第6話 逃げろ!
「朝です、おじさん」
「……お?」
優一郎は揺れる視界を頭を振って正す。
そこにはいつものしっかり者な甥の顔があった。いつの間にか眠り込んでいたらしい。
「火が消えてる……」
昨日までは確実にあった寺が跡形もなく消えているのが、優一郎にとっては不思議で仕方がなかった。
蘭太郎は叔父を揺すり起こすと尻の土を払って立ち上がる。
「今から歩きます。ここからは命懸けです。山崎まで急ぎましょう」
蘭太郎は座り込んだままの優一郎を引っ張り上げて森の奥を見た。
「森の中を通るのも、出て往来を歩くのも危険ですね。さあ、どうしましょう」
蘭太郎は優一郎を見やる。
「ううん、どっちか……いいや、大丈夫! 僕、これでも高校3年間、空手やってたし!」
ハッハッ、と声を出しながら手を突き出して優一郎がアピールしてくる。
蘭太郎はその様子に呆れつつも、とにかく行くしかないと決意を固めた。
「行きましょう。とにかく、行かなきゃ何も始まりません」
蘭太郎が優一郎の手を引く。
「どうせ危ないなら、ちゃんとした道を通っていこうか」
優一郎が引きずられていた手を解き、蘭太郎の隣に並んで笑う。
「そうします」
蘭太郎も何となく叔父のへっぽこ空手が少しだけ頼もしく思えて、笑った。
往来と言っても、人はほとんど通らないし、コンクリート舗装ももちろんされていない。かろうじて開拓しました、というのが相応しい道を、二人は辺りを警戒しつつ確かに歩みを進めていく。
とにかく歩いて歩いて、近い未来の天下人に合わねばならない。
二人は今、権力者交代の隙間の時間にいる。
絶対的支配者のいない時間、それはあまりにも混沌としていて、人々の理性は弱まり本能的な部分が刺激され、世の中が荒れる時間。
ホッブズの語った「万人の万人に対する闘争」状態とは今のような状況を言うのだろうか、と優一郎は高校で習った倫理の授業をぼんやりと思い出していた。
五、六時間ほど歩いたろうか、道があっているかもわからない中、とにかく足を叱咤鼓舞しつつ歩いてきた二人は疲弊しきっていた。
「自分で言っといてなんですけどね、本当に、つくんでしょうか」
ヘトヘトに疲れきった声で蘭太郎が弱音を吐いたその時だった。
道端の草叢から、ガサガサと音がする。
はじめは獣かとそれほど気にしてもいなかった二人だったが、ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてくるその音に、確かな人の気配を感じる。
「おじさん……」
蘭太郎が恐怖を感じた声で優一郎の袖をつかんだ。
優一郎はしっ、と蘭太郎を制すると、物音のする方へジッと視線を向ける。
草の根を分けるような音が、もうすぐそこまで来た時、ピタッと物音が消えた。
ドンドンと暴れる鼓動が煩くて蘭太郎は胸の辺りをぐっと抑える。
「……誰だ」
蘭太郎は一瞬誰が話したのかがわからなかった。
いつもはフワフワと地に足のつかないような柔らかい声の伯父がこんな低く硬い声を出すなんて思ってもみなかったのだ。
優一郎の声に呼応するように、草叢から、一人、また一人と姿を現したのは、汚らしい格好をした中年の男たち。顔にたくさん泥をつけて、所々は黒ずんでいる。なりはただの百姓に過ぎない。
しかし、その手には皆一様に竹槍を抱えていた。
「落ち武者狩り……!」
蘭太郎が呟く。
可能性のうちには入れていた、しかしこうして面と向かうと足が竦んでどうにもならず、蘭太郎は恐怖におののき、優一郎の袖をさらにきつく掴んだ。
「おまえたち、信長様に囲われていた南蛮帰りのやつだろ。本能寺事変を落ち延びてきたやつの首、光秀に持っていけばそれなりに金になるかもしれねえ」
ボロボロの歯から零れ落ちる、敵意の入り混じった百姓の言葉。
その目には言葉とは比較できないほどの明瞭でまっすぐな殺意が浮かんでいる。
「蘭ちゃん、下がって」
優一郎は袖から蘭太郎を引き剥がし後ろへ退かせる。
落ち武者狩りの数は4名。
対してこちらは二人、それも一人はまた非力な少年。
ジリジリと距離を詰めてくる彼らに、優一郎はどうするべきか普段は動かさない頭を必死に回転させて考える。
蘭太郎はその様子を不安げに見つめていた。
やがて、よし、と小さく優一郎が呟くのを、蘭太郎は聞いた。
優一郎は蘭太郎の手を掴む。
優一郎の起死回生の一策、それは——
「……走れっ!」
「えっ!?」
グイッと強く蘭太郎の腕が引かれて、無理やり足が動く。
すぐ後ろで逃げたぞ、追え! という百姓たちの野太い声が迫ってくる。
「おじさん、無理です! 逃げきれません!」
「蘭ちゃんがギブアップならおぶってあげるから、今は走って!」
二人はただがむしゃらに舗装されていない砂利道を蹴って走り続ける。
優一郎はよりにもよって革靴だ。
蘭太郎が息を荒くする。
若い自分がもうこれなのだから、優一郎はもっと酷いのだろうと蘭太郎は伯父が力尽きて竹槍で一斉に突かれる様子を想像して震えた。
おそるおそる優一郎の顔を窺うと、なるほど確かに苦しそうではあるが、今少し余裕がありそうでホッとした。
しかし背後には殺意の集合が追いかけてきている。
蘭太郎はとにかく優一郎のゴツゴツした手を痛いほど握りしめて走った。
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