仕合せの収穫 B


私は此の世界が嫌ひだ。


愚鈍で低俗な此の世界を今直ぐに蹂躙し、破砕し、擂り潰し、細切れにし、然うして暴虐と凌辱の限りを尽くして後に、火にべ、無に帰せると言ふなら、其れは何れ程に幸せな事だらう。


其れは、唯一無二なる例外たる、貴方と出逢ふ迄の話だ。


常に憂ひを含んだ眼で、優しく微笑む貴方は、端的に言へば、私とは全くの正反対だつた。

私と同じやうに、現実にんでゐると言ふに、貴方は私のやうに世界を嫌ふ訳で無く、自身を嫌つてゐた。

世界を憎み、唯己が身を愛する私と違ひ、貴方は唯己が身を憎み、世界を愛してゐた。

己が身を憎みながら、他者を、世界を、世界と敵対する事さえいとはぬ程に世界を憎んだ私でさえも、貴方は等しく愛してゐた。


其の様に先ず覚えた感情は、畏怖だつた。

次に覚えた感情は、敬愛だつた。

私は其の感情に素直に従つた。

然うして、貴方とちかしくなつた。


貴方に覚えた三つ目の感情は、憧憬と、嫉妬だつた。

此の世界を愛せる事。

此の世界のあまねく在る物に愛を注ぐ事。

其れは私には出来る筈も無く、私のやうに此の世界を厭つてゐる訳では無い徒人ただびとであつても、普通に出来る事では無い。

其れ故の畏怖と敬愛と憧憬だつた。


一方で、貴方の其の愛は、私の大嫌ひな此の世界を通して私に齎されるのだと氣が付いた。

今の儘では、私は貴方にとつて、愛する世界の極一部でしか無いのだ。

貴方は私を見てくれてはゐ無いのだ。

其の事実は何うにも私の胸を締め付け、掻き乱し、はらわたが煮え繰り返る程に腹立たしかつた。

何うしたら、貴方は私を見て呉れるのだらう。

私が此の世界のかたきと成れば、貴方は私を見て呉れるだらうか。

其の美しい両の五指を揃えて、醜悪な私の喉を捉え、私をくびり殺して呉れるだらうか。

其れとも、此の腹を切り裂いて、其の優しい手で、嫉妬で煮詰められたわたを引き摺り出して呉れるだらうか。

貴方の指が屍肉に成りつつある私の肉体に触れ、あまつさえ其の内側に在る物に触れると言ふ夢想は、私を恍惚へいざなふ程に甘美だつた。


しかし、其処で、はたと氣付いた。

畢竟、其れでは此の世界を通してしか、貴方は私を見てゐ無い。

だが、私の体内に貴方の指が、手が入る。

其れは痛みをともなはうと、伴は無からうと、余りに甘美な恍惚を喚び起こすので、此の後も幾度と無く夢想する事にはなつた。


閑話休題。

如何にすれば、貴方は私を見て呉れるのか。

其れを考えてしばらくした頃に、私は貴方の口癖に氣が付いた。


――僕はもう僕で居たくは無い。


貴方は屡々しばしば、憂ひを含んだ悲しく美しいひとみで、う呟く。

私が貴方に美しいと、好いてゐると告げれば告げる程、貴方の睛はヴェヱルを重ねるやうに美しいかげりを増して、然うして、其の口癖をなまめかしい色をした唇から紡ぎ出す。

嗚呼、優しい貴方はきつと此の世界を愛してゐるから、其の望みを叶えられはし無いのだ。

貴方の優しさが貴方自身のほだしとなつてゐるならば、きつと貴方は其の望みを叶えられまい。

貴方の悲痛な声に引き摺られるやうに哀しみを覚えながら、其処で又、はたと氣付いた。

ならば、私が其の幾重にも貴方を繋ぐ鎖を壊せば良いでは無いか。

嗚呼、でも貴方が本当は其れを望んでゐ無かつたら。

ならば、今から数えて、一萬回。

貴方が私の前で然う口にしたならば、私は貴方を此の世界からさらはう。

此の世界を愛した貴方を、此の世界を嫌ふ私が奪ひ去らう。

其れは天啓にも似たひらめきで、我乍ら感心した。

貴方はそんな事は露と知らず、私の前で翳りの色香を増しながら、口癖を呟く。

何時の頃からか、私は其の口癖を聞く度に、私の心に、ぱつくりと傷が口を開け、其の血の滴る傷口から、青い青い竜胆りんだうつぼみが顔を出すと言ふ夢想をするやうになつた。

だが、この竜胆が咲く事は未だ無い。

この蕾は私が貴方を此の世界から拐つた其の刹那に大輪の花を咲かせ、然うして直ぐに貴方と私の死を見送り乍ら、枯れ朽ちて逝くのだ。


――僕はもう僕で居たくは無い。


到頭とうとう、一萬回目の其の言葉を数えた時、私は竜胆の蕾を繁らせ乍らたかぶる心を抑えて、冷静を装ひ、貴方に向かつて、用意してゐた言葉を紡ひだ。


――其れでは、死にますか。


貴方は驚いたやうに、一瞬だけ目を見張ると、何時ものやうに翳りの垂れ込めた睛で哀しげに笑つて云つた。


――嗚呼、然うだね。

  然う出来たら何れ程に仕合せだらう。


私の決意など露と知ら無い貴方は、恐らくは冗談だと思つてゐるのだらう。

私は一萬も数えた其の口癖が、真意で在るか、念を押す心算つもりう云つた。


――貴方が望むと言ふのなら、私がその手引きをしませう。


うれひの垂れ込めた貴方の睛は、かすかに冗談めかした色と諦観の揺らめきを乗せてゐる。


――本氣で言つてゐるのかい。

  惡戲いたづらぢやあ無いだらうね。


嗚呼、矢張やはり真意で在つた。


私の胸の竜胆は皆一様に蕾を膨らませる。

貴方の前で、私は其れ以上答へずに、努めて微笑みを保つた儘でゐた。



然て、貴方を拐ふ為の舞台には疾うに眼を付けてゐた。

此處から然程さほど遠くは無い森の奥に在る廃屋だ。

此の世界の誰もから忘れられたやうな彼の場所こそ、貴方を拐ふに相応ふさわしい。

だが、親愛なる貴方を、彼の朽ちてささくれ立つた固い床に寝かせる訳にはいか無い。

だから、真新しい寝台を調達した。

其處に真新しい敷布だけでは、到底足ら無い。

私には此の胸に生ひ茂つた竜胆が在るが、貴方をとぶらふ花は何が良いだらう。

嗚呼、然うだ。白い、白い花が良い。

だが、薔薇では如何せん華美に過ぎる。

雑じり氣の一切無い純然と純粋で無垢できよらなる貴方には、薔薇は似合は無い。

花韮は美しい花だが、名前の時点で使ふ氣には成れ無い。

然うして思ひ当たつたのは、白百合の花だつた。

純潔なる此の花こそ、貴方に相応しからう。

其れから、最後に貴方を此の世界から拐ふ為の毒を作つた。

菲沃斯ひよすの葉、狼茄子おおかみなすびの黒耀石のやうな実、曼陀羅華まんだらげの棘のある実、くもつた黒の竜葵りゆうき

然う言つたたぐひの植物から取つた液を集める。

出来るだけ、苦しみは無いやうにと、此れも此の決意を固めてから調べて眼を付けてゐた物ばかり。

出来上がつた其れを用意した小瓶に流し入れ、蓋をした。

私の作つた毒を飲み、白百合の寝台に横たはる貴方を夢想するだけで、私の唇は弧を描く。

ふと窓の外を見れば、丸々と太つた望月が不遜に夜空の星星を掻き消して、煌煌かうかうと辺りを照らしてゐる。

嗚呼、明日は十六夜いざよいの月に照らされながら、貴方を拐はう。

然うして、用意を終え久久に眠りに就いた私は夢を見た。

涌き出る清水の如く、純にして冷たい貴方の美貌が、白百合と月影に包まれ乍ら青褪あおざめて逝く。

其の様は美しいと言ふ言葉も生温く、否、如何なる言葉を尽くしたとしても、表現出来ぬ程に美しい、最上の夢であつた。

今日の成功を暗示するかのやうな夢から醒めた私は、頃合ころあひを見計らひ、久久に貴方の前に立つた。


――大変お待たせ致しました。


私の胸には、今にも咲きさうな程に膨らんだ竜胆が生ひ茂り、悲願を前に私は嬉しさを抑え切れずに笑ふ。

少し呆けたやうな貴方の手を引いて歩き出せば、貴方は引かれる儘に歩き出す。



――何処へ行く氣だい。


答へは決まつてゐる。


――此の世界のおわりに。


貴方に愛された此の世界から、世界を憎んだ私の手で、貴方を奪ひ、拐ふ為の場所に。

然うして、其の舞台に辿り着いた時には、日は落ち果て、十六夜の月が既に空に昇つてゐた。

月影は隈無くまなく降り注ぎ、冷たく白く照した全てから無慈悲に夜闇を奪ひ去り、さらけ出す。

其の光を頼りに最早通ひ馴れた道を、貴方を拐ふ為の舞台への道を、貴方の手を引き乍ら歩いて行く。


――さあ、此方です。


辛うじて残つた壁と扉の先で、既に整つた舞台が、貴方と私と言ふ役者を待ち構えてゐる。

貴方は私の用意した舞台に眼を見張り、寝台に寄つて立ち尽くし、更に眼球めだまを零さん許りに開く。

白百合の寝台は氣に入つて呉れたやうだ。


――何うせなら、美しく在りたいでせう。


云ひ乍ら、私はポケツトに入れてゐた小瓶を取り出した。

私の胸の弾けん許りに膨れた竜胆がゆるりと綻び出す。

貴方は其れを露とも知らず、私の持つ小瓶を見て、幾らか憂ひの晴れた眼で口を開く。


――毒かい。

――ええ。

――苦しいのかな。

――然う成ら無いやうに配慮した心算です。


云つて、一本を差し出せば、貴方は緩やかに其れを取り、幽かな音を立てて蓋を開ける。

其れにならふやうに、私も自分の小瓶の蓋を開けた。

ふと顔を上げれば、貴方は白百合の寝台を見た時よりも驚いた顔で私を見てゐる。


――君も死ぬ心算だつたのかい。


此れには私も驚いて、貴方の顔を見詰めて、口を開く事しか出来なかつた。


――だつて、貴方が居ない世界に意味は無いですし、

  貴方が独りで逝くだなんて、余りに寂しいでは無いですか。

――君は、僕なんぞの為に世界から其の身を切り離すのかい。


驚きと哀しみの混ざつた表情で貴方は云ふ。

嗚呼、此の人は、此の期に及んで、自分以外の全てを、其の一部としての私を愛してゐると言ふのか。


――“なんぞ”とは何ですか。

  幾度も私は貴方に申し上げました。

  私は貴方が好きだと、愛してゐると。


私が何れ程此の世界を憎み、貴方が愛する此の世界に何れ程の嫉妬をしてゐるのかも知らぬのか。


――貴方の為であれば、私は何だつて、其れが人道に背いてゐやうと、畜生以下の扱ひを受けやうと、何だつて出来るのです。


貴方の為なら、私は人で無くて構は無い。

無邪氣な子供が虫をいじり殺すやうにして、貴方に殺されたとして其れは本望でしか無い。


――貴方と共にゐる為なら、命の有無なぞ些末な問題に過ぎません。

  貴方を独りにはしたく無いのです。

  仮令たとい、今此処で貴方だけが死んだとしても、私は直ぐに貴方の後を追ひます。


貴方を拐ふのに、私が貴方の傍に居続けなければ、私の決意は何だつたと言ふのか。

嗚呼、今迄、貴方の前では笑ふやうに努めてゐたのに。

初めて眼前で激昂した私を驚いたやうに見詰めてゐた貴方は、私が今迄見た事の無い、晴れやかな柔い笑顔を私に見せた。


――きつと、多分、僕も君には、何か特別な感情を抱いてゐる。

  でなければ、斯うも嬉しくは無からうよ。


其れは最上の言葉だつた。

今迄の憂ひに満ちてゐた睛は今正に私に笑みを向けてゐる。

私を見て呉れてゐる。

其の嬉しさに私の顔は胸に茂る竜胆のやうに綻ぶ。

其れから、貴方と私は二人揃つて、小瓶をあおつた。

寝台に座つた貴方が、私に向けて手を差し出す。

晴れやかな優しい眼差しを注がれながら、私が其の手を取れば、貴方は白百合の寝台へと私をいざなふ。

誘はれる儘にひんやりと冷たい白百合の上に横たはれば、貴方もまた白百合の上に横たはる。

嗚呼、漸く私は貴方と同じ場所にゐる。

漸く貴方が私を見て呉れてゐる。

然も、憂ひの晴れた美しく歓喜に満ち満ちた眼差しで。

するりと私の手に指を這はせた貴方が、私の手を握る。

其の感触は、今迄幾度も夢想した、貴方が私の身体を捌いて、私の体内を其の優しい指先でまさぐりながら、五臓六腑を一つずつ引き摺り出す其れよりも、優しく痺れるやうな甘さが、水面の波紋のやうに全身に広がつた。


――本当に月が明るいね。

  今日は望月だつたか。

――いいえ。今日は十六夜ですよ。


其の甘さに酔しれ、私は月に照らされた貴方の青褪めた顔を見詰める。

貴方も真つ直ぐに甘い優しさの在る眼で私を見詰めて呉れてゐる。

横たはつた身の下で潰れひしやげてゐる白百合が芳香を上げ乍ら貴方を悼み弔ふ中で、私を弔ふ胸の竜胆が、歓喜にむせぶやうに、其の青い花に盛りを迎へた。

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