第11話

「涼しくなってきた……もう夏も終わりだね」

 

 開いた窓から入ってくる風が肌寒くなってきていることに気づいた。


「うん……そうだね」


 そんな外気よりも冷えた声で彼女が返す。


 ベッドの上の優香は決められた場所のようにそこにいる。


 まるでそこから動けないかのように……。


 いや、それは語弊ではない。


 事実、優香は何度も俺と交わった寝床から動いていない。


 それを証明するかのように彼女の頬はこけ、かつて唇が触れたところからうっすらとピンク色に染まっていた肌は紙の様に白くなっていた。  


「おばさんから聞いたよ……また食べなかったんだって?」


「うん……ごめんね」


 うつむく瞳にはかつてのような明るさは感じられない。


 俺はだまって彼女の頬に手を触れ、静かに引き寄せた。


 あの悪夢のような裁判から優香は学校に来なくなり、それがやがて来られなくなり、部屋から出られなくなり、そして今ではベッドの上から立ち上がることすらも出来なくなった。

 

 それはまるで遅効性の毒に侵されたかのようだ。 


 舞台の上であんなに輝いていて見えていた彼女はこんなに弱々しくなってしまっている。

 

 でもいまの俺には何も出来ない。 


 強く抑えてしまえば壊れてしまうかもしれないから優しく抱擁する。


「優しいね……恭君」


 優香がポツリと呟く……その痛みに耐えながら俺たち二人は、


「……そんなんじゃないよ……そんな……ん……じゃ……」


「………………うん」


 まるで上っ面を撫ぜるように抱き合っていた。





    

 


「ぐあっ!…」

 

 ガタンという音と一緒に冷たい床の感触が顔につく。


「なぜ叩かれたかわかるかしら? 恭君?」


「う……うるさ……い、その名で……俺を呼ぶな」


 クラクラとする衝撃と鈍い痛みに呻きながら言い返す。


「な~に?それで呼んでいいのはマイハニーの優香ちゃんだけだって言いたいの……かしら!」


「あっ…ぐっ…ああっ」


 大隈の全力の蹴りがしたたかに俺の鳩尾に入る。 


吐き気と酸欠、そして重い痛みでうずくまる。


「あ~、うるさい、うるさい」

 

 淡々としたリズムで大隈が追い打つように蹴りを入れてくる。

 

 鳩尾に来た最初の一撃がいまだ効いていて、避けることができないので全身を縮めて耐えようとする……が、しかしミシミシという音に痛覚が刺激され、小さく悲鳴が出てしまう。


それすらも刺激の一助になっているようで大隈の攻撃のボルテージが徐々に上がっていく。


 抑えた腕の隙間からは大隈がどんよりと潤んだ瞳で見下ろしていて、その目で見据えられると『理由のわからない恐怖』によってこいつに逆らおうとする気力が出てこなくなってしまう。 


「ふう……、それで少しはわかってくれたかしら?」


 小馬鹿にするように見下ろされる屈辱だけは避けたかったので無理やり立ち上がり大隈の鼻先まで顔を近づけて睨みつけてやる 。


 というかそれくらいが俺に出来る最大限の抵抗だった。


「ひょろっとしているように見えて意外にタフなのね……先生、ドキドキしちゃうわ」


 おどけたように身体をくねらせている大隈から視線をはずさず、そばにあった椅子に乱暴に腰掛ける。 


クソッ! 目の前がクラクラする。

 

 優香は元気になるどころか日に日に衰弱し、未だに学校に戻ることが出来ないでいる。


 彼女の両親から何度も一体何があったのかと問われるたびに俺は俯くことしかできなかった。


 優香はどうして自分がこうなってしまったかを誰にも言わないでいる。 


 ただ『私が悪かったの』とだけ言い、口を閉ざすだけだ。


 そして俺も自分自身の罪と矮小さ、そして本性を隠すために真の理由を言えない。


 いや、言わないといった方が真実だろう。 

 

 もう後戻りすることが出来ない。


 彼女を縛り付けるために巻きつけた『悪意』という『蜘蛛の糸』は優香だけではなく、俺自身にも絡みつき身動きを取れないものにしている。 


 事態は最悪へと向かっている。 


 どうしてこんなことになってしまったのだろう? 


 俺は……ただ、ただ……彼女と一緒に居たいだけだったのに……。


「ああ、そうだよ……優香は……悪い方向に……むか……っていってる」


 状況の悪化を搾り出すように肯定すると、ひょうきんな素振りを見せていた大隈が急に無表情になり、目前に顔を近づけて、


「ちゃんとわかってるじゃない」


 別人のような口ぶりになる。


 瞳の中に俺が写ってはいるがおれ自身のことは見ていない。


 『見てはいる』が『俺という生物を視覚』していないといった方がいいだろう……。


 背景を、無機物を、虫けらを見て関心を向ける人間がいるだろうか? 


いや、いない! 

 

 大隈にとっては俺はその程度の存在だということが見てとれた。 


「あ、あんた……優香をどうする……つもり……なんだ」

   

決して鋭い方ではない俺でも大隈が優香に対して興味を持っていることはわかった。 


 でなければ大隈が俺という『虫けら』にわざわざ本性など見せるはずが無い。


 たとえ優香の大事な『付属物』だとしてもだ。


「ふ、ふ、ふふふ……どうしたいかですって? あははは……この私が……あの子を……ど、どうかしたいだなん……て……わ、笑わせな、ない……で……はっはは!あはははははは!」


 何が面白いのか?


 グニャリと表情を崩した後に大隈が笑う。


 予想外の反応に口をはさめず呆然とその光景を見ていることしかできなかった。


「あの子は……ね、蝶なのよ!賞を取った舞台の映像を見たときに確信したわ……ああ、あの表情、声に何よりもあの雰囲気……綺麗だった……凡人とは違う、空高く飛んでいく存在……それがあの子なのよ!」


 熱っぽく、まるで恋人のことのように語る大隈の表情からは初めて人間らしい部分が見て取れた。 

 

 そして彼女の独白を聞きながら、俺は妙な感動を覚えていた。


 それは歓喜と親愛が微妙に混ざった不思議な感情だ。


 大隈の言っていることを俺は理解できる。


 理解というよりも彼女はあの優香の舞台、俺が自分が一匹の蜘蛛という『虫けら』に過ぎないことを気づかせてくれたあの時と同じ感想を抱いたことに、自分でも驚くほどに心が動かされている。


 自身と同じ考えを抱いた人間がいたという事実に喜びが隠せない。


「そう……だな……あの舞台での優香は綺麗……で、まさに……蝶だった」

 

 いまだに腹部に受けた衝撃から回復できず、途切れ途切れではあっても大隈に賛同する。


「…………えっ?」

 

 熱病に冒されたかのようだった大隈が惚けたようにこちらを見る。 

 

 そのまま間髪入れず距離を詰めてきた。


 お互いの吐息がかかりそうなほどに近づいて、まんまると開かれた瞳の中に俺を反射させながら、さっきとは違って初めて自身の内側に入れてくれたのを感じた。


「あなたも……そう……思うの?」


 俺は動揺する。


 急激に恥ずかしくなってきたのだ。 


 俺は優香が好きだ。


 その気持ちに嘘偽りなんてない。


 それを表明することは今までに散々述べた理由さえなければいくらだって言うことが出来る。 

 

 だが大隈に、自分と同じ想いを抱いた人間にその問いをされたときに身体がカッと熱くなるほどの恥かしさを覚えた。 

 

 それは俺が彼女を同類だと認めたが故なんだろうか?


 どうでもいい人間に何を言われても動揺なんてしない。


 猫や犬が鳴いても感動することがないのと一緒だ。 


だが同じ仲間、同じ存在に言われたとしたらどうだろうか? 

 

 その証明がいま現在の俺の反応だ。


「あ、ああ……俺も……あのとき、同じように……思った……よ」

 

 全身が染めあがるような羞恥に耐えながら肯定した。


 大隈の問いかけから逃げることなど出来ない。


 それはやつを無意識にとはいえ同類だと判断したがゆえに、優香に関することにかけては負けられないという自負があるからだ。


 彼女を手に入れるためにやった侮蔑されるような工作、そんなことをしてまで彼女に魅了された俺は、ある意味同じように魅了された大隈に対する一種のライバル意識みたいなものを抱いていた。


 それゆえに大隈の問いかけに嘘を言うことも誤魔化すことも出来ない。


 同格と思うからこそ、卑屈に誤魔化すことはしない。 


 なぜならそれをしてしまえば優香を好きだという気持ちに泥を塗る行為だと確信しているからだ。


 最低だからこそ、唯一ここだけは誠実に対応をしなければならない。


「……やるじゃない」

 

 大隈が初めて俺に心からの微笑みを見せる。 


「……はじめてあんたに褒められたな」


 ニカっと歯を出して笑う。


 そんなことをしたのは一体何年ぶりだろうか? 

 

 口では楽しいよと言っていても常につまらなさそうな顔をしていて優香に注意されていたことを思い出した。


 曰く、『楽しいときは顔の筋肉を緩めて笑いなさいよ』


 そう言う優香の柔らかな表情を見なくなって一体どれくらいたつのだろう?


 ああ……自ら彼女を潰した俺がそれを懐かしみ、また見たいと思ってしまうことはやはり罪深いことではあるだろう。

 

 真相を知った優香や大隈、あるいは東田はなんと俺を罵倒するんだろうか?


 背中に走る怖気に耐えながら自らの罪悪を全身で甘受し、天井を見上げる。


「それにしても現状は厳しいわ……、お姫様は城から出て来れず、反逆者もわからない、そして一番の問題は……」


 大隈がそこで一瞬区切り、

 

『何より時間が足りない』


 二人しか居ない教室で声がハモる。


 状況は絶望的だ。 

 

 季節は初夏も過ぎ去り、すでに晩夏に差し掛かっている。


 わかりやすく言うのならもう夏休みも終わりに近づいている時期なのである。

 

 秋の発表会までは二ヶ月を切っていて、本番を意識した通し稽古が演劇部では今日から始まる。


 仮に優香がもう一度主役に戻ることが出来たとしても、ギリギリ間に合うかどうかのタイミングだ。


「ここで悩んでいたってしょうがないわね、部活に向かうとしましょう……一応、私は顧問だし、あなたも部員だしね」


 億劫そうに椅子から立ち上がり、稽古中の体育館へと二人で向かう。


 教室を出て、夏休み中で誰も居ない廊下を歩く道すがら、大隈が弱りきったように溜息をつく。


「……あんたでも、そんな風になるんだな」

 

 正体を隠した状態でのファーストコンタクトからの間、ほぼ毎日大隈と(たまに東田もだが)優香を復帰させる方策を話しあっていた。 

 

 方策を話し合っていた回数なら東田の方が多いかもしれない。


 なぜなら俺は学校が終わったなら、大隈で言うところの『お姫様のケア』があるからだ。


 もっともその仕事に関しては俺は無能という評価を大隈から受けているが……。


 兎にも角にも、昼間は授業に放課後は部活の副顧問(最近では実質顧問のようなこともしている)そして夜は俺と東田と共に優香のことを話し合う。


 まだ若い俺でさえ、優香の相手と昼間の授業に演劇部の裏方作業はかなり疲労するというのに……。


 それを淡々とこなしている大隈にその内面はともかく感心すら持ちつつあった。


 だから俺の前で初めて見せた疲労の色と普段から罵倒されていることへの仕返しをかねて自分にしては珍しく軽口を叩いてしまった。


「別にかまいやしないわ……目的に向かうために積み上げることの一つだもの」


「……なんだ、それ?」


 予想外の反応にうまく返せない俺に皮肉っぽく笑いながら、


「あんたにはまだわからないわよ」


「ちっ、なんなんだよ……」


 せっかく反撃できたと思ったらあっさりと煙に巻かれてしまった。 


ばつが悪くて大隈から視線を逸らす。


「ほら……もうすぐ部室につくわ、認めたくは無いけれど一応生徒なんだからみんなの前ではちゃんと先生として接しなさい」


 その言い振り自体が教師染みてはいたが、妙に優しくも聞こえた。

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