メデューサ
雷藤和太郎
「わたしには、あなたが必要なの」
駐輪場の奥、先生も見えないところでいじめられていた僕を助けてくれたのは、篠田さんだった。
「大丈夫?」
差し出す篠田さんの手は、絵具で汚れている。遠慮がちに手をとると、篠田さんはぐいっと引っ張って、僕を立ち上がらせた。
「助けてくれてありがとう」
篠田さんは微笑んだ。凛とした顔が見せる笑顔は、雪解けの地面に咲いた純白の小さな花のようだった。
「でも、どうして助けてくれたの?」
「……わたしには、あなたが必要なの」
僕の手を握ったまま、篠田さんは恥ずかしげもなく言った。この時から、僕の人生はほんの少しだけ変わっていく。
篠田さんは、天才だった。
小学生の頃から大人顔負けの画才で数々の賞を受け、現代油彩画において「不世出の天才」とテレビで紹介されるほど。フセイシュツという言葉は僕にはよく分からなかったけど、何となくすごいことだけは伝わってきた。
テレビに出るのは篠田さんの画才のためばかりではなく、篠田さん自身がとても可愛いことも理由の一つだった。
テレビで紹介される篠田さんには、必ず「可愛すぎる油彩画の天才」という言葉がくっついていた。篠田さんの放つオーラは、子どもながらに凛としていて周りの人の目を釘付けにさせる。そんな人が大人顔負けの精彩な油彩画を描くのだから、そのギャップが更に大人たちをとりこにさせた。
篠田さんと同じ学校に通う同級生は、僕も含めて、篠田さんのことを嫉妬の目で見ていた。大人の耳目を一身に集めて、あらゆる良い評価を総ナメにしていく篠田さん。大人の目から取り残された僕たちの多くは、大人の目が届かないことを良いことに、いろいろと悪さをした。
僕がいじめられていたのも、根幹はそこなのだと思う。
部活動の休憩時間に悪友の一人であるヒロが見ていた動画には、悪ふざけをする芸人みたいな人が映っていた。その動画のテロップに「野獣」と書かれていたのを僕が「ノケモノ」と読んでから、僕のあだ名は「ノケ」になった。
動画に出演している人が僕に似ているという理由から、僕はヒロに言われて動画と同じようなことをさせられるようになっていった。コールボタンのあるファミレスでわざと大声で店員を呼んだり、本屋で流れるBGMに合わせて大声で歌ったり、道端に捨てられているゴミをわざわざ道路の方に投げ捨てたり……。
最初は僕も面白半分でやっていたものの、真似する動画の行為がエスカレートしていくのと、ヒロたちは一切やらない(似ているのはノケなんだからノケがやれ、と言うのがヒロたちの言い分だった)ので、だんだん嫌になってきたのだ。
僕が「もうやりたくない」とヒロに言うと、
「じゃあ今までお前がやったこと、先生にチクるからな」
と言われた。最初に悪戯を提案したのはヒロなのに、やっているのは僕だけだったから、怒られるのも僕だけだ。そう考えた僕は、もうヒロに口答えできなくなっていた。
この時の僕は中学生で、中学校と部活動の二重の檻の中に、ヒロたち悪友と一緒にしまわれていた。僕はヒロのグループから距離をとれなかったし、だからせめて先生にまで怒られたくないと思って、頭の中から「いじめ」という言葉を排除し続けた。
そんなときに、僕は篠田さんと出会ったんだ。
夏休みが明けると、僕のいじめられっ子の地位はほとんど不動のものになっていた。先生たちが注意しないのをいいことに、ヒロは僕を使って悪戯をし続けた。新品同様の消しゴムを貸せば半分に切って返してくるし、休み時間には教室の裏でゴムボールを投げつけてくる。夏休みの宿題だった書道を提出する時には、僕の足を引っかけるので、僕は転んで提出するはずの用紙をクシャクシャにしてしまった。
「ごめんごめん!ひっかけるつもりはなかったんだ!」
そう言うヒロの目は笑っていた。
「ホントもう、マジでやめろよー」
「ごめんって、な?」
僕の言葉も、ヒロの言葉も、全部偽り。本当は叫び声をあげてヒロに掴みかかりたかったのだけれど、そういう空気にはならなかった。先生は僕たちを見ておらず、クラスメイトも気にかけない。
ある日の放課後、部活が終わって帰る時間になって、僕の自転車にヒロが腰かけていた。
「それ、僕の自転車だよ」
「おう、ノケちゃん。ちょっと一緒に来いよ」
ヒロと他の友達が僕を連行するように駐輪場の奥へと連れていく。夏の大会の後だから部活が終わる時間は早くなっていたけれど、その分日の入りも早くなっていて、林に隣接した駐輪場は薄暗かったし、その奥は輪をかけて薄暗かった。
「なあなあ、これ見ろって」
林の方にガサガサと入っていって、ヒロが何かを持ってきた。
それはエッチな雑誌だった。一度水分を含んで乾いた紙はゴワゴワとして、広がっている。
「な?すげーだろ」
「興味ないよ」
「えーっ!?お前興味ないのかよー!」
ヒロが大声を出す。駐輪場にはなかなか帰ろうとしない生徒を追い出すために先生がいるはずだ。声を聞けば先生がやってきて、ヒロはきっと僕にその雑誌を押しつける。僕は急いでヒロの口をふさいで、小声で注意した。
「声が大きいよ、バレるよ」
「じゃあ本当にお前、興味ないのか見せろ」
「えっ?」
「お前のアソコだよ。興味ないなら小さいままだろ?じゃないとまた大声出すぜ?」
交換条件にすらなっていない脅しだったのだけれど、その時の僕はこの場を立ち去りたいのと、早く帰りたいのとで、気が動転していた。
「わ、分かったよ」
胸元で僕に見せつけるようにしてエッチな雑誌をパラパラとめくってみせるヒロと、一緒になってニヤニヤ笑っている悪友たちの前で、僕はズボンを脱いだ。
その時だ。
「先生ー、ここで男子が何かしていまーす」
ヒロの後方に突然人影が現れて、僕たちのことを先生に告げ口する声が聞こえた。
その言葉にヒロはドキンとして雑誌を落とし、他の悪友たちは薄情にも何も言わずにその場を駆け去った。
悪友たちが逃げるのをぼんやりと目で追いかけていた人影は、それからまた僕たちの方へと視線を戻した。ヒロはあたふたとエッチな雑誌をひろいあげると、僕に向かって投げつけて「へっ、変なもの持たせんなよな!」と捨て台詞を残して悪友たちの後を追いかける。
残ったのは、アソコを丸出しにして目の前にエッチな雑誌を広げている僕だけ。
「え、あっ……」
ズボンを半分脱いでいることをすっかり忘れていた僕は、立ち去ろうとして、その場で無様に倒れた。
人影が近づいてくる。駐輪場の逆光で誰だか分からなかった人影は、アソコを丸見えにして尻もちをつく僕に手を差し伸べた。
「大丈夫?」
それは篠田さんだった。
絵具で汚れた手を差し伸べて、僕を助けてくれた。僕は急いでズボンを履き直して、それから差し伸べられた手を握る。篠田さんは僕を引っ張り上げると、先生は多分来ないから大丈夫よ、と言った。
「助けてくれてありがとう」
篠田さんが微笑む。肌寒い冬の風と柔らかな春の日差しを受けた蝋梅のような微笑みは、とても魅力的に見えた。
先生は確かに来なかった。きっと、さっきの言葉は僕たちにだけ聞こえるように、わざと僕たちに向かって言ったのだ。
「でも、どうして助けてくれたの?」
「……わたしには、あなたが必要なの」
僕の手をぎゅっと握り返して、篠田さんは恥ずかしげもなく言った。
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