仕合せの収穫 A

僕は僕自身が嫌ひだ。

今直ぐに永遠に此の眼をとざし、此の世界から永遠に僕自身を切り離せると言ふのなら、其れはれ程に仕合しあはせな事だらう。

其れ程に、僕自身にとつて、僕が僕自身で在る事は、苦痛の種でしかない。

其れでも君は、そんな僕を綺麗だと、美しいと、嫌に褒めそやし、無慈悲な迄に深々と僕の胸を突き刺し、千々に切り裂いていくのだ。

此れ程にも醜悪で、愚鈍で、矮小な僕に、君は容赦なく崇めるやうな視線と、僕の身の丈には合いさうもない程の愛を注ぎ込む。

其れは僕のちつぽけな心では受け止め切る筈もなく、僕の心の脆弱な堤は直ぐに壊れ、こぼれてしまう。

僕は其の痛みに甘美と嫌悪とを覚えながら、突つぱねる事も出来無い。

僕を好いて居ると言ふ君に、憐愍れんびんと恐怖とを抱き乍ら、逃げる事など出来る筈も無い。


――僕はもう僕で居たくは無い。


何十、何百、何千と繰り返して来た其の言葉に、うに飽いているだらう筈の君は常と同じに薄く甘く微笑む。


――其れでは、


笑みをかたどった薄い形の良い唇からは、狗尾柳ゑのころやなぎの花芽のやうに柔らかな天鵞絨ビロウドの表皮に固い芯を孕んだ、耳に心地好い声が零れ落ちる。


――死にますか。


君は息をするかのやうに、至極当たり前のやうに、その言葉を口にした。


――嗚呼、うだね。

  然う出来たら何れ程に仕合せだらう。


其れが余りにも軽く、冗談のやうな口振りであつたから、合はせて僕も冗談のやうに答えた。

君は薄く甘く微笑んだ儘、次の言葉を続ける。


――貴方が望むと言ふのなら、私がその手引きをしませう。


薄く甘い微笑みは余りにも嘘臭く、僕は僅かな冀望きぼうも君に寄せられさうも無かつた。

此れだけ慕つてくれて居る君が、今更其れを言い出した事に残念でもあつた。


――本氣で言つてゐるのかい。

  惡戲いたづらぢやあ無いだらうね。


然う問ふても、君は一言も答へずに、其の嘘めいた笑みの儘であつた。

しかし、畢竟ひつきやう、君が僕を裏切る事等、在る筈も無かつたのである。


しばらく姿を見せ無いと思つた矢先に、君は僕の前に頬を上氣させ、其のつぶらな眼を耀かがやかせて現れた。


――大変お待たせ致しました。


につこりと満面の笑みを浮かべた君は、然う云つて僕の手を取り、歩き出した。


――何処へ行く氣だい。


僕の手を引く君は、匂い立つ花のやうに甘く笑つて、丸で詠ふやうにう答へた。


――此の世界のおわりに。


然う云つた君に誘はれて、漸く辿り着いたのは、森の奥の朽ち果てた屋敷だつた。

疾うに日は暮れたと言ふに、月影が其の屋敷の骸の内を冷たく曝し、その影には追い遣られた夜がぼんやりと、くらく深く蜷局とぐろを巻いてゐる。

君は其れを恐れる様子も無く、雨曝あまざらしの屋敷に足を踏み入れた。


――さあ、此方です。


辛うじて残つた壁に蝶番てふつがい一つだけで繋がつている扉を君が開くと、其の見るも無惨な部屋の中央には、一つだけ真新しい寝台が置かれてゐた。

不可思議なのは、真新しい寝台だと言ふに、其の敷布には斑に暗い色が散つてゐる。

近付いてみれば、唯の敷布だと思つてゐた其れは、寝台の上から溢れ落ちんばかりに敷き詰められた白百合で、斑に見えたのは花同士の間の僅かな隙間から見える茎や葉だつた。


――何うせなら、美しく在りたいでせう。


白百合の寝台の傍らに立ち尽くす僕に、君は今迄と何ら変はり無い猫柳の声で云ふと、其の上着のポケツトから二本の小さな瓶を取り出した。


――毒かい。

――ええ。

――苦しいのかな。

――然う成ら無いやうに配慮した心算つもりです。


差し出された一本を受け取り、蓋を開けると微かな刺激臭が鼻を擽つた。

氣が付けば君も瓶を開けている。

其れを見て、初めて君も死なうと為てゐるのだと氣が付いた。


――君も死ぬ心算だつたのかい。


君はきよとんとした顔で、逆に君が死ぬ事はないと僕が思つてゐたのが不思議だと言ふ様子だつた。


――だつて、貴方が居ない世界に意味は無いですし、

  貴方が独りで逝くだなんて、余りに寂しいでは無いですか。

――君は、僕なんぞの為に世界から其の身を切り離すのかい。


然う僕が云ふと、君は初めて眉と眼を吊り上げた。

僕の前で、初めて声を荒げた。


――“なんぞ”とは何ですか。

  幾度も私は貴方に申し上げました。

  私は貴方を好いてゐると、愛してゐると。

  貴方の為であれば、私は何だつて、其れが人道に背いてゐやうと、畜生以下の扱ひを受けやうと、何だつて出来るのです。

  貴方と共にゐる為なら、命の有無なぞ些末な問題に過ぎません。

  貴方を独りにはしたく無いのです。

  仮令たとい、今此処で貴方だけが死んだとしても、私は直ぐに貴方の後を追います。


僕は僕の為に命を捨てると言ふのに、君は僕の為に命を捨てると云ふ。

其れは、正直な所、とても嬉しいと何故か思つてゐた。


――きつと、多分、僕も君には、何か特別な感情を抱いてゐる。

  で無ければ、斯うも嬉しくは無からうよ。


然う云つて、僕は君に笑顔を向けた。

君はを赤らめて僕に笑ひ返す。

其れから、二人並んで、瓶の中身を一氣に飲み干した。

君の用意した白百合の寝台に腰掛け、君が僕を此処までいざなつたやうに、君を白百合の寝台に誘ふ。

君は、存外素直に僕に誘はれる儘、白百合を押し潰しながら寝台に横たはつた。

そんな君と向かひ合はせになるやうに、僕も幾許も残されてはゐ無い此の煩はしく親愛なる身体で白百合を押し潰す。

白百合は甘く爽やかな芳香を漂はせながら、植物特有の冷たく湿つた肌に吸い付くやうな感触で、僕の身体を受け入れる。

何とは無しに君の手を握れば、君は恍惚とした顔で笑みを浮かべる。

其の全ては、疾うに朽ち果てた屋根のその上に在る昏い空の天蓋に掛かつた無機質な月に煌煌かうかうと照らされて、真つ黒い影の中に逃げた夜が僕等をいたむやうに其處に在る。


――本当に月が明るいね。

  今日は望月だつたか。

――いいえ。今日は十六夜いざよいですよ。


然う云つて傍らで恍惚と笑ふ君を、初めて、極めて純粋に、美しい人だと思つた。

憐愍や恐怖の翳りは一切無しに、純粋に愛しい人だと思つた。

嗚呼、此れから二人で、最上の仕合せを摘みに山路を行かう。

日が生温く照らす昏い此の世界に別れを告げ、月が永遠に冷たく照らす冥い世界を行かう。

確りと繋ひだ手と綺麗な君の顔を見乍ら、僕は此の世界から自分を切り離す為に眼を鎖した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る