第19話
「優香!」
ずっと部屋の明かりもつけずに真っ暗の中に居たせいか、瞳は暗闇に慣れていた。
なのでボンヤリとベッドに横たわる優香の姿が見て取れた。
少なくともまだ死んでしまったことを確認は出来ない。
慌ててかけよって耳元で叫ぶ。
「きょ、恭……君?」
優香は生きていた。
前に会ったときよりも一段と弱々しく儚げに……だが。
「こ、これってゆ、夢……なのか……な? でもいいの……ゴメンね、わ、わたし……」
何か言いかける優香を抱きしめる。
「やめて……くれ……もういいんだ。俺はもういい……んだ。 優香が……居なくなるくらいなら……死んでしまうなんて……やめてくれ」
何の脈絡も無い、意味不明なことを言いながら優香を強くかき寄せて、泣きながら……それしか言うことが出来ない。
優香の身体は冷たかった。
これから死んでしまうかのように急速に体温が失われていっているように思えた。
それを必死で食い止めようと彼女に縋りつく。
まるで懇願するように……。
かつて村瀬祐理恵にしがみついたように……。
ただあの時とは違う。 今は違う。 決定的に違うんだ!
うまく言葉にすることは出来ない。
ただ絶対的にあの時とは違う気持ちで彼女を抱きとめる。
俺は優香のことが好きなんだ!
村瀬祐理恵なんて関係ない!
死んだ人間になんてもう惑わされない!
たとえきっかけがあいつだろうとそんなことは今はまったく関係ない!
俺が優香のことが好きな気持ちは俺だけのものだ。
何年も育んで、ドロドロと煮込み続けたむき出しの、近藤恭介という人間だけの感情なんだ。
やがて彼女の胸元で泣いている俺が今際の際の幻覚として見ている存在ではないことにやっと優香は気づいてくれた。
「恭……君? 本当に恭君なの? 嬉し……い。 恭君が本当に会いに来てくれ……た……わ、私……もう……嫌われた……から……死のうと思った……んだけ……ど……もう起きあがれ……ない……。 ……首も釣れない……し、手首も切れなかった……だか……ら……このまま静か……に死の……うと……思って……」
「いやだ!死なないでくれ……優香……が、死んで……しまった……ら……おれ……は……生きて……」
涙で詰まって言葉が出ない。
最後まで言い切りたいのに言葉が出てこない。
だが意思は伝わったようで、乾ききった優香の瞳に涙が湧き出てくる。
「う……うれ……し……い……き、嫌わ……て……なんか……いなかった……んだ……わた……し……うれ……し……い……で……で……も……ちょ……っと……遅かった……か……も……わ、私……の心臓が……ね……ゆっくりと……遅くなっ……きてる……から……ご、ごめん……ね……」
優香を通して聞こえてくる心音が小さくなっていく。
「どうして……? なんで……? やっと気づけたのに……やっと本当に好きなんだって……気づけたのに……」
後悔の言葉ばかりが出てくる。
やめてくれ。
どうして終わりを意識した言葉が出てくる?
誰か止めてくれ……。 彼女が行ってしまうのを……。
俺はどうなってもいいから……どうか優香だけは死なないで……くれ。
「ふっ……ぐっ……ううっ……ううっ……」
泣きじゃくる俺の頭に細い手が乗せられる。
まるで空気のように重さは感じられなかった。
それがゆっくりと動いて頭を撫でてくれる。
「ご……ごめん……ね……わ、わたし……も……い、生きた……い……よ……でも……もう……何日……も……食べ……られなく……て、身体が……受け付けないの……水……すら……」
枕元には水差しと食事が手付かずで添えられていた。
「い、いやだ!死なないで……よ……お願い……だか……ら……死な……ないで」
心の底から懇願する願いを無視するかのようにどんどん優香の声が小さくなっていく。
同時に鼓動も徐々に……。
『死』が急速に彼女に近づいてくるのを感じる。
「ご……め……ん……さい……ご……おねがい……キ、キス……を……」
優香が遠くなっていく。
こんなにもピッタリとくっついているのにどんどん離れていくように思える。
「こ、こんなことって……まだ途中なのに……やっと動けた……っていうのに……」
怒りすら覚える理不尽とどうしようもない無力さが俺を絶望させていく。
「お……ね……キ……ス……を……」
懇願する優香の腕がズルリと顔の横を落ちていく。
もう……時間が……無い……。
俺はゆっくりと優香の身体を起こす。
そして顔を彼女に近づける。
「あ……り……が……さ……い……ご……あえ……」
自分の最後の願いが叶えられる瞬間まではと優香自身も必死でこの世に残ろうとしている。
俺は水差しを僅かに口に含み優香にキスをする。
同時に水を口内に流しこむ。
「……ぇっ……」
カサカサとした唇の感触はまるで砂のようだった。
触れた場所からボロボロと崩れてしまうのではないかと思える程に……。
もう一度水を口に含み、再度キスをする。
そして言葉をつむぎだす。
「優香がいなくなったら生きている意味すらなくなるんだ……だからお願いだ……生きてくれ」
希望と同程度の恐怖を振り払うように彼女を抱きしめ、もう一度水を流しこむ。
しがみつく様に、救いを求めるように彼女をおさえつけるように包みこむ。
そこに……いや彼女の全てに潤いを与えるために。
俺は何度も口付けを交わした。
それは愛情の発露でもなく情欲の交換でもない……生きるために必要なものを流しこむためのひどく原始的な行為だ。
今まで惜しげもなく嘘と悪意を吐き出してきた口から、俺は優香が生きるために必要なわずかな水分と栄養素、そしておれ自身の何の脚色も無く、むき出しの本音を大きく込めて彼女の肉体へと流し込む。
それが内臓をめぐり、彼女の血肉となって、そして細胞の一つ一つに取り込まれることを望み、生きる糧になることを願いながらただただ不器用でグロテスクな『近藤恭介』の一部を同化させていく。
ああ、本当に俺はどうしようもない男のようだ。
愛した人の最後の願いを無視して、まだ生きろというのだから……。
乾いた瞳の奥が潤い、優香が途切れ途切れにつぶやいた。
「……あり……が……とう……恭……介」
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