第9話

「そう……柳井先輩が私の代役になったの……」


 カーテンを閉め切った電気もつけない薄暗い部屋の中で機械のようにそう発声した。


 時刻は午後五時半を過ぎたところ、まだまだ外は明るいがそれでも夜に向けてヨチヨチと歩き始めたところだ。


「後は……その……いつもと変わらずさ」


 言葉を慎重に選びながら無理やり地雷原を進まされるような心境で次の言葉を捜したが、どうにも出てこない。


 暗い静かな部屋で居心地悪く沈黙していると、優香は何も言わず、蛇のようにスルスルとベッドから腕を出して俺の手首を掴む。


 学校に来なくなってからまだ数日なのにぎょっとするほどに細くまた死人のように冷たい腕だった。


 俺は何も言わず掴まれた腕とは逆の手で彼女の細いそれを自分の体温を送りこむようにそっと手首から肩口までスーと軽く握って滑らせた。


 自分と同じ生物とは思えないほどにそこは冷たく無機質で、先ほどの動きとあいまって本当に爬虫類科の変温動物を触っているかのような錯覚さえ覚える。


 後はお決まりだ。


 数ヶ月前から何度も、でもしかし数日前からは同じコトでも意味合いと氷柱に包まれているような寒々とした虚しく心を腐らせるような行為を始める。


「あっ……」


 か細く出されたその声はベッドがきしむ音と同じくらいに無機質だった。


 彼女の敏感だったピンク色の突起にぬくもりを与えるように口に含んでも、彼女が恥じらいと快感の相乗効果でいくら舐めても取り切れないほどにあふれさせたオーラル行為も優しく唇と口内にもぐりこませてしがみついてきたキスと同時に自身が侵入する前の偵察行為である指入れも何もかもが馬鹿馬鹿しい行為と思えてくる。


 確かに優香は反応していた。


 寧ろ今までよりもなお淫らに貪欲に求めているように見える。


 だが俺は気づかないフリをしているが、それらは塗りたくられた厚化粧や命惜しさの追従だった。


 なぜなら俺が何かをするたびに、情熱的に濡れそぼった瞳のその奥には反応を見逃すまいとする意識だけがありありと見て取れるからだ。


 まるでレイプ……殴りつけて罵倒して無理やり足を開かせて挿入し、下卑た笑いで髪の毛を引っ張り上げ、頭を打ちつけながら無理やり卑猥な言葉を言わせているような最低の愛情確認行為。


 全ての尊厳と誇りを打ち砕くような……人間を止めるような……虫ケラ以下のような……そんな言葉が次々と頭に浮かび、視界が赤く、体中の内臓を全て吐き出したくなるような吐き気にさえ襲わされる。


 そしてそんな拷問を受けているような状況の中で俺は優しく、全身全霊で彼女に対する最大限の愛情と喜びを限界を超えて表現しなければならない。 


 優香がレントゲン写真のように無機質に観察していて、もし俺がこの行為に欠片ほどでも何かを見せてしまったら間違いなく彼女は存在を自ら消してしまうだろう。


 彼女がこの世から消えることが問題なんじゃない。


 今回のことが無くても俺は優香がもし事故や病気によって死んでしまったら躊躇することなくこの世から消えることだろう。


 死後の世界や生まれ変わりを信じているわけじゃない。


 ましてや愛とやらに殉ずるわけでもない。 


 ただ彼女が存在しない世界で自分が存在していいはずが無いからだ。


 だがこんなのは嫌だ。


 こんなのは駄目だ。


 あってはならないんだ。

 

 俺はこんな彼女を見たいんじゃない。


 機械のように観察して俺が喜ぶように演技するだけの人形なんて嫌なんだ!


 存在しない神とやらの為に何の疑問もわかず正しいとされる行為だけを歯車のように続ける存在になっては駄目だ!


 愛情だけを貪欲に欲しがって何の葛藤も無く心が揺らぐことの無い人間には優香は絶対なってはならないんだ!


 人形にされることも歯車にされることも葛藤が無くなる事も、それらが本人の内面を形成して居る以上そうなることは優香を全否定することになる。


 俺は優香の外見も内面もそれら全てを愛している。


 だからこそ彼女を形成するそれら全てを俺の考えなしに変えることは許さないし、許すことは出来ない。


 それが良いことでも悪いことでも許すことは出来ないのだ。


「……愛してる……愛してるよ……恭……君……」


 呪文のように唱え続ける愛の言葉の裏には愛してるよね?


私を愛しているんだよね?


という呪詛にも似た問いかけが込められていることを感じながら俺は内心の焦りと怖気を心の一番底に沈み込ませる。


 そして世界を敵に回しても、破滅してもという前詞が着く様な発声で、


「うん……俺も優香を世界で一番愛しているよ」


 人生最大の大嘘をついた。










「うっ、うう……おえっ……がはっ……うっ…」


 芳しいバラの香りに包まれながら胃液をしゃがみこんで便器に吐き出す。 


 安っぽい芳香剤から香る人工的なバラの香りと酸っぱい臭いが混ざり合って余計に吐き気を刺激してくる。


 優香と愛し合い、楽しげに談笑し、彼女の部屋を出て、帰りがけに出会った彼女の母親に爽やかに会釈を返し、決して遠くは無い我が家へとゆっくりと歩んで、全てのツケを払うように便器に汚物を撒き散らす。 


 感情ではなく本能が拒否するセックスを貫徹し、グルグルとした眩暈を起こすような嫌悪感を全身で感じ取りながら俺は自身の罪をいま償わされている。

 

 それでも後悔はしていない。


 することは出来ない。 


 まるでトランプで作られたタワーのようだ。 


 一箇所組んでしまえばもう手を出すことは出来ない。


 たとえ目標まで積み上げられないと分かっていても文字通り進むことしか出来ない。


 そうだ……俺は戻ることは出来ない……こうしていくしかない……こうやって進むしかない……誰も助けてくれる人はいないのだから。


 全身が震える程に反吐を吐き、そこから動くことすら出来ず、たらふく酒を飲みすぎた酔っ払いのように便器を抱えて涙を滲ませて胃の内部を排出しつづける。


 吐き出すものが無くなって空っぽになってもそれでも吐き出せと無理やりに身体は嗚咽を強制する。


 いっそこの世からも追い出して欲しいと思う。


 ああそれでも俺はあっちでも優香を求めるのだろう。


 やっと脳みそは胃が空っぽになったことに気づいたようで、荒い息と粘性の高いよだれを名残にやっと収まった。


 携帯で確認すると帰宅してたっぷり数十分の間これを繰り返していたようだ。


 なぜか自嘲気味に笑ったところで、手元の携帯が震える。 


「……も、もしもし……うっ、ごほっ……」


 反射的に通話を押して咳きのおまけを付けて電話に出る。


「久しぶりね……体調が悪いようだけど大丈夫かしら?」


 爛れて熱を帯びた内臓がヒヤリと冷やされるような声が耳に入ってくる。


「あ、あんたか……何の用なんだよ」


「友達に電話するのに特別な用事なんて必要なの?」


「……はっ、はは……あんたが友達ね」


 笑いが漏れるように口から出る。


「ええ……そうよ、私と貴方はお友達……とってもとっても大事な大事なお友達よ」


 悪魔が囁くように笑う女に何も言えずに黙り込む。


「ちょっと~、何か言ってくれてもいいじゃない。そんなにあの子と東田君のツーショットがショックだったのかしら?」


 そうだ……そうだった。


 優香が壊れてしまったのも、俺がこうやって内容物を引きずりだされているのも全てこの女が原因だった。


「ああ、あんたのおかげで毎日が楽しいよ」


「簡潔に嫌味をありがとう」


 お礼を言って俺の嫌味を平然と受ける。


「悪いんだけどいま最低に気分が悪いんだよ。電話切ってもいいかな?」


「私は最高の気分よ……それでどうかしら?」


「……何がだよ?」


 質問の意味がわからない……一体何がどうなんだというんだ?


「負け犬で淫乱なダッチワイフな彼女とセックスする気分はどうなのって聞いたのよ」


「はっ?」


 一瞬で頭に血が昇る。


 強烈な嘔吐と酸欠でぼやけていた脳内にカッと何かが走って視界はクリアになっていく。


「いま一体なんて言ったんだ?」


「あら……ずいぶんと怖い声を出してくれたわね。やっと二日酔い見たいなダルそうな声が変わってすごく嬉しいわ……でも駄目ね、トイレの窓があいてるわ……近所の方にも聞こえるわよ?」


 口元についていた嗚咽の名残を乱暴に袖で拭き取ってトイレの窓を覗き込む。


 こちらからは何も見えない。


 トイレの扉を乱暴に蹴り開けて玄関から外に出ると、


「やっほー、調子はどう?」


 まるで親友と出会った時のようにニコリと笑ったあの女が立っていた。










「へ~、意外に片付いてるのね……男の子の部屋っぽくないわ」


 少し残念そうな素振りで部屋を見渡し、部屋の真ん中に座る。


「一体何しに来たんだ?というよりなんで俺の家を知っているんだ?」


 当然の疑問に答えず女が要件を切り出してくる。


「そんなことより瀬能さんのことどうするの?」


「なっ……おま……えが……」


「な、何を言っているんだ? そもそもお前があんな写真を貼り出すからこんなことになったんだぞ……って言いたいんでしょ?」



 驚きのあまり絶句した俺の言葉を代弁する。


 何の悪気もなく、平然と……。


「そ、そうだよ……自分からあんなことをして……痛っ!」


 こちらを見もせずに平手で頬を張られる。 


「ええ、そうよ……あんたがビビリでグズだからこんなことになったんだわ……その意味をわかってるの?」


 まさに侮蔑という表現が似合いそうな瞳で女は俺を見ている。


「まったく東田君もヘタレだし、あんたはビビリでグズ、そのせいで瀬能さんは学校にこれず、主役は自己愛が強いだけのブスに奪われる……私の期待をどこまで裏切れば気が済むのかしら」


「ふ、ふざけるな……お前があんなツーショット写真を張り出して連中を煽ったからだろ……東田だってあんな状況じゃ庇えるはずが……」


 語尾はどんどん小さくなっていく。


 心まで凍りつくような女の視線に恐怖を感じてしまっているからだ。


 何故……なんで俺はこの人にこんなにビビっているんだ?


 こいつは敵だ。


 俺と優香の間に入りこんだバグ、異物……そう、東田と同じように二人の世界には必要ない存在なのに……。


「だからどうしたっていうの?嫉妬にかられた連中に罵倒されていたあの時に君は何をしていたの?東田君は何をやっていたの?」


「そ、それは……」


 口ごもる。


 優香が煮えたぎった悪意のスープに落ちることがわかりきっていたなかで俺は自分のエゴでそれを肯定した。


 だがそれを堂々と口に出して開き直れることはできなかった。 


 虫けらのような俺でも腹の中の悪意を他人に言えるほどの覚悟はなかった。

 

「ふん……器の小さい男……、まあ東田君も同じだけどね……普段はあれだけ口が滑らかに動くのにちょっと責められたくらいで黙りこむなんて情けないわ」


 憮然とひとしきり文句を言ったあとで、あらためて女が俺と向き合う。 


「まあいいわ……瀬能優香を立ち直させるために協力しなさい。あなたもこの状況は本意ではないでしょ?」


 確かにあの人形のように、死んでいるのと同然のような優香は見ていたくない。 


 地獄のような吊し上げ、リンチのような裁判、そんな風に形容できるあの状況に彼女がはまりこむことを俺は消極的にとはいえ肯定した。 


 そしてその結果としてさっきまで便器を抱いて汚物を吐き出していたのだ。


 だが正体も知らない、なのに俺や優香そして東田のことを知り、事の顛末をも知っているこの女を信用していいものかどうか?


 同時に協力することにより、俺以上にこの女が優香との関係を深めていきはしないかという手前勝手な理屈も湧いてくる。


 だがそんな俺の心底を見抜いてか、飽きれたようにため息をついて女が自身の携帯を差し出す。 


 画面上ではメールボックスが開かれていて、そこには俺には見せていない優香の苦悩が刻まれていた。



 人と話すのが怖い。


 周りの自分を見る視線が怖い。


 周囲の人間を信頼できない自分が怖い。


 途方もない悪意が自分を切りつけるのが怖い。


 そんなようなことがメールには打たれている。 


 さらに読み進めると、恋人である恭君を信用できない自分が嫌い。


 恭君を信用できずにやった行為をした自分が嫌い。


 それなのに許してくれた恭君の期待を裏切るのが怖くて努力しても結局どうにもできなかった自分が嫌い。

  

 そしてメールボックスの最上段、日付は今日。


 時刻はちょうど俺が帰った時くらいだ。 


そこに書かれた文面は、


『もうこのまま消えてしまいたい』


 一言だけ書かれたその言葉で、優香の絶望がはっきりと見て取れた。

 

 ああ、こんなことなんて望んでいなかったのに……。


 俺は俺自身の小さな希望のために最愛の人である彼女を壊してしまったのか。


 涙は出なかった。


 強い罪悪感と自分自身に対する怒り、そして優香を騙すことだけに集中していて、彼女の心が壊れていくのに気づかないでいたという無力感がごちゃまぜになった不思議な気持ちだった。 


「それで……君はどうするのかしら?」


 冷静な口調で女は問いかける。


 答えはわかりきっているというのにまったく嫌味な女だ。


 そして乗せられていると分かっていても俺はこの言葉を出す以外の選択肢が無い。 


「決まってるだろ……優香をもう一度蘇らせるのさ」


 たとえ乗せられているとわかっていても、女に思惑があったとしてもそれでも今のままよりは万倍、いや億万倍マシなのだから……。

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