ面の会話ではなく、少しだけ中身のある話をするのだ。
そう思ったらば、飲み終わったコーヒーのカップが素晴らしいアイテムに見え始めた。
これだ。
洗って乾かして返す。こちらから話しかける切っ掛けにはぴったりだ。
大輔は早速コーヒーカップとソーサーを洗った。
そして引っ越しの挨拶をすべきだと気がついたのだ。
出来ることなら面倒なことはしたくはないし、東京は近隣住民との関わりが少ないと聞く。けれどここは昔からの住人の街であるし、町内会もしっかりしていると不動産屋も言っていた。
同じアパートの住人には、せめて挨拶くらいしておくべきかもしれない。
だろう。
きっとそうだ。
絶対そうだ。
緊張で胸がドキドキしてきた。人と関わるのが怖い。無視されたらどうしよう。
けれど自分は変わるのだ。
そのために、逃げてきたのだ。
気分を新たにするため、シャワーを浴び、着替えてアパートを出た。
近くには小学校や高校がある。道を学生が歩いている。そりゃあそうだろうと自分でも思うが、朝の代官山に高校生や小学生が歩いている様は不思議な光景に思えた。
そして通勤者がちらほら歩いている。
こちらも不思議とハイセンスな人々に見える。みんなブランド物の服や靴を身に付けているのだろうか。
区民センターがあり、トレーニングジムが九時から解放されていて、老人や外国人がドアに吸い込まれていった。その建物の前をフレンチブルドッグを連れた人がてくてくと歩き、ロードバイクが颯爽と追い抜き、はっと気がつけばとんでもない豪邸があって、そこから中年男性が出てきて車に乗る。
だからどうしたというわけではないが、今まで田舎で過ごしていた朝とは違う空気と時間が流れている。
コンビニに寄れば、ランニング中の金髪の外国人が水を買いに来ていた。
自分の知っている朝の風景と、どこかが違う。
なにも買わずにコンビニを出て、ブラブラ歩いた。音は聞こえるし人はいるが静かである。
不思議だ。
床屋がお洒落だった。お洒落なカフェがあり、朝食にエッグベネディクトやらクロックムッシュやらを食べらるらしい。
最近よく耳にする食べ物だが、実際に朝のカフェで提供している店を目の当たりにしたのは初めてだ。
今の感情の名前を、大輔はやっと見つけた。
居心地が悪い。
この街に、自分は拒まれている。
撥水加工された布に弾かれた小さな水の粒。
体が震えてくる。孤独だ。孤独。孤独。
そうだ、孤独だ。
けれどこれは良い孤独だ。
知っている人物に囲まれている上での孤独より、ずっと健康的な孤独なのだ。
孤独で当たり前。
「撥水加工撥水加工」
気を取り直し、勇気を持って店に入ろうと決めた。
が、やはりやめた。
お洒落すぎる。三日も着っぱなしの服では入れない。
大輔はブラブラ歩きを続け、パン屋で焼きたての惣菜パンとクロワッサンと牛乳を買って帰路についた。
「そろそろ米が食いたいな」
七つに曲がる道の、三つ目の角に差し掛かった時だった。
向かい側から素晴らしいシルエットのスーツを着た、銀縁眼鏡の青年が歩いてきた。
昨日のエリートだ。
見知った顔が歩いてくる。
大輔は思わず会釈をしてしまった。
するとエリートの青年が眉を潜めた。
けれど、その人は会釈を返してくれた。
撥水加工。
水が染み込む。
続く。
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