交錯する運命(3/6)

 会場内にいた人々はそのほとんどが混乱していた。信号機トラブルの影響で渋滞が発生し、複数の関係者が、新国立競技場に向かうことが困難な状態になっている。すでに新国立競技場にいた者達も、次から次へと入ってくる良くない報せに心中は穏やかではない。


 混乱に包まれた会場内で一人、目的のために動く若者の姿があった。「恵比寿和泉」こと裕司だ。混乱に乗じて観客席スペースに侵入することに成功し、今は運んできた段ボール箱の中身を取り出している。


 幸いにも観客スペースに他の関係者はいない。爆発物処理班は信号機トラブルの影響でまだ新国立競技場に到着しておらず、裕司の邪魔をする者は誰もいない。それをいいことに、裕司は鼻歌を奏でながら作業を行っている。


 台車は観客スペースの中でも開けた場所、観客席へと向かう階段の近くに置いた。そのまま段ボール箱を開き、中に入っていた緩衝材を手際よく取り除く。緩衝材に隠れるように存在していた紙袋に入った何かを座席の下にセッティングし、元の場所に戻る。そうやって台車と観客席を何度も何度も移動し、段ボール箱の中にあった何かを観客席付近に設置している。


「あーもー、誰だよ、こんなわかりにくい地図にした奴はー!」


 紙袋をセッティングしながら観客席を半周した頃のこと。裕司は手元に握った紙を見て声を荒らげた。彼の手には、中を八つに色分けされたカラフルな楕円の描かれた紙がある。紙の左上には小さく方角が示してあるが、描かれた楕円だけでは何を示しているのかわからない。


「せめて座席番号とか書いてくれよ。観客のチケットだってもう少しわかりやすく書いてあるってのに」


 文句を言いながらも、物を運ぶ速度は緩めない。空になった段ボールは折り畳んで、台車の持ち手と段ボールの隙間に差し入れた。時折、裕司の視線が左手首に巻きついた腕時計へと向く。時計は「八時」を示している。


 裕司は段ボールの数を確認した。折り畳まれた段ボールが四つと、開けていない段ボールが一つ。台車は観客スペースを一周し、元の場所に戻ってきている。最後の段ボールに入った物はミスト噴霧装置の一種で、このセッティングだけは裕司には出来なかった。


「これだけは業者に任せるしかないもんな。あとは、上手くいくことを願うしかない。なんとかなる、よね?」


 声に出して問うも、その声に答える者はいない。頼れる者は他にいない。裕司は困ったように天井を見上げ、ため息を吐くことしか出来ない。台車を握る力が不自然に強くなり、両腕に血管が浮き上がった。




 新国立競技場から徒歩で五分ほどの所に停車していた乗用車。助手席には、ノートパソコンを操作している郁人の姿があった。液晶画面と真正面から向き合うその顔は険しい。


 パソコンに表示されているのは、多くの国民が利用しているとされるSNSだった。そのSNSでは字数制限こそあるが、個人が登録したアカウント名で好きなように「呟き」と呼ばれる投稿を行うことが出来る。


 今、そのSNSは荒れていた。交差点を写した動画や写真が数多く投稿され、投稿された内容には人々の混乱が反映されている。それは、新国立競技場からそう遠くない場所で起きた信号機トラブルに対する反応だった。


 死人の有無を確認し、怪我人が出たと知ってため息を吐く。現在、一部地域において全ての信号機が青になっている。これにより交通事故が発生し、近隣道路では渋滞が起きていた。ついに信号機からは光が消え、警官による手信号による交通整備が行われようとしている。


「やっぱこうなるよなぁ」


 誰に聞こえるわけでもないのに口から零れる声。その声に反応するかのように運転席側の窓ガラスが二度ノックされ、運転席側の扉が開いた。筋肉質の体を持つ若者が運転席に乗り込み、発車に向けて準備を行う。


「どうしたの、海人? 怖気付いた?」

「今までと規模が違うからね。そりゃ、怖くもなるよ。――って裕司? セッティングは終わったの?」

「うん、なんとか終わらせたよ。ついでに、ちゃんと周りに説明してから出てきた。ってわけで、とりあえず車を停めに行くよ」


 海人の乗っていた車に入ってきたのは、新国立競技場内で作業をしていた裕司であった。裕司の表情は海人とは対照的に晴れやかだ。エンジンをかけると、鼻歌を奏でながらハンドル操作を始める。裕司の操作によって、ゆっくりと車が動き出した。


 運転は裕司に任せ、海人は窓の外へと視線を移す。窓越しに見える外の世界は、奇妙だった。サイレンの音やクラクションの音がドア越しに聞こえてくる。普段は点灯しているはずの信号機が消灯し、代わりに警察官が手信号を行っている。


「……なぁ、裕司。俺ら、とんでもないことをしようとしてるのかな」

「仕方ないよ。こうでもしなきゃ、僕達の声は国に届かない。そう、決めたじゃんか! じゃなきゃこんな依頼、引き受けないって」

「前金、貰ったもんな。もう引き返せないとこまできたもんな。健太のためだもんな」


 裕司が表情を崩さずに、手信号に従って運転を行う。だが海人は交通整理を行う警官の顔を真っすぐに見ることが出来なかった。ノートパソコンをスリープモードにして閉じたまま、俯くことで目が合わないようにする。行きより軽くなった車が速度を上げた。

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