致死量の幸福

サクライ

祝福はされない

鍋の中グツグツと音を立てるビーフシチュー。食欲をそそる香りのそれを見つめる少女は艶のある長い黒髪を後ろでひとつにまとめ、薄い青と白のワンピースとエプロンを身にまとっていた。ビーフシチューを見るまなざしは真剣そのものであり、その一方で口元はわずかにほころんでいた。ともすれば鼻歌を歌い出しそうなほど。17歳ほどの美少女が台所に立つ姿は平和そのもの。

しかし。

突如彼女の胸から赤に鈍く光る刃物が飛び出す。散る血液は床に、コンロに、鍋の中にとその花弁をばらまいた。

死んだ。

誰もがそう思うような量の鮮血をエプロンにつたわせたまま、少女はのんきな声を上げた。

「ビーフシチューが台無しじゃないですか!」

くるりと振り返った少女が目にしたのは、黒いスーツにべっとりと血をつけた青年。少女の眉間にシワが寄ったことに気づかないふりをして、彼女と同じぐらい整った顔の青年は心底残念そうに笑った。

「残念。今日は何が入ってたの?」

「テトロドトキシンです。ああもう、せっかく入手したのに…」

「…ごめんね?」

青年が小首をかしげその赤毛がさらりと揺れる。

「思ってもないことを」

小さな口からため息をひとつ。ナイフが刺さってることは気に留めず、少女は洗濯が…とお互いの服についた血を見てぼやいた。

青年は少女の背中からナイフを抜いてやりながら、ひょうひょうと笑う。さらには器用にそのナイフをくるくると革手袋をはめた指先で回す。

「でも、悪いけどさ。僕多分テトロドトキシンじゃ死なないと思う」

「デスヨネー」

ビーフシチューに混ざった鉄の香りに綺麗な顔をしかめて少女は吐き捨てた。妙に似ている青年のモノマネ付き。

「『僕は昔死ぬほど毒盛られて耐性ついたんだよねー。まあ死ぬほどって言っても不死だからそもそも死ねないんだけど』でしたっけ?これほんとクソつまんないですから二度と話さないでください」

「えー、今までの女の子たちにはウケてたのに」

「前の女の話はしないのがマナーです殺しますよ」

「殺してってば」

少女の口から漏れる舌打ち。それができたら苦労はしない。苦労はしないのだ。

鍋に放り込まれる妙な色をした植物を眺めながら、青年は後ろから少女に抱きついた。すでに汚れているからか、スーツが汚れることは構わないらしい。ナイフはとっくに流し台に置いてある。

「ねえアンナ」

「料理の邪魔です」

「テトロドトキシン、君は大丈夫なの?」

「死なないので」

「苦しくはないの?」

「……」

不機嫌そうに答えていたアンナの声がやむ。小さな台所にはコトコトとビーフシチューが煮込まれる音だけが残った。

「ねえ、アンナ?」

「耳元でささやかないでください!!」

ぶん回されたおたまを額に受けて青年はホールドアップ。おでこに少しだけついたビーフシチューがいい匂いを放つ。ビーフシチューは好物だから嬉しくなる。もちろん目の前のアンナも大好きだけれど。

「君、僕の声好きだよね」

「調子に乗らないでください。今晩まるまる、外に放り出しますよ」

「今雪すごいんだよ。凍えちゃうよ」

「そのまま死んでくれたら嬉しいです」

「だよね、僕らの願いが叶うんだから」

赤く染まっているアンナの耳に気づかないふりをして青年はこっそり口元を緩める。

出血はほぼ止まったようでホッとした。自分で刺しておいておかしいだろうか。でもおかげで無事オマジナイはかかったままなのは分かった。

「…その、血」

「ん?」

「また…来たんですか?追っ手」

「うん、こりもせずにね」

震えた小さな肩に気がついて青年は再び腕の中にアンナを閉じ込める。今度はアンナも文句を言わずに黙々とビーフシチューをかき混ぜる。

「大丈夫だよ。いつも通り喰べて来ちゃったから。これは返り血。やっぱり不味いね。戦闘になれた聖職者は」

「…お腹いっぱいですか?」

「まさか!君の手料理は別腹だよ。今日は特に僕の好きなビーフシチューだから」

見上げるアンナの額にキスを落として青年は笑う。まるで赤ちゃんをあやすように。

「大丈夫だよ? 彼らはなんの障害にもなれはしないさ。そもそも恋人たちの永遠の誓いを見届けるはずの教会が僕ら恋人の仲を引き裂こうだなんて、無粋にもほどがあるでしょう?」

裏切り者、と叫ばれる記憶がアンナの中で呼び覚まされる。何度目かはもう数えていない。

「…そう、ですね」

「だから君は安心してよ、愛しいアンナ。君は僕と一緒に僕を殺してくれる方法を探すだけでいいんだよ。死ねるまで幸せに暮らそう」

「はい」

よろしい、そう呟き青年はアンナから離れる。サラダの準備をしなくては。

「…ユアン」

久しぶりに呼ばれた名前に青年は目を瞬かせる。珍しい。

「神は、私を、許してくれるでしょうか」

ビーフシチューを混ぜているアンナにはユアンのエメラルドの目が暗く縁取られたことには気づけない。

「…もちろんさ。僕が悪魔とはいえ、君は神に愛された子だよ」

明らかに安堵した吐息をもらすアンナに、電球が床に映し出していたユアンの影が波打つ。一瞬赤毛の中に見えた黒いツノは気のせいかそれとも。


(悪魔と契っておいて、神を願うなんて愚かで可愛い子)

自分が死ねないことなんて分かってるから、君にも死ねない呪いをかけて、天から背いている最中なのに。

(神さえも殺してしまいたい)

嫉妬は尽きることがない。


アンナはそっと目を閉じた。

(ごめんなさい。貴方を殺してなんてあげられないの。あまりにもこの生活が幸せすぎて。死んじゃいそうなほど)

ユアンはああ言ってくれたけれど、悪魔にさえ嘘をつく自分が、許されるはずがない。

何をしても死ねない事がこんなに安心するなんて。


「…ユアン。好きです」

「もちろん僕も」

契りを交わした聖職者と悪魔に天罰が下るのはいつの日か。必ずくる絶望まで、二人は死を目指して愛を交わす。


祝福のない幸福な生活は、今もどこかの街の片隅で咲いている。

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致死量の幸福 サクライ @sakura_kura

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