「メデューサが宿らないから」

 それからしばらくの間、僕は放課後になると美術室に向かい、篠田さんの絵画のモデルになるのだった。

 初日に服を脱がされて、それを橘先生が注意しなかったことに僕は失望して、僕は橘先生を信用できなくなった。だからと言って篠田さんが急に優しくなるはずもないし、逆にことあるごとに篠田さんは僕をいじめるようなことをするのだった。

「ねえ、あなたの筆箱、見せて?」

 僕が筆箱を取り出すと、篠田さんはシャーペンを取り出しておもむろに分解し、美術準備室にあったハンマーで粉々にしてしまう。

「ねえ、あなたの足、縛っていい?」

 なぜと聞く暇もなく、篠田さんはスズランテープで僕の足を椅子の脚にグルグル巻きにして固定する。

「動けないよ、篠田さん」

「モデルなんだから、動かなくていいでしょ」

 トイレに行きたくなった僕を、篠田さんは許さなかった。僕はその場で漏らしてしまい、後で橘先生に嫌な顔をされる。

「ねえ、前髪切っていい?」

 ハサミを持って近づく篠田さんの迫力に身がすくんで動けなくなっていたところで、篠田さんは僕の前髪を一太刀で真っ直ぐに切り落とした。

「ねえ、おにぎり作ってきたの。食べて?」

 渡されたおにぎりを食べた僕は、その苦さに思わず吐き出そうとした。でも、吐きだそうとしたところで篠田さんが僕の口を手で押さえつける。

 おにぎりに何が入っているのか確認すると、さまざまな植物の種が入っていた。スイカやかんきつ類の種、きっとご飯の方にも種を粉にしたのがまぶしてある。

 僕に対する篠田さんのいじめは毎日のように続き、そのたびに僕は嫌な気持ちになるのだけれど、やっぱり橘先生はそれを見ても何も言わないし、僕が篠田さんにされたことを報告すると、壊されたものや無くされたものに関しては橘先生が弁償してくれた。だからと言って、一番つらい心の傷を癒してくれることも、ましてや篠田さんにいじめるのを止めさせるようなことも言わなかった。

「ねえ、今度は」

「篠田さん」

 半月の間続いていた、篠田さんの「ねえ」からはじまるいじめの合図を遮って、僕は思い切って篠田さんに聞いてみた。

「どうして、篠田さんは僕をいじめるの」

「いじめる……?」

 篠田さんはきょとんとした顔をしている。その様子を見て、僕はようやく気付いた。篠田さんは、僕をいじめたいと思って僕に対して酷いことをしているのではないのだ。だとしたら、僕がこれまで我慢して受け続けていたことは何なのだろう?

「どうして僕を酷い目にあわせようとするの」

 僕は泣きそうになった。でも、人前で、しかも女の子の前で泣くのはとても恥ずかしいことのような気がして、絶対に泣くものかと歯を食いしばった。

「その顔……!」

「顔?」

「今が一番いい。とてもよく見える……」

「何のことを言っているの?分かるように言ってよ」

 目尻がだんだん熱くなってくる。そんな僕を、篠田さんは真っ直ぐに見ていた。

「最初の日に思ったの。メデューサが宿っている、って。でも、次の日にはいなくなってた。どうしたらいいんだろう?って思って、同じようにしてみようと思った。そうしたら、メデューサが宿った」

「分からないよ……どうしていつも酷いことするの?」

「そうしないと……メデューサが宿らないから」

 橘先生が美術室に入ってきた。何か不穏な空気を察知したのか、足早に駆け寄ってきて、篠田さんに話しかける。

「どうしたの、篠田さん。何か変なことされたの?」

 いつも変なことをされているのは僕なのに、橘先生はいつも篠田さんばかりを心配する。僕がされたことをいくら報告しても「それは仕方がないんじゃないかしら?」としか言わないのに。

「大丈夫です、何もありません」

「そう、絵画の方は描けそうかしら?」

「それも問題ありません」

 篠田さんは、筆が早いのも素晴らしいところだ、と橘先生とは別の美術の先生が言っていた。油彩画にはその手法によって絵画の完成時間が決まるとか、カンバスの大きさとディティールの調整がどうとか説明していたけれど、要するに篠田さんは絵画を完成させるのがとても早いということだった。

「今日は、今までで一番よかったから、すごく細かいところも目に焼きついてる。モデルがなくても大丈夫なくらい……」

 なくても、と篠田さんは言う。篠田さんにとって、僕はカゴに入ったリンゴと同じで、単なるモチーフに過ぎない。

「……いじわるして、ごめんね」

 篠田さんは僕の方を真っ直ぐ見た。その瞳の奥に、僕は初めて僕と同じような何かを感じ取った。

 モデルを頼まれてから、放課後はずっと篠田さんと一緒にいた。そのたびにいじめられて、ずっと嫌な思いをしていたけれど、急にモデルの仕事は終わってしまった。

「え、あの……今日はもういなくていいの?」

 篠田さんはもう何も答えなかった。カンバスの絵と、僕がいつも座っていた空間を交互に見つめて、絵筆を細かく動かしている。

「もう入っちゃってるわね……。今日は帰って大丈夫よ、おつかれさま」

 代わりに橘先生が僕に労いの言葉をかけると、僕の手を引いて美術室を後にした。橘先生は演劇部の方に行ってしまい、僕は閉めた美術室の扉窓から、絵筆を動かす篠田さんの姿をいつまでも眺めていた。

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