第4話 今日じゃないか!
「失礼しました」
二人揃って深々と頭を下げてすたこらと逃げ出すようにして襖を閉じた。
脂汗をぬぐいながら、蘭丸の背中を必死に追いかける。
それにしても、この青年の歩くことの速いこと、速いこと。
大股で2人とも歩かねば、長い廊下に置いてけぼりにされそうだ。
「今宵はここでお休みください。勝手に外をうろつかれぬよう、厠はここの突き当たりに」
蘭丸が襖を開けた部屋をバックに、事務的に説明し、軽く一揖すると、退室しようと腰をあげる。
「つかぬ事をお聞き致す。今日の日付はいつでしたかな」
優一郎がずっと聞きたかったことを、蘭丸を引き止めて尋ねた。
蘭丸はなぜそんなことを? という顔をしたが、すぐに能面のような真面目くさった顔に戻って、「天正十年水無月二日でございます」と応えると、では、とすぐに襖を閉じて、部屋を出て行った。
とんとんとん、という蘭丸の早足の足音がだんだん遠くなっていく。
それに合わせて、ぷは、と優一郎が大きく呼吸をした。
敷かれていた布団の上で、ぐっと伸ばした関節からバキボキと不穏な音がする。
ふ、と力の抜けた様子で、漸く落ち着いたのか優一郎は口を開いた。
「やっぱり僕たちはタイムスリップしてるみたいだね、やれやれ、どうしたものか……今日は寝るしかないかなあ? ねえ、蘭ちゃん?」
一人でつらつらと喋っているうちに、甥の反応がないのに気がついて、優一郎が蘭太郎の方を見やると、彼は何やら紙を広げて震えている。
「何してんの? それ、教科書の印刷?」
優一郎が蘭太郎の手から紙を奪う。
しかし、蘭太郎はぶるぶると震えるのみで、何も言わない。
「これ、事務所から持ってこれたんだ」
優一郎がなるべく優しく尋ねると、「学校の課題の資料としてコピーしたのをポケットに入れっぱなしだったんです」と漸く我に返ったように蘭太郎から返事が返ってきた。
「ふうん、本能寺の変ね。最近の学校はちゃんと戦国時代も勉強するんだなあ。僕の頃なんか信長! 秀吉! 家康! 江戸時代入った! って感じだったのにね」
「ヘラヘラしてる場合じゃないですよ! ここ、よく読んでください!」
蘭太郎は、ある項目を指差して優一郎の眼前に突きつけた。
優一郎は目を丸くしつつも、幼い手の指差すゴシック体のテキストを言われるがまま読み上げる。
「なに、発生年月日、天正十年六月二日……」
「おじさん、六月の旧暦名知ってますよね……?」
おそるおそる蘭太郎が優一郎の顔色を窺うとその顔はみるみるうちに青白く色を失っていく。
「——今日じゃないか!」
優一郎が悲鳴のような声を上げた。
蘭太郎もきつく目をつぶってその事実をきざみつける。
「嫌です、こんな所で、よりにもよっておじさんと二人で死ぬなんて」
蘭太郎が目を瞑り、耳を両手で押さえて震えている。
優一郎も暫くは思考停止状態で上の空であったが、しっかりしているとはいえまだ14歳にしかならない甥が怯える様子を見て我を取り戻す。
——そうだ、今この幼い甥が頼れるのは不甲斐ない叔父の僕しかいないのだ。
優一郎はごくりと唾を飲み込んだ。
「……逃げよう」
「え……」
「いいから、行くよ!」
蘭太郎の手を掴み、引っ張り上げて勢いよく襖を開ける。
「無理ですよ! どうにかなると思ってるんですか!」
優一郎が周囲を確認し、誰もいないことを確認する。
今は弱音を吐いている場合ではない。
「どうにかなる、じゃない。どうにかするんだ、生きるためにね!」
甥の悲鳴に近い弱音を無視して、優一郎が長い廊下を脱兎のごとく駆け出す。
もう日が暮れる、いずれ大軍がここに攻めてくる。
途中ですれ違った美しい青年、蘭丸は尋常ではない彼らの様子を目を丸くしてみていたが、それ以上何かを諦めたように二人を止めることはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます