「目をそらさないで」

 次の日から、僕に対するいじめは止んだ。

 あの時、ヒロも篠田さんの顔を見ていたのだ。篠田さんは学校一の有名人で、ことあるごとに大人が彼女を放っておかない。先生たちも篠田さんを放っておくはずがなく、そんな状況で僕に悪戯をする勇気はないらしい。

 昼休みになると、篠田さんが僕のいる教室にやってきた。クラスのみんなは何事かと驚いていたし、僕に用事があるということを知るとさらに驚いた。

「放課後、美術室に来て」

 皆の視線などどこ吹く風、と言った様子で、篠田さんは僕をまっすぐに見て言った。

「え、でも放課後は部活動が……」

「藤田先生には許可を取ったから。一応、あなたの方からも藤田先生に説明して。拒否されることは無いと思う」

 言うだけ言って、篠田さんはどこかへ行ってしまった。

 静まり返っていた教室は、止まった時間が再び動き出して、みんなが僕に何事かと問い詰める。

「僕も分からないんだ」

 分からないのは本当だった。

 ただ、篠田さんがなぜか僕を必要としていることと、放課後に美術室に行かなければとても具合が悪いことになるのだけは分かる。ヒロも悪友たちも、質問攻めにされる僕のことを遠くから見るだけだ。

 気持ち悪いくらいの平和な学校生活を久しぶりに送って、放課後、部活動が始まる前に顧問の藤田先生に許可をもらうと、僕は恐る恐る美術室のドアを開けた。

 美術室は普通教室よりも大きくて、教室の後ろ側は三分の一くらい机も椅子もない。そこに黒板半分くらいの大きさのカンバスがあった。

「失礼しまーす……」

 電気の点いていない特別教室は、奇妙な怖さがある。遠くから聞こえてくる部活動の声が、教室内の静けさをいやおうなく感じさせるのだ。足音一つでもやけに大きく響いてしまいそうで、なぜか僕はしのびあしになってしまう。

 カンバスを初めて見た僕は、恐る恐るそれに近づく。木の板に張られた真っ白な布。これに絵を描いていくのだろうか。近くには木製のパレットと、大きな金属製の絵具チューブがいくつか置かれている。絵筆は書道用の筆よりも太く、その他にも見たことのないものが色々とカンバスの周りに用意されていた。

「あら、もう来てたのね」

 教室の入り口から声が聞こえて、僕はあわててそちらを振り向いた。篠田さんではなく、美術の橘先生だった。その後ろから篠田さんもひょっこりと顔を出す。電気を点けながら入ってきた橘先生は、僕を見て首をひねる。

「こんな子がモデルなの?」

 その言葉は僕に対してあまりに失礼なのではと思ったけれど、言い返すこともできなかった。篠田さんに比べればどんな生徒も大人から見たら普通に見えるだろう。ましてや僕みたいに取り柄のない人間ならなおさらだ。

「そうです」

 篠田さんはきっぱりと言った。そこで橘先生は眉間を揉みながら、僕がなぜ篠田さんに呼び出されたのかを説明してくれた。

 今度の市の文化祭で、篠田さんの油彩画の小さな個展を行なうことが決まっているらしく、そこに新作を一点出して欲しいと市から要望が来た。モチーフに困っていた篠田さんは、僕を見つけて何か思うところがあったようだ。

「それで、篠田さんの絵が完成するまで、モデルになってくれないかしら?」

 橘先生は困ったように僕を見る。この言葉は提案ではなく報告だ。断ることはできず、僕はただ首を縦にふるしかない。

「よかったわぁ、それじゃあ後はよろしくね。私はあなたたちの監督を任されているのだけれど、ちょっと演劇部の方にも顔を出さないといけなくてね」

 橘先生は演劇部の顧問だった。美術部は別の美術の先生が顧問をしており、篠田さんは美術部ではあるものの、他の美術部とは別格の待遇になっている。

 橘先生はそそくさとその場を去った。篠田さんと二人で残されて、美術室内は一人でいたときよりもずっと重たく息苦しさを感じる空気になった。

「あの……篠田さん」

「それじゃあ、始めましょう。あなたは向こうの椅子に座って」

 沈黙に耐えきれなくなって話しかけようとした直後に、篠田さんは僕の言葉を遮って、椅子に座るように言った。

「何かポーズはとる?」

「いいえ、自然に座っていればいいわ」

 篠田さんはカンバスの前に立って、テキパキと絵を描く準備を整えた。

 絵のモデルになるということに慣れていない僕は、借りてきた猫のように、緊張して椅子に座るしかなかった。

 接してみて分かったのは、篠田さんはとても真っ直ぐだということだ。人と向かい合う時も真っ直ぐだし、カンバスに向かう姿も真っ直ぐだ。僕みたいに、すぐに人の視線から目をそらすようなことをしない。

 そんな篠田さんが、まっすぐにこちらを見つめる。その視線が「僕」ではなく「僕というモデル」に向けられた視線なのを、頭では理解していてもどうしても意識してしまう。

「目をそらさないで」

 篠田さんが短く注意する。真っ直ぐな視線が突き刺すように僕を見つめる。

 壁にかけられた時計の秒針の音と、心臓の音が耳に痛いくらいに聞こえてくる。緊張で息が詰まる。うまく呼吸ができない。

 見つめ合ってどのくらいの時間が経ったのだろう。喉の下に汗がじんわりにじんできたころに、篠田さんは不意に首をかしげた。見たことのない年相応の仕草に、その場の空気が緩んだ。

「どうしてかしら……」

 篠田さんは何か悩んでいるようだった。

「あの、どうしてって、何のこと?」

「……脱いで」

 緩んだ空気が、また一瞬にして凍り付いたように感じた。

 空中にできた氷の針が僕の体を刺しているような感覚。それは他でもない篠田さんの視線から感じるのだった。

「えっ、なんで」

「いいから、脱いで。早く」

 おどおどしていると、篠田さんがカンバスの前から僕の方に近づいてきそうになったので、僕はあわてて立ち上がって服を脱ぎ始めた。自分から脱ぎださなければ、強引にでも篠田さんが僕を脱がしにかかるような凄みを感じたからだ。

「パンツは脱がなくていいから」

 つまり、パンツ以外は全部脱げということだ。ここで拒否をしてしまえば、僕はたちまち先生たちの間で面倒な評価をつけられるだろう。絵のモデルに選ばれたのに拒否をした子ども。天才の仕事にケチをつけた子ども……。

 同い年の女の子に上半身だけとは言え裸を見せるのはとても恥ずかしかった。それでも、この学校にいたければ、僕はその理不尽な命令を受け入れなければならない。僕はその場でパンツ以外を全部脱いだ。

 もじもじしながら立っていると、篠田さんは短く「座って」とだけ言って、それからまた僕の顔をジッと見つめた。僕はいよいよ蛇ににらまれたカエルのように身をすくめて、ただ篠田さんの視線が求めている何かになるように努めるしかなかった。

 篠田さんはパレットに絵具を出していく。でんぷんのりのような絵具がもこもこと木製のパレットに次々と乗せられて、いろとりどりの毒キノコがパレットの上に群生した。

 僕が脱いだことに何の意味があったのかは分からないけれど、篠田さんが僕をモデルにしていることだけは確かだった。絵具で重たくなったパレットを持ち上げて、篠田さんは絵筆を執り、下書きもなくカンバスに色を塗りたくっていった。

 九月の上旬はまだ暑く、ジッとしていても汗ばむ日の方が多いくらい。だと言うのに、その日は昼間に降った雨の影響か日がかげってくると、妙に肌寒さを感じるのだった。

 言われるがままに服を脱いだ僕は、先ほどまで喉の下にかいていた汗がどんどん冷えていくのを感じていた。

「あの……」

「しゃべらないで」

 寒さを訴えようとした僕は、篠田さんにぴしゃりと拒否された。橘先生が説明の終わりに僕にそっと耳打ちした言葉を思い出す。

「あの子、気難し屋さんだから、あんまり変なことをしないようにね」

 変なこと、ってどれくらいのことを言うのだろうか。

 僕はこの時間をあとどれくらい耐えなければいけないのか。寒さに二の腕の辺りの筋肉がプルプルしだしたころ、篠田さんは絵筆を動かしながら僕を真っ直ぐ見つめて、一言つぶやいた。

「いい。……それ」

 篠田さんと目が合う。でも、篠田さんは僕を見ていないような気がする。真っ直ぐに、僕の向こうにある何かを見ている。でも、それは僕のような気がする。不思議な感覚は、だんだんと寒さを強く感じさせる。

 外の景色は早送りのように夜の色を濃くしていく。

 教室の扉を開けて、橘先生が戻ってきた。廊下から入ってくる一段と冷たい風が僕の肌を撫でた。

「あら、ちょっとどうしてそんな格好を……」

 急いで近寄ろうとした橘先生は、篠田さんの鬼気迫る絵画への没頭ぶりに何かを納得したらしく、僕に近寄ろうとした足を止めた。

 僕は先生に助けを求めるために視線を向けようとした。でも、その一瞬を篠田さんは見逃さない。

「よそ見しないで」

 その一言で、この状況が普通ではないことが橘先生に伝わってくれればいいと思った。でも、橘先生が理解したのは、僕がちゃんと篠田さんの絵画のモデルになっているということだけだった。

 橘先生は、眉間をもみながら下校時間ギリギリまで僕らを見逃していた。それは全て篠田さんのためで、僕がパンツ一枚なのも寒そうにしているのも橘先生から見たらささいな問題らしかった。

「さあ、そろそろ帰る時間よ、篠田さん」

 パンと拍手をうって、橘先生はその場の空気を破った。篠田さんは絵筆を動かすのをやめ、熱いため息をはく。僕は少し奥歯をふるわせながら、そそくさと服を着始める。それから橘先生に今日のことを訴えようとしたのだが、何か言おうとする前に、橘先生が機先を制した。

「よかったわぁ、あなたがちゃんと絵のモチーフになってくれているようで。これで篠田さんも安心して絵画、描けるわねぇ!」

「はい。明日もよろしくね」

「え、あ。……うん」

 二人の視線に逆らうことができなかった。僕はくしゃみを一つ二つしながら、日の暮れた帰り道を一人、自転車を漕いで帰った。

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