トルデリーゼのしあわせ屋 Trudelise Gift

雨の降る繁華街の奥。薄暗い路地裏にその女はたたずんでいた。

彼女にとってはいつも通りのゴシック調の黒尽くめに、左手には懐古的レトロなデザインのトランクをぶら下げ、右手にはそのまとう服と同様の意匠いしょうらした傘をさしていた。その視線の先、細い通路の先にある繁華街の表通りは雨とネオンによって、どこかけむっている。


「お前か」


突然かけられた声に驚く様子もなく、しかし緩慢かんまんと言うよりは悠然ゆうぜんと、女は振り返る。振り返った先にいたのは、その凶悪な雰囲気を隠そうともしないガラの悪い男だった。


「最近この辺りに現れちゃ変なヤクを進めてくる女、だな?」

「変なヤク? ああ、ヤクですか」


ダークブロンドの髪を揺らし、彼女はこてんと首をかしげて答えた。ほのかに笑みを浮かべる緑の目を縁取る睫毛まつげも髪と同じ色合いだ。カラーコンタクトや染色には見えない。


「変なつもりはないのですが」

「はん、なんだっていいさ。お前が俺のシマで勝手な事をやってるには違いねえ」

「なるほど。そういう事ですか」


女はほんのわずかに納得した表情を浮かべる。もともと表情が豊かな人間ではないらしい。


「それはどうも失礼致しました。私はトルデリーゼ。しあわせ屋のトルデリーゼです」

「しあわせ屋?」


聞き慣れない言葉をたまらず聞き返した男にトルデリーゼはうなずく。


「はい。私は誰もがしあわせになる薬を売っているので」


にっこりと笑ったトルデリーゼはいつの間にか傘を持ち替え、左手に小瓶を手にしていた。現実離れした幻想味溢あふれる、それでも如何いかにもそれらしい小瓶の中の液体は無色透明で、トルデリーゼの肩越かたごしにネオンの原形を留めないほどゆがませてかす。


「それで、いくらだ」

「あら、売っていると申し上げましたが、対価は金銭以外で頂きますの」


うふふ、とトルデリーゼは笑った。


「しあわせになったその様を私に見せて頂ければ結構ですわ」


男が無言でてのひらを上にして差し出せば、トルデリーゼは微笑みながら小瓶をその手の上に置く。


「飲み薬か。どういう系統だ? 興奮アッパーか、抑制ダウナーか、幻覚サイケデリックか」

「それは是非ぜひご自身で」


余裕の笑みを浮かべたままのトルデリーゼに、男は鼻を一つ鳴らすと小瓶のふたを開けてその中身をあおった。


「幸せ、か」

「ええ、まあ効能が出るまでに時間が少々かかるのが難点で」


ですから、少しおしゃべりをしましょう。

そう、トルデリーゼは木漏こもつつまれた少女のように笑った。


* * * * * * * *


貴方は『幸せ』とは、どのようなものとお考えですか?


私はね、こう思うのですよ。

貴方にとっての『幸せ』と、私にとっての『幸せ』が違うように、皆それぞれの『幸せ』は違うのです。

では、皆が『幸せ』になるにはどうすべきか。それは、とても簡単なのです。

『幸せ』というものが概念であり、それに関する思考、妄想もうそうの類いである以上、それは至極しごく皆の近くに存在しているのです。

それはね、頭の中なんです。

それを具現化ぐげんかしてこそ、本当に『幸せ』なのでしょう。が、そんな事はできないのが世の常です。

しかし、確かに残念ながらこの世界に、思った事そのままを具現化する事はできません。

でも、それは、現実〈この世〉に限った話であるのです。頭の中のモノを具現化する世界。それはすなわち夢です。ならば、夢を現実〈この世〉にしてしまえば良いのです。


時に『Somnusソムヌス imagoイマーゴ mortisモルティス.』という言葉をご存知ぞんじですか?


そうですか。いえ、続けましょう。

結論から言えばひどく簡単なのですけれど……ふふ、貴方は夢をどうお考えで?


ふむ、まあ一般的には、記憶の整理、心身の状態の表れなどとする事が多いですが、それで説明がつかない不可解ふかかいな夢を見たりもしますよね。

ですが、明晰夢めいせきむというものがあります。

夢の中でこれは夢だとわかった状態であり、場合によっては意図的に夢の内容をあやつれる。

『幸せ』になるためには、この明晰夢を見続ける状態であるべきなわけです。


* * * * * * * *


不意に、トルデリーゼがその形の良い小さな口をつぐんだ。

話す内に次第しだいに熱がこもった表情は、トルデリーゼの緑の目を爛々らんらんと輝かせている。

今までの、にこやかなだけの表情とは違う何かを乗せて、その口角が持ち上がるのを、男はかすむ視界で見た。

霞む?


Somunus imago mortis眠りと死は似姿. 眠りと死が互いの似姿であるなら、死にも夢はあるでしょう。だから」


男は膝からくずれた。

叩きつける雨粒の冷たさも、濡れた地面の冷たさもない。


「『死遭しあわせ』になるのです。貴方はこれから夢を見る。それを明晰夢にするためにも、くれぐれもご自身は死んだという事をお忘れなく」


暗い視界。触覚しょっかくまでもむしばまれるように無くした中で、男の耳だけが感覚器官としての役割をまっとうしようとする。


「ああ、そうです。折角せっかくですから、貴方を祝福しましょう」


嬉しそうな声でトルデリーゼは言った。

男に最後に残された聴覚だけが、トルデリーゼの声でつむがれる有名なクラシックのメロディをとらえる。


Freude, schöner喜び、美し、 Götterfunken,神の光よ

Tochter aus Elysium,楽園より来たりし娘よ

Wir betreten我らは炎に feuertrunken,酔いしれて

Himmlische,高みなる貴方の聖域へと dein Heiligtum!踏み入る!

Deine Zauber貴方が御業は binden wieder,世のしがらみに

Was die Mode酷しく分かたれたものらを streng geteilt,再び繋ぐ

Alle Menschen全ての人が warden Brüder,兄弟となる

Wo dein sanfter貴方の柔らかな翼が Flügel weilt.憩うもとで


どこか楽しげで嬉しそうなその歌声を聞きながら、男の聴覚は歓喜とは程遠い感情を抱いたまま、永遠の沈黙に閉ざされた。


「さて、次は何方どなたをしあわせにすればよいのかしら?」

歌い終わった唇でそう呟き、小さく首を傾げると、彼女はその路地から雑踏賑わう表通りへと足を運ぶ。

完全に合流しきる前に、雨が止んで用無しとなった傘をたたむと、そのままその黒い姿は雑踏にまぎれてしまった。


* * * * * * * *


私はTrudelise Firesingerトルデリーゼ・ファイアージンガーGiftで人をしあわせにする、死遭わせ屋のトルデリーゼ。



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Gift

 ドイツ語にて「毒」の意。英語で「贈り物」を意味するgiftと同語源である。

 しかしドイツ語においては「悪意のある贈り物」という意味で「毒」という意味へと変わったという。


Frau Trudeトゥルーデおばさん

 KHM43。グリム童話に収録されたお話。

 好奇心旺盛な聞かん坊の娘が両親の忠告に従わずに魔女と言われるトゥルーデおばさんの家を訪ねるお話。

 トゥルーデおばさんの本当の姿を見てしまった娘は薪にされて暖炉へとくべられてしまう。

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