中編
「ユーフェミア、ユーフェミア!」
愛おしい彼女の声が聞こえてきて、ユーフェミアはゆるりと口元を緩めた。本当に、可愛らしい。そう思っていると、頭の上に乗っていたリスが僅かに身じろぎをした後、ユーフェミアの頭から木の幹を伝って地面へ降りた。
「あ、見つけた、ユーフェミア!」
真下から聞こえてきた、愛らしい声。ユーフェミアが下を見ると、ルルがこちらを見上げて笑っていた。その足元にはリスがいて、ルルの体を登り、彼女の腕に収まる。
ああ、羨ましい。そんなドロっとした感情が湧き上がる。だけどそれを一切顔に見せずに、ユーフェミアは木の幹をするすると降りた。
「見つかっちゃったわね、ルル」
「えへへ、見つけたの」
頬を僅かに紅潮させて、そう嬉しそうに話すルル。そんな彼女を見ていると、先程までの感情はどこへやら。とても嬉しくて、ドキドキしてしまう。
あの出会いから三年。ユーフェミアはルルに根気よく言葉を教え、今ではルルはスラスラと話せるようになった。まだどこか幼さを感じさせるものだけれど、それがまた可愛らしいくて、ユーフェミアは気に入っている。
そのとき、ホロホロ、とリスが鳴いた。
「え、そうなの!? あの子たちが!?」
ルルは目を見開いてリスを見た。すると、またリスがホロホロと鳴く。そのことに再び、ユーフェミアの胸に黒い感情が湧き上がった。
物心つく頃にはこの森で動物たちと暮らしていたらしいルルは、動物たちの言葉が分かる。だから言葉の習得が赤ん坊と比べて早かったとユーフェミアは考えているが、真偽は定かではない。
それよりも今重要なのは、ルルがユーフェミアに分からない話をしている。それだけ。
リスが再びホロホロと鳴いた。今すぐそのリスをルルの腕から叩き落としたいと思うけれど、ルルが悲しむから、とユーフェミアは我慢する。
そんなユーフェミアの心情など知らず、ルルは笑って言った。
「欲しいの? ちょっと待ってね」
そう言うと、ルルはリスを腕から下ろし、眉を寄せる。その様子を見て、ユーフェミアは彼女が泣こうとしているのを察した。
ルルにはとても不思議な力があった。それが、彼女の涙が飴玉に変わるというもの。その飴玉はとても甘くて、動物たちは事あるごとに求めた。
そして、それはユーフェミアも。
「……ルル、協力してあげる」
「え、ゆ、ユーフェミア? ま、まさか……」
「ええ、そのまさかよ」
にっこりとユーフェミアは黒い笑みを浮かべる。じりっと汗を冷や汗を垂らしながら一歩後ろに下がるルル。彼女に向かって、ユーフェミアは思いっきり飛びついた。そして――
「あははははは! い、いや、やめっ……あはは!」
辺りに響き渡る明るい笑い声。花畑にいた何匹かの動物が声の主を見て、いつものことかと視線を逸らした。
ユーフェミアはルルの脇腹をまさぐりながら、楽しそうに口を開いた。
「そう言いながら、楽しいんでしょ?」
「そ、そんなわ、け……ひゃっ! も、やめ、ははは!」
ポロリ、とルルの目尻から飴玉が零れ落ちる。リスは素早くそれを取ると、そそくさと去って行った。
それを視界の端に捉えながらも、ユーフェミアはくすぐる手をやめない。
「またまたそう言って。正直になったら?」
「なってる! なってるから、は、もうやめ、あはは!」
ポロリ。再び零れ落ちる飴玉。ドキリと心臓が跳ねて、ユーフェミアは何かに引き寄せられるかのように、無意識のうちに手を止め、ルルの目尻を舐めた。
ピク、とルルの体が僅かに跳ねる。コロリ、とユーフェミアの口に飴玉が転がる。
ルルは潤んだ瞳でユーフェミアを見上げた。赤くなった頬。荒い息。暴れたために乱れたワンピース。
バクバクと鼓動がうるさくて。ユーフェミアは衝動に任せて、ルルの唇に自らを重ねた。
「んっ……」
ルルの口が僅かに開いて。ユーフェミアは躊躇わずに舌を入れる。コロリと、飴玉がルルの口へ転がり落ちた。
それを二人で貪る。舐めて、舌が触れ合って。しばらくの間、くぐもった声と小さな水の音だけが、辺りに響いていた。
「はっ……」
ユーフェミアが唇を離す。どちらのものとも言えない銀の糸に、真っ赤に腫れ上がった唇。荒い息づかい。紅潮した頬。潤んだ深い青の瞳に、再び衝動が湧き起こる。
「ゆーふぇ、みあ」
掠れた声。またその口を貪りたい。そんな欲望を理性で抑え込んで、ユーフェミアは笑顔を浮かべた。
「……好きよ、ルル。愛してるわ」
「わたし、も。私も、好きだよ、ユーフェミア」
ルルはそう言って笑みを浮かべる。そんなルルが愛おしくて。大好きで、離れたくなくて。ユーフェミアは彼女をぎゅ、と抱き締めた。
「ユーフェミア? どうしたの?」
何も知らない、ルルの声。不安にさせちゃ、いけない。この子は私が守らなきゃ。
「……何でもないわ、ルル」
これは些細なこと。だからすぐに解決できる。そう、ユーフェミアは自らに言い聞かせた。
△▼△
「ユーフェミア!」
森を出て少し歩くと、聞こえてきた声。高揚していた気分が一気に沈む。ユーフェミアは憂鬱になりながら、声の主を見た。
そこにはかつてとは変わって体つきが良くなり、全くもって可愛らしくない青年がいた。
「……マルク」
「ユーフェミア、どういうことだよ!
「ええ、そうね。だけど気が変わったの」
「何でっ! 俺はユーフェミアしか見てきてなかったのに、君は他の男に目移りしたというのかい!?」
「……そうよ」
一瞬詰まったのは、正確には男ではないからだった。だけど、愛している人には変わりない。
「そんな……」
絶望的なマルクの声。ユーフェミアは申し訳ない、とは思うけれど、それだけ。彼は変わってしまった。だから、もう昔のようには抱き締めることも、愛することもない。
シン、とした沈黙が降りる。サワサワと森の木々が揺れる音だけが辺りに響く。何となく、気まずい。
「……じゃあ」
ぽつり、とマルクが言った。ユーフェミアは彼を見るけれど、俯いているため、表情が窺えない。ほんの少しの不安を抱きながら、ユーフェミアは首を傾げた。そのとき、マルクがユーフェミアの手首を掴んで、強引に歩き始める。
「いたっ……マルク、何するの!?」
「だって、仕方ないじゃないか! ユーフェミアがその気なら、僕だって……っ!」
強い力に、掴まれた手首が痛む。どうにか手を離そうとしても、全くもって敵わない。「いや、やめてっ!」と叫んでも、力が緩むことはなかった。
そしてユーフェミアの家に着いた。ちょうど、母が玄関から出てくる。
「お母さん!」
「……ユーフェミア。マルク君は良い子よ。絶対、あなたを幸せにしてくれるわ」
そう言って、淡く微笑んだ。ユーフェミアが目の前が暗くなるのを感じる。何で、どうして。どういうことなの?
そんなユーフェミアの心情など知らず、母はマルクに「じゃあ、ユーフェミアをお願いするね」と言った。
「ええ、もちろんです。すみません、おばさん。数日、家をお借りします。ユーフェミア、行こう」
呆然としていたユーフェミアは、なす術がないまま家の中へ。カチリ、と鍵の閉まる音がやけに大きく響いた。
そこでようやく手首が解放される。見ると、手の形のアザができていた。ぞっと悪寒が背筋を伝う。気持ち悪い。今すぐ、彼の触れたところの皮を剥いでしまいたい。
「ユーフェミア」
ゆっくりと睨みつけるようにマルクを見た。彼はとても嬉しそうに笑っている。
「おばさんも、僕と君の結婚を認めてくれたんだ。だから、結婚しよう?」
「嫌よ」
間髪入れずにユーフェミアは答えた。すると、マルクは「そっか」と言う。とても寂しげな声だけれど、昔のように惹かれることはない。
「……なら、仕方ないよね」
ゾクッと悪寒が走る。とても低く、不穏な声だった。じりっとユーフェミアは一歩下がる。すると、マルクも一歩こちらに近づいて……。
トン、と背中が扉に当たった。一縷の望みをかけて扉を引いたけれど、ガチャガチャと音が鳴るばかり。
「いやっ」
何で、どうして。恐怖から視界が滲む。ユーフェミアはただただ扉を揺らし続けた。
「ねぇ、ユーフェミア」
耳元で囁かれて、体が硬直する。嫌だ、怖い。そっと腕を撫でられる。ユーフェミアは、ただ震えることしかできなかった。
「もう、抱かれた? 別の男に、この体を捧げた?」
バクバクと暴れる心臓。だけど、四肢は凍りついたように動かない。
「まぁ、どちらでもいいけど」
マルクはそう言うと、ユーフェミアの体を抱き寄せ、素早く近くにあった靴磨き用の布で彼女の腕を縛る。その間、ユーフェミアは何もできなかった。恐怖で、指一本たりとも動かすことができない。
「ねぇ、ユーフェミア」
ユーフェミアを優しく横たわらせる。彼女の恐怖に凍りついた瞳に、満足気な笑みを浮かべて、言い放った。
「君は、僕のものだ」
それからのことを、ユーフェミアはあまり覚えていない。ただ、痛くて叫んで……だけど、途中から気持ちよくて。それは完全にルルに対する裏切りだった。
ダメだと分かっていた。いけないことだと分かっていた。けど、気持ちよくなりたくて、ユーフェミアはひたすら善がってしまった。
ユーフェミアはぼうっと暗闇を見つめる。外から見られないためか、カーテンが締め切られた部屋。ずっとずっとあんなことをしていて、もう時間の感覚もない。
ルルは、どうしているのだろうか? 寂しがっていないだろうか? 震えていないだろうか?
ふと、そんな思考が浮かび上がる。今まで意図的にルルのことは考えないようにしていたけど……無理。会いたい。彼女に触れたい。
けれど、もう私の体は穢れてしまって……。彼女に、触れる資格などない。
「んん……ゆーふぇ、ぃあ……」
横から聞こえる寝言に、ゾッと肌が粟立つ。気持ち悪い。早く、ここから離れたい。
ユーフェミアはそっとベッドから降りた。けれど、すぐにカク、としゃがみ込んでしまう。太ももをドロっとしたものが伝うのが感じられた。
気持ち悪い。ユーフェミアは口を押さえながら、床を這って部屋の扉に向かった。普段の何倍もの時間をかけて扉につくと、それは何の抵抗もなく開く。
そのときだった。
「あっ……!?」
ユーフェミアは喉を押さえた。カッと燃えるように喉が熱くなる。そして、ひどい渇き。すぐに、まともな思考ができなくなる。
行かなきゃ。食べたい。早く、食べたい。欲しい、欲しいの。
「ルル……っ!」
ユーフェミアはよろよろと立ち上がって、再び部屋に戻る。そして窓を開けると、強引に逃げ出した。痛みや疲労なんて、感じる余裕はなかった。
「ルル、ルル!」
ユーフェミアは花畑の奥、小さな洞穴に駆け込んだ。そこはルルが普段過ごす場所で。
洞穴の中心に焚かれた焚き火。その側に、動物たちに囲まれるようにしてルルがいた。
「ユーフェミア!?」
ルルがぱっと笑顔になって、ユーフェミアに駆け寄る。だけど、ユーフェミアはそんな彼女の様子など気にせず、きつく抱き締め、唇を重ねた。
「あっ……ゆ、ふぇ」
声を漏らすこともないよう、ただひたすら唇を貪る。深く、もっと深く。もっと、もっと。
僅かな水音が、洞穴にこだまする。時折ぴくりと跳ねるルルの体。普段なら可愛い、と思うが、ユーフェミアはそんなこと一切考えず、舌を絡め続ける。
そのとき、一粒の雫がルルの目尻から零れ落ちた。それを目敏く見つけたユーフェミアは唇を離し、それを口に入れる。
甘くて、体が幸せに包まれる。喉の熱も消え去って、やっとユーフェミアは少し落ち着いた。
「はっ、……ゆ、ふぇみあ?」
「……ごめんね、ルル。だけど、だけど、欲しいの。お願い。もっと、もっとちょーだい」
そう言って、ユーフェミアはルルを優しく横たえる。そして、再び唇を重ねた。それと同時に、ルルの太ももをつつ、となぞる。ぴく、とルルの体が震えた。
皮肉なことに、マルクによって気持ちいい場所は理解した。だから、それをルルにしてあげるだけ。
「ルル、ルル。泣いて、もっと、もっと泣いて」
ゆらり、と二人の影が交わる。
いつの間にか動物たちは消えており、パチパチと火の爆ぜる音と、小さな水音、そして甘い嬌声が朝まで響いていた。
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