第2話

 26歳で終わらせようと思っていた恋があった。


 高木は大学の先輩で、ゼミも同じだったため、ごく普通の先輩後輩として親しかった。高木は卒業してもちょくちょくゼミ室に遊びに来ていたし、私が卒業したあとも、就職祝いだとご飯に連れて行ってくれた。


 誰とでも親しく、活発で面倒見のいい彼が、私に特別好意をもっていることを伝えられた時は、戸惑いを覚えた。私には恋人がいたし、関係は良好だったから。

 それでも、高木に女として見られることは、名誉ある幸せに感じた。同時に、私も高木を男として見ていたことに気付いてしまった。

 先輩後輩の線を越えようとした彼に、「抱くならもう会わない」と告げると、高木は私を大事に抱き、それっきりとなった。


 学生から社会人となり、一人暮らしも始めた目まぐるしい環境の変化の中で、恋人まで変えてしまうことは、自分の手に負えない行為に思えた。一度だけ過ちを犯したが、それ以上の変化は起こらないと思っていた。

 しかし私の体には、しっかりと高木の存在が刻まれてしまった。



 高木と偶然再会したのは、それから一年ほど経ってからである。高木を目でとらえた瞬間、素直に好きだと認めざるを得なかった。壊れ物を大切に扱うように、人生最後の行為であるかのように私を抱いた高木の体温を、その横顔から感じとってしまうくらいに。

 しかしその時、彼には婚約者がいた。私を抱いて諦めたあと、昔の恋人とよりを戻し、婚約したらしい。高木は困惑したような、自嘲するような顔で話してくれた。

 砂に書いた文字がすっかり波にさらわれるように、一瞬で心が更地になった。別々に歩んだ一年の長さを、恨めしく思った。そして何より、都合のいい自分を恨めしく、情けなく思った。


 気まずい空気が流れたのは一瞬だけで、私は高木の婚約を祝福し、彼もそれに応えた。お互い会わなかった時間を取り戻したかったのだろう、後日高木と会う約束をした。先輩後輩として、間の悪い男女として。



 結局高木との関係は、婚約者が正式に妻になったあとも続いた。高木は毎回私を抱きながら「一年だけ待ってほしい」と言っていたが、一年経ってもこの関係は変わらないだろうと、熱い体の奥底にある冷えた部分で感じていた。予想通り、一年を過ぎても変わらなかった。私はそれを責めなかったし、高木もどうしたいか言わなかった。一年待ってと言われたからそうしていたけど、これからは何の約束もない。二人の結びつきが急に不安定になった気がして、私はそれが何よりも悲しかった。

 私は高木に決めてほしかった。もう一年待ってと言われれば待ったし、妻と別れる気はないと言われれば、お望み通り去ることも、二番目に徹することもできたと思う。高木の意思がわがままであるほど、私はそれに没頭できたのだ。なのに高木は、私に何も求めず、「ちづるはきっと、ある日突然いなくなってしまうんだろうな」と悲しそうに言った。


 そんな関係を、どこかで終わらせなければと思っていた。その期限は、26歳の誕生日だと思った。何故かは分からないけれど、25歳を過ぎた私が、高木の愛人として存在するイメージがわかなかったからである。


 終わらせるきっかけを、ぼんやりと探していた。何かに流されてしまわない限り、高木への気持ちは断ち切れそうにない。大きな波にさらわれない限り、私はずっと砂に書いた文字を守り続けてしまうだろう。

 なんとなく、お酒の席で隣になった男と寝た。高木以外に触れられるのは久しぶりだった。二年もの間、私のすべてを高木に捧げていたことを、心が、体が語っていた。その日は高木が私の家で待っていることを知りながら、素性の知らない男の腕の中で朝を迎えた。


 明け方、始発電車に乗って家に帰ると、知らない男がいた。軽蔑の念を全身から発している高木は、私の知らない男に思えた。

「ちづるはいつだって、俺が最優先だったのに」と言った高木は、すでに関係を終わらせたがっているように感じた。愛人の私には、引きとめる権利はない。高木以外を見てしまった私のことなど、もういらないのだろう。高木が必要としていたのは、絶対に背くことのない従順な私だったのだから。



 自分で終わりのきっかけを作ったくせに、いつまでも高木を忘れることができなかった。聡介は、そんな私を非難するでもなく、慰めるでもなく、ただそばにいてくれた。主人を見守る大型犬のような、そんな存在だった。

 聡介はすべてを知っている。聡介は高木の親友だったし、私も含め共通の友人と何度も集まって遊んでいた。みんな私と高木の関係は知っていたけれど、変にアドバイスしたり、距離をとることもなかった。それぞれに何かを抱えた男女六人の集団は、奇妙で、儚くて、心地よかった。


 どれだけの期間、高木を想いながら一人泣いていたか分からない。その期間だけ、時間も記憶も歪んだ形で残っている。聡介と恋人になるなど、考えもしていなかった。それでも聡介は私を受け入れ、私はその腕の中に、意外なほどすっぽりと収まったのだった。


 またしても、私は波にさらわれるまま、ここまできてしまったのだ。



(続く)

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孤独な同棲 由良木 加子 @yuragino

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