第9話 旧暦七夕の懺悔
2000年1月の終わり、京子さんとロシア料理店で会食してデートをすっぽかした事の真相を語って謝ってくれた橋本貴弘くんは3月の末、
自室のドアノブに首を吊って死んでしまった。発見したのは交際していた後輩OL。
原因は後にパワーハラスメントと呼ばれる上司による圧力と嫌がらせが続いたからだ。
京子さんが貴弘くんの死を知ったのは突然職場に来訪した刑事に聞かされてからだった。
彼の机の上に京子さんの名刺が置かれていたので同級生で精神科医の彼女に何らかの相談をしていた可能性がある。
「…と思って鍛冶先生にお話をお伺いしたのですが、同窓会に参加してメールアドレス交換と一緒に食事しただけなのですね」
「はい」
「で、そのロシア料理店ではどんなお話を?」
「中学の時にデートをすっぽかした事を謝ってくれただけですよ。こっちもそんな昔の事気にしてたんだ!?と驚きました。そんなに義理堅い人だったなんて」
収穫なし、と言うように刑事たちは少し背を丸めて帰って行った。
彼らを見送った京子さんはドアノブに外出中のプレートを掛け、医務室の鍵を閉めてからずずず、と文字通り腰を抜かしてドアにもたれて倒れ込み、声を出さずに嗚咽した。
タカヒロくん、どうしてこんなことに!?
理由が理由なだけあってお葬式は親族だけの密葬という事になった。
ひと月後、親しい友人と同級生が集まるお別れ会を行い彼のご両親が形見分けに、と提供してくれたバスケットボールのグッズを中心とする遺品のうち、母校の名を記したユニフォームの形をしたキーホルダーを受け取った。
有名な企業での事なので会社は上司を庇い、交際相手を脅して事を隠蔽しようとしたが、彼女と遺族の頑張りにより裁判で労災が認められ、加害者である上司も系列の会社に出向させられた。
裁判では勝った。加害者も罰を受けた。
だけれどその人が居なくなった空白は永遠に埋まることがないのだ。
初恋の人の自死という心の傷を埋めるために京子さんはますます仕事に打ち込んだ。ちょうどその頃職場での人間関係による自死が増えている事を政府側も問題視し始めていた。
急な労働力の減少を憂慮する。ということで。
産業医である京子さんも人に言えない悩みを打ち明けに来る相談者に向き合い、「今あなたに必要なのは睡眠と休養をとることですよ」とその人向けの治療を行い必要とあらば診断書を書いて休養を促し、職場復帰までのサポートに必死に取り組んだ。
この仕事を続けていく内に京子さんは、人間というのは傷つきやすい心を持った有機体である筈なのに、会社というのはやれノルマだの売上だの品質の向上だの納期だの、
「お前はもっとできる筈だ」
と壊れても働け、という本音を隠した残酷な激励を平気で言うのだろうか?
いつからだ、いつから人間を壊れても替えの効く道具として扱うようになったのか。
タカヒロくんの死から一年後、京子さんはハラスメント加害者を集めたセミナーに講師の一人として招かれる事になった。
「おいおい、女が産業医になって物申す時代だなんて日本は終わっているなあ」
集められた中年から初老の男たち。みんな戦後経済成長期に就職し、家族も省みず働いてきたビジネスマンたちで自分の出世の為なら平気でライバルを潰してきた過去を持っている。
「俺は2人潰した」「いや俺は4人潰した」ということを何かの勲章のようの語り合っている呪いのように頭の硬い男たち。
時代は変わり、会社上層部からこのワークショップを受けなければ自分が職を追われる。という最後通告を受けて「お手柔らかに頼むよお嬢さん」と軽い口調でお願いする、自分がやってきた事を本気で反省していない、追い詰められた老いた男たちだった。
「俺なんか2人自殺させて未だにぴんぴんとしているよ」とメッシュ白髪の初老の男がビール腹を揺すって笑った。
いた。と京子さんは思った。元四葉証券の相田部長。
無理なノルマを課す。時間外労働は当たり前。「いいよな今時の若い者は、彼女と遊んでる暇があったら働けよ」という執拗なメール攻撃(それが会社ごと裁判で負けた決め手となった)で、
直接手を下さずにタカヒロくんを死に追いやった人物だ。
お手柔らかに、ですって?
相田部長、あなたをはじめ参加者全ての経歴は調べ尽くした。それぞれの勤め先への上層部にも「では、やっていいのですね?」と許可を取った。僅かに葛藤があったので大学時代の恩師にも相談した。
やってもいいし、むしろやるべきだ。というのが彼らの結論だった。
参加者があらかじめ書いてきたレポートを提出し、助手である臨床心理士がそれを集めて受け取った京子さんが目を通す。
「では、始めますね。私は鍛治京子、精神科医として某企業の産業医をしています。今時の若い者ですがよろしくお願い致します」
と鏡でチェックして作り上げた「知的だけれど男受けのいい柔らかい笑顔」を浮かべてからまずは黒板にチョークで図を描きながら職場ストレスについて講義した。参加者たちは興味が無い様子で時が流れるのを待つ、という様子だった。
1時間の講義が終わった後、
「えー皆さんが出して頂いたレポートに基づいて今からロールプレイを行います。そんなに緊張なさらずに。おひとり5分から10分で終わりますから…まずはあいうえお順に相田さん」
相田光俊、53才。部下の遺族に訴えられて子会社の工場に出向。在庫管理を任せられているがそこでも女子事務員をいびってストレスで休職に追い込んでいる。
これからの社会の為に彼らのような人間を容認してはならない。
精神科医としてよりもまず人間として鍛治京子は切実にそう思って即興で作った脚本を読み上げた。
あれは去年の6月。ビルの15階の窓に雨が激しく打ち付けていた。と今になっても京子さんは思い出すのだ。
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