第20話
夏休みも終わり、二学期に入ったばかりの空は青くすみわたっていた。
二週間ぶりの学校は何か違う世界のように見えた。
僅かにそれだけの期間でさえそう思えるのに彼女にはどう見えるんだろうか?
時刻は午後三時を過ぎていて、未だ授業中なので校門前は静閑としている。
当然か、体調を気遣ってこの時間にやってきたんだ。
これから俺達が対峙する状況の前に彼女を無駄に疲労させるわけにはいかない。
校舎に入り、ゆっくりと部室へと向かう階段を昇る。
一瞬フラリと彼女が揺れたように見えて支えるように腕を出す。
今更「大丈夫?」なんて言わないし、彼女も「ありがとう」なんて言わない。
ただ静かに視線を合わせて優しく身体を寄せ合う。
階段を昇る足音はこれから起こる嵐に立ち向かうように強く響き渡った。
「……それで、いまさら何をしにきたの?」
かつての主役である彼女に、現主役である先輩は見下すように言った。
「ええ、長い間皆には迷惑をかけて来ましたけどやっと部に復帰することになったので挨拶をしにきました」
「はっ!いまさら?」
先輩は悪意を隠す気すらない。
周りの人間も先輩程ではないが今更戻ってきた優香に対しては冷ややかだ。
「ええ、何しろ私、主役の一人ですから」
周囲がざわめく。
口調こそ穏やかだったが、優香はきっぱりと自分を主役といった。
「いまさら戻ってきても、主役は私に変更されたのよ?何を言ってるの?」
「そうよ!いままでサボってたのに何言ってるの!」
「ビッチ!早く居なくなっちゃえ!」
先輩の小馬鹿にしたような態度のあとに取り巻き連中が援護するように優香を攻め立てる。
未だあの魔女の鍋底のようなおぞましい怨嗟と嫉妬が混ざった感情は残っているようだ。
あの状況を思い出し、覚悟していたはずの俺でさえ思わず踏み出そうとした瞬間、
「う~ん、そういえばまだ主役変更は正式には決まってなかったでしたね~」
困った仕草の『芝居』をする大隈が割って入る。
「はあ? 先生、何言ってるんですか!もう演出も決まって最終稽古に入ってるんですよ」
当然、先輩が大隈に食ってかかる。
周りの部員達は動揺するようにざわめいている。
「そうね~、確かに主役変更は決まってなかったけれど今更変わっても稽古が間に合わないわね」
「う~ん確かに先輩は代役だったけど、もう台詞を覚える時間は無いから瀬能さん、それは無理じゃないかな?」
大隈やもう一人の主役である東田も時間が無いことを理由に『反対』する。
「ほ、ほらね……確かに私は代役かもしれないけれど、時間が無い以上私が出るしかないのよ」
大隈と東田が主役交代が正式に決定されていないことを『認める発言』をした。
そして先輩もなし崩し的にそれを追認した。
状況は全て整った。
俺は天井を見上げて大きく息を吐く。
「本番に間に合えばいいんですね?」
優香がうっすらと笑って確認する。
「それじゃシーン1から終わりまで一気に始めますね」
数歩後ろに下がり、優香の演技か始まる。
「う、嘘……」
「全て台詞、覚えてきてるの?」
何人かの部員が驚いたように呟いた。
ああ、そうだよ。
あの日からひと時も休まず優香は台本と演出、そして台詞を全て覚えたんだ。
心中で彼女らに返しながら、俺は優香の演技を見守る。
あの日、一晩かけて俺は優香の身体に食事と剥き出しの『俺自身』を流しこんだ。
幸いなことに優香をなんとか繋ぎ止めることかでき、朝になってすぐに東田達には連絡をした。
優香と一緒の写メを送ると、あれからずっと起きてたのか東田からはすぐに『おめでとさん!』という返事を貰い、大隈からは昼過ぎに『とりあえず良かったわね』という返信が来た。
家の窓ガラスを割ったことは緊急事態だったということで優香の両親から許してもらい、俺と優香はそのまま次の日まで一緒にグッスリと寝た。
もうあの悪夢は見なかった。
翌日、起きると優香は大隈に迷惑をかけたことを謝るメールをして東田には台本を送って欲しいと言う連絡をしたそうだ。
俺はというと、ここ数ヶ月間の緊張と数週間の奮闘、そして数日間の悪夢から解放されて優香の膝元ですっかりと寝入ってしまっていた。
寝顔、可愛かったよと、こっそりと優香に撮られた写真の中の俺はまるで子供のような表情をしている。
俺が起きると優香はかつての彼女に戻っていた。
そう、俺が堕とす前の蝶のような彼女に。
それから今日までは本当に忙しかった。
昔を取り戻した優香はすぐに台本を読み込み、俺を相手にひたすら練習をする。
会えなかった数日間を取り戻すようにおれと彼女は少しも離れず、稽古をして、食事をし、共に寝て、身体を重ね合わせ続けた。
ピッタリと貼りついたかのような生活だった。
その濃密な時間を二人で過ごすうちに俺は優香と自分が決定的に違う人間だということを改めて認識した。
もはや疑いようもなく、その差異を悲しく思う気持ちも嘆く気も起きない。
どれだけ同じ時間をすごしても決して混じりあうことは無い。
その部分を認め、だが許すことが出来ずに俺は彼女を縛りつけようと足掻き続けたがそれも終わりだ。
ああ、悲しいほどに嬉しいことに優香と俺は重なり合わない。
それでいい。
それでも優香がこうして動いて、声を聞いて、演技をする姿を見るだけで俺は満足することにした。
ふと大隈の言葉を思い出した。
『あの人が死んで、私は空っぽになってしまった。』
大隈はあるいは未来の俺なのかもしれない。
優香を失った未来の俺は現在の大隈のような人間になっていたかもしれない。
ふと大隈を見る。
顧問として、優香の演技を冷静にチェックしている……ように見える。
だがその瞳の奥に何か懐かしいものをみているような目をして寂しさを隠しているようにも見えた。
きっとそれは正しいだろう。
皮肉なことに俺と大隈はよく似ているのだ。
大隈と俺が決定的に違うところがあるとすれば、大隈はもっとも執着していた存在を永遠に失い、俺はかろうじて失わずにすんだという一点だけだ。
やがて最後の台詞を言い終わり、ステージ上から観客達に最後の挨拶をするようにクルリと腰を折って演技は終了した。
一瞬の沈黙の後には自然と喝采が沸いた。
そしてその場に居た人間達が彼女の周りに集まり賞賛の嵐を彼女に言うのだ。
そして俺はそれを隔たれた世界からそれを見続ける。
「……問題は無いようね」
沸騰するような歓声を静まらせるように大隈の言葉に誰も反対の言葉を上げるものはいない。
東田はホッとしたような顔で優香を見た後に、俺に向かって小さく微笑んだ。
最後まで東田は東田だった。
優香と同じ位置にいる唯一の人間からの微かな賛意に俺は誰にも気づかれないよう会釈で返した。
先輩もその取り巻きも悔しそうな表情を見せつつ、抗いようも無い圧倒的な差に下唇を噛んで俯くだけだ。
俺はもう一度見上げて大きく息を吐いた。
結果はわかりきってはいたけれど、実際の感情は別なのだ。 無事に予想通りの結末になったことに胸をなでおろす。
「……主役死守おめでとう」
見事な演技を見せたとはいえ、病み上がりの優香を気遣って大隈は彼女を先に帰らせた。
ついでに俺にも送っていってあげなさいと命令をして。
部室を出て、階段を降り、校舎から抜け出て青空を仰ぎ見た優香の後姿に一際遅れた賞賛をかけた。
そして俺は数歩、脚をすすめ、彼女が俺の胸に身体を預けるのを受け止めた。
「わ、私……出来たよね?大丈夫だったよね?」
俺の胸に顔をうずめながら子供のような声で問いかける。
その声は……震えていた。
俺は優香との絶望的な差に多少傷つきながらも優しく彼女の背中に腕を回して、
「ああ最高だったよ」
と心からの本心を告げた。
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