第7話

翌日の学校ではうつらうつらと取り込む様に迫る睡魔と闘いながらボンヤリと窓の外を見ていた。


 自宅に帰った俺はすぐに優香にメールをした。 


遅くなってしまった以上寝てしまっている可能性もあるからだ。 


無神経に眠っている彼女を起こして話をすることは俺の中ではありえないことだ。


 最悪な男だからこそ、普通以上にそういうところには拘っていきたいと思っている。


 全く無意味な自己満足ではあるけれど……。


 返事はメールではなく電話で帰ってきた。


 着信を示す項目に浮かび上がる優香の文字が今はすごく儚く見える。


 先ほどの謎の女から知らされた事実が原因なんだろうか?


 だが……、だが俺はそれを責めることも怒る資格もあるはずが無い。 


 俺はゆっくりと通話ボタンを押す。


 そしていつもどおりに穏やかに電話口に出る。


 そのゆったりとした行動が俺自身の覚悟を示すものだと思って……。


 会話の内容はわざわざ言うこともない程度の内容、俺の言葉で奮起して頑張って話したよとか部活でやる演劇の打ち合わせ等、どうでもいい内容だった。


 だが俺はその言葉一つ一つに一喜一憂して大げさに騒ぎたて、そして最後に優香を優しく静かに褒め称えた。


 電話の向こうで優香の嬉しそうな顔が思い浮かぶ。


 きっと彼女も俺の表情を想像していたことだろう。


 もっとも実際の俺は無表情で、あの女のことだけが脳内の大部分を占められていた。


 そして普通の恋人同士がするようにおやすみを言って電話を切った。


 ちなみに東田からのメールは無かった。 


まあ来てもうざったいだけなんだけどさ。



 

 フワリとあくびが出た。


 それを手のひらで隠しながら相変わらず俺は窓の外を見ている。


 俺の席は教室の一番奥の隅で、いまやっている授業の内容は古文である。


教室内には教師のブツブツという呪文めいた教科書の朗読が奏でられていて、大多数のクラスメイト達は俺と同じように睡魔と闘い、そして一部の生徒は見事ノックアウトされて机に突っ伏している。 


 半分ふやけた頭であの女が何をするのかということを考えつづけていたが、やはり思いつかない。


 当然だ。


 俺はあの女ではないし、予想するには情報が足り無すぎる。 


 何の装備も持たされないで海底に放り込まれたようなもんなのだから。


 ここはきっぱり思考を切り替えるべきではあるが、倒れたら熟睡してしまうほどに弱りきった状態ではそれすら出来ない。


 ただただ漫然と攻撃終了の合図を待つだけだ。


 そのときポケットに入れておいた携帯メールが震える。


 小さく数回震えて止まったところを見るとメールを受信したようだが、一体誰だろう?


 優香である可能性は……無い。


 なぜなら俺の携帯は受信相手によって着メロとバイブのパターンを変えられるのでこの震え方は優香のものではない……では東田か?


 それもまた別のパターンで登録しているので不正解だ。


 ということはこのメールは登録していないアドレスから来たということだが、迷惑メールだろうか?


 壊れたテープレコーダーのようにブツブツと音を発する教師の目を盗んで、ポケットから携帯を取りだして開く。 


 やはり知らないアドレスからで、何の文章もつけられていない……ただ添付ファイルが添付されており、それを開くかどうかで一瞬迷ったがボタンを押し込んでそれを開いた。


 受信中の表示が出た数秒後、開かれた画像を見て俺は天井を見上げる。


 そうか……わざわざあそこに現れたのはこれもあったのか……。


 しばらく目を瞑り、小さく息を吐いてきゅっと口元を閉める。


 時間を見ると時刻は11時45分、授業の残りはあと五分だ。


 そしてその後には昼休みが待っている。 


 ああこれからの一時間はおそらく人生の中で最大限の注意と覚悟、冷静さを持って対処しなければならないだろう。


 授業終了を示すチャイムが鳴ったとほぼ同時に教室から飛び出し、すぐに優香の居る教室へと向かう。


 優香の居る教室まではざっと数十メートル、そこに到達するまでにすべきことを超高速で組み立てる。


 まず彼女を教室からすぐに離れさせる。


 優香の教室には演劇部の部員がかなりの人数居る。


 あのメールは演劇部員全員に発信されたかもしれない。


 そうなれば……。


 頭の中でカッと火がつくイメージが沸いた。


 奥歯を強く噛みこんだせいで頭痛がする。


ああどうしよう俺はいま信じられないほどに、理不尽なまでに怒り狂っている。


 あの女の首を締め上げて、叩きつけて、頭を砕いてやりたいと本気で思ってしまっている。


 そんな自分自身も同じようにしてやりたい気分だ!


 俺が心を震わせるのは優香だけのはずだ!


俺が本気で心から考えるのは優香だけだ!


 どんな理不尽で、腹の立つことがあっても俺は優香以外に心を動かされてはいけないんだ!


 それがたとえ喜びでも怒りでも悲しみでも楽しいという感情さえも全て俺の中のそれは全て優香のためだけに存在している!


 そういう約束を……契約をしたんだ……あの日彼女に言われて……。


 教室から出てくる同級生達の驚く姿を交わし続け優香の教室に到着する。


 すぐに全力の力で教室の扉を開き、名前を叫ぶ。


「優香!」


 教室内でポツリと椅子に座っていた優香が振り向く。


 呆けたような、驚いたように大きく瞳を開いている。 


「恭……くん?」


 彼女の姿を確認すると同時に走り出して優香の手を引っ張って教室外へと引っ張り出していく。


「えっ?ちょ…ちょっと…ど、どうしたの!」


 疑問符を上げ続ける優香の声を無視して俺は学校の廊下を走り続ける。


 燃え上がった脳内で静かなところを探し続ける。


 すれ違う奴らが驚いたように振り替えるところを見るとよっぽど今の俺は血走った目をしているようだな。

 

 一つの場所を思いついて俺はそこまで優香を引っ張っていく。


 この頃になると優香は何も言わず黙って俺の引っ張る方向へと共走り出していた。


 強く握り締める俺の腕を強い力で……。


 やがて目的の場所に着いたことで俺は掴んでいた優香の腕をやっと放した。


 手のひらにはじっとりと汗をかき、強く握ったためかジンジンとした痺れと優香の細い腕の感触だけが小さく残っていた。


「ど、どうしたの?いきなりこんなところに引っ張って……」


「あ、ああ……じ、実は……」


 そこで口が一旦止まる。


まずどういう風に話をするかを考えなくてはならない。


 一旦周囲を見渡し、しばし考える。


 幸い俺が優香を連れてきた場所は移動教室ばかりが集められた校舎裏で、掃除の時間等以外で人が来ることは滅多に無い場所だ。


例の画像のことを聞きに来る人間はまず来ないはずだ。

 

 よく考えてみたらあの画像を見た後はどうやって優香を連れ出すということしか思っていなかったことに気づき、どう説明しようかというのを忘れていた。


「い、いやあ……ちょっと……優香と話したくてさ」


「……?」


 とりあえず考えがまとまるまで話を伸ばそう。 


そのためにもまず誤魔化すためにこのことを言っておかないと、


「だって最近東田と三人でお昼食べてただろう?たまには……その……二人で……過ごすのも悪くないと思ってさ」


 やや照れたようなニュアンスを含ませる大事なところに少しだけ間を空ける。

 

「あ、ああ……そ、そうだったんだ。わ、私も……たまには……二人もいいなって思って……たから……嬉しいな」


 モジモジと少しだけ頬を紅色に染めて、優香がつつと俺の隣に来る。


 そしてチョコンと俺の制服の袖口を持って照れたようにニッコリと笑った。 


「……とりあえず座ろうか?」


 コンクリート部分の上に載っているホコリやらゴミなどを払って促す。

 

「う、うん……」


 ややぎこちない返事をして優香が座ったのを確認してから俺も隣に座る。


 やや間が開いてしまったので取り繕うように話を始めた。


 とりあえずは取り留めの無い話をしながらゆっくりと説明を考えるとしよう。


「急に教室に行ってゴメン……なんというか……ちょっと焦ってたというか……なんというか」


 ポリポリと頭をかきながら照れ笑いを表情の表層に浮かべる。


 これは事実であり、確かに俺は焦っていたのだから噓は言っていないのだ。

 

「う、うんちょっとだけ驚いたけど……」


 優香が黙る。


 何か落ち込んでいるように俯いているように見える。


「だ、大丈夫?」


 心配して声をかけると、何か泣き笑いのような表情を出して、


「嬉しかったの……学校であんな大きな声で名前を呼ばれて……それで腕を引っ張っていかれて……それで私と二人になりたかったって言われて……凄く嬉しいよ」


 涙を浮かべて、特別綺麗な笑顔を浮かべた優香は美しかった。


 基本的に優香に対しては冷静に接している(虫ケラである俺が見捨てられないために)がその姿は反則だった。


 心臓がドクリと高鳴る。


 ああマズイ、止められない……止められそうに無い……だってこんなにウツクシテクカワイクテキレイナカノジョヲミタラ……。


 ブーンブーンブーンブーン。 ブブブブッブブブ。


 頭の中の固い物が融解しそうになった瞬間、俺と優香の携帯が同時になった。


 その瞬間、はじかれたように俺は後ずさってあわててポケットの中を探る。


 優香も一拍遅れてスカートのポケットに手を入れている。

 

 取り出した携帯の画面には知らない番号。


 一体誰だろうとは思わなかった。


 この携帯の持ち主は十中八九あの女だ。


 おそらくは俺に昨日の時の様に挑発の電話をかけてきたのだろう。


 いま俺の後ろには優香が居る……出ても大丈夫だろうか?


チラリと振り返って優香を見ると、彼女も気まずそうにこちらを見ていた。


 そして視線が合った瞬間にあわてて視線を前方に戻し、電話の相手と話をする。


 その仕草に違和感を感じたが、こちらも着信が来ている以上どうしたものかと思った瞬間に携帯の振動が止まった。


 つまりは着信が切れたということだ。 


 液晶画面に映る不在着信の文字と見たことの無い電話番号が名残惜しげに画面に表示されていた。


 かけ直すか?


 迷う俺の後ろから優香がオズオズと声をかけてくる。


「ご、ごめん……わ、わたし……その……急用が……できちゃった……だから、ちょっとまた後でメールするね」


 心底申し訳なさそうに、でも劣情を刺激するような切なそうな顔で優香が用事あると宣言する。 


「……わかったよ、でもまた近いうちに今度こそ二人っきりで昼食を取ろうよ……約束だよ?」


 理解ある男のように振舞って、またご機嫌取りも兼ねた小指を繋いでの約束を促して優香はその場を後にした。


 その後姿が遠くなり、そのまま消えてしまうまで彼女を見張ってからすぐに謎の番号へと電話をする。


 プルルルル……プルルルル……。 


 無機質な呼び出し音を耳にしながら、心の中で何度も落ち着くように自身をなだめる。


プルルル…プルルルっ……「ハイモシモシ……何か用かしら?」


やっと電話に出た受話器の先にある相手は落ち着き払っていた。


 その落ち着きぶりに無性に腹が立ち、


「何か用じゃない!何なんだあの画像は!」


 ここ何年も出していない怒鳴り声を思わず出してしまう。


「……ずいぶんと慌てているわね、少しは落ち着いたらどうなの」


たしなめるような言い方に冷静さを取り戻す。

 

「……急に怒鳴って悪かった……でもあの画像を一体何のつもりで送ってきたんだ?」


「変なところで素直なのね、クスクス……変な人」


 笑う相手の挑発に乗らないように一度落ち着いてから再度問いかける。


「あの画像は一体どういうつもりなんだ?何人にばら撒いたんだ?」


「あら……いつ私が貴方以外に送ったなんて言ったの?」


「……そ、それは……」


「あらあらそれで勘違いしてあんなに走っていたのね……私の親友さんを奪うように引っ張っていて……まるで囚われのお姫様をさらう王子……もしくは悪役ね、どんな気持だったの?私がほんの気まぐれで送ったあの画像を見て、学校では必要以上に交流しない自身の約束を破ってまであの娘の教室までまっしぐらに走っていったときは?聞かせて?ねえ聞かせて?聞かせて聞かせて……ふふふ……ねっ? 聞~か~せ~て」


「……挑発には乗らないよ……まあ君が想像している通りだろうがね」


「直接口から聞かせてくれないとつまらないわ……大事な言葉はいつだって素直に告白するものよ?特に女の子相手にはね」


 何が女の子だ! ドロドロの真っ黒に染め上がった内面をした奴が女の子だって?


 そんな奴と話すのなんて冗談じゃない……ましてや優香の傍にそんな存在が居るなんて優香が穢れてしまう!


全く……そんな存在は一人だけで十分なんだよ!


「とにかくそれ以上くだらないことしか喋らないなら切るぞ」


「自分からかけてきたくせに……自分勝手な男ね」


 やや拗ねた言い方に幾分毒気が抜かれたが、気を取り直して


「とにかく……もう切るぞ!」


「どうぞご自由に……私もそろそろ忙しくなるころだから」


「……?どういう意味だ?」


「別に……こっちの話よ。とりあえずもう切るわよ。ああそうそう……頑張ってね」


 それだけ言うと女はあっさりと電話を切ってしまう。


 もう一度かけなおそうと思ったが、何か足元を見られるような気がしてそれは出来なかった。 


 電話をポケットにしまいこみ、俺は校舎の壁に背中をつけてズルズルとそのまま座り込み視線を上げる。 


 どうもいけない。


完全にいけない。


 俺はあの女に完全に手玉に取られている。   

 確かに相手はこちらを知っているが、こちらは女のことを知らないということはあるが、それ以外の……例えば先ほどの頭に血が昇っての強引な優香の連れ出しは完全に不味かった。


 優香は内心喜んでいたようだが、そんなことはどうでもいいことだ。


 問題はまんまと踊らされてしまったことなのだから。


 ふぅと大きく息を吐いて、そのまま引きずられるように横になって空を覗き込む。


 視界の左半分を校舎が右半分を樹木に遮られ、まるで切り取られたような空の蒼さを見て自分自身の青さとどっちが上なのだろうと馬鹿なことを考えていた。




 校舎裏から教室に戻ってくると、まるで練習したかのようにクラスメイト達がこちらへと向き直る。


 全くなんだっていうんだ……他人の行動がそんなに珍しいのかよ、まあ確かに珍しいことをやったわけなんだが……。


 何人もの視線をそ知らぬ顔でスルーして席に着く。


 そして次の授業の準備を始める。


 その間にも肌に直接感じることが出来るほどに強く見られているのに気づいているが、反応はしない。


 とにかく早く授業が始まることを祈るだけだ。 


 しかし教師は中々来ない。


 そういえばこの授業の教師は少し遅れて教室に来る人だった。


 ため息と内心のイライラを我慢するために強く歯を食いしばり、頭を冷静に戻すために先ほどのメールを見直す。


 そこに写っている画像を見て、そしてそれが広まった時を想像して胸を痛める。 


 これが皆に見られてしまったら優香はどうなってしまうのだろう?


 心の苦痛に顔を歪め、怯える表情がはっきりと想像できる。


 全く一体どこの誰が優香を苦しめる権利があるんだろうか?


 俺は卑劣な男だがサディストではない。


 何の意味も無く彼女を苦しめることなんて決して出来ない。 


 けれどもあの女は違うようだ。


 昨夜見たあいつは造形こそ綺麗だったが、ターゲットをいたぶって悦に浸るような下衆な心性が見て取れた。 


 俺のもっとも嫌いな人間だ。


 何の意味も無く、理由も無く、強い喜びも、小鳥の羽程も慈悲すらなく、ただただ消費するだけの存在。


 そして俺はそんな人間を……ブブブッブブッブブ。


 メールを受信した表示が出て、携帯が震える。


 差出人は例の如く先ほどの画像を送ったアドレスと同じだ。


 無感情にメールを開く。


『ちゃんと教室に戻れた? さっきの画像なんだけど、よく撮れているから演劇部の皆にも送ろうと思うんだけどどうかしら? 貴方の意見を聞きたいわ』


 意見だって? 分かりきったことを聞く女だ。


 そんなことはさせないに決まってるじゃないか! 


 無視して携帯を閉じようとするが、下にまだ文章があることを示すカーソルが右隅に表示されている。


 最初に読んだ文章の下に空白部分があり、その下にもまだ文章があるようだ。


 カーソルをスクロールダウンさせていき、そこにあった言葉に全ての終わりを覚悟させた。








放課後の部室内は騒然としている。 


 部員数とは不釣合いの小さな部室にはそれこそ満員電車のように人々がひしめき合って、ある一点を見つめ、ある人間は悲鳴を、ある人間は怒声を上げて様々な感情の発露を発していた。 


 しかしその感情の源はその全てがネガティブあるいは一部の人間にとっては途方も無いほどの悪意と言っても過剰ではないほどに強く煮えたぎったものだ。


 俺はというとその集団の姿を部室の端っこで放心したように座り込んで、無感動に眺めている。


 やがて噂を聞きつけたのかある人物が走ってくる。


 ああ……『終わりの始まり』が来た。


「こ、これは……」


 予想以上に群がっている人々の姿を見て東田は言葉を失っていた。


 そしてその人々が彼が到来したことを知り、振り返って見せたその表情と感情に更に言葉を失っていく。


「……これはどういうことなの!」


 誰かがヒステリックに叫んだ。 


 まるで子供を殺された母親のように半狂乱となったその問いかけに一瞬気圧されながら反論をこころみる。


「こ、これ……は何かの間違いだよ……た、確かにこのときは二人でいたけど……い、いつもは三人で……」


 救いを求めるように東田が俺を探す。


 しかし怒りと嫉妬そして『二人』という単語を聞いてしまった件の女生徒は声にもならない。


金切り声と論理のともらない文句を焼却炉の煙突から出る煙のように、その黒い感情を東田にぶつける。


 彼女だけではなくてその女生徒の友人達(まあ同じく東田に好意を抱いていたであろう女狐たちだが)も『ひどい』だの『裏切られた』等の東田本人からしてみれば夢にも思わなかったであろう言葉の艦砲射撃を続けている。 


 理不尽で論理の欠片もない言葉の石礫をおそらくは初めて浴びせられ、東田は悪意の前に軽口も叩けずにただ受け続けている。


 その間にさえも東田に好意を持っていたであろう女生徒達の責めは続いている。


 一方的な好意を勝手に抱き、そしてそれを無下にされた(本来なら責められる立場にはないはずなのに)ときには今度は一方的な怒りを覚えて相手を責める。


 そしてそれが相手にとってどれほど不快であり、自分自身がどれだけ醜いかも気づかずにまるで性欲処理をするためだけに性行為をしたがる男ほどに自分勝手だということにどうして気づかないのだろう。 


 ため息が出そうなこの情景に少しだけ視線を逸らして天井を見上げる。 


 優香の顔が一瞬浮かんだ。 


 今からでも遅くはないから彼女をこの悪意と嫉妬に煮こまれた鍋底のような地獄から離すべきなのではないだろうか?


 しかし俺の心の片隅にだけ一滴残ったその善意は圧倒的なまでのエゴと絶望に飲まれてしまう。


 所詮、今日逃がしたところで結局明日になればその鍋底に引きずりこまれてしまうのだ。


 いやむしろ丸一日煮込まれたその悪意達はより熟成されて優香を飲み込んで跡形もなく溶かしてしまうのだろう……その精神を。


 逃れることの出来ないのなら少しでも熟成が進む前に放りこむに限る。


 たとえそれが刹那の可能性だとしてもだ。 


 俺は彼女を突き落とすだろう。


 そのまま壊れてしまうことが分かっていても……。


 自分自身のエゴで最愛の人間を苦しませることに対して、俺の中に一滴だけ残った善意はエゴイズムのスープの中でも決して溶けずに、吐き出してしまいそうな程の苦味となって今もそしてこれからも、さらに言うならば刹那の可能性を潜り抜けた最高の未来の中でさえもいつまでも心の口内に残り続けるだろう……わかっていてもそれを俺は止める事はしないのだ。


 東田への責めはまだ止まっていない。


 しかしやっと落ち着いたのか彼女たちの言葉が途切れ始めた。


 さすがに弾切れをおこしたのか?


「まあ……東田君だけが悪いじゃないし、むしろ主役の一人なのに全くやる気が見えなかった上にこういうことだけは熱心なあの子の方が問題よね……そう思わない?みんな」


 最初に東田を罵倒した女生徒が半ば強要するように同意を周囲に求める。


 彼女の剣幕に圧倒されたのか、それとも何だかんだと男女供に好意を抱かれている東田を庇うためなのか何人かの男女が小さく同意する。


 それだけでそれは十分だった。


ニンマリと意地悪く笑ったその女生徒はまるで演劇の台詞のようにゆっくりと歩きながら更に皆を扇動する。


「そうよね?よくよく考えてみたら東田君は転校してきたばかりで学校のことが良くわかってないから瀬能さんに色々質問したり聞いてみたりするのは当然だものね……ごめんね、東田君。私、言い過ぎちゃった……でもね?わかってもらいたいのは私、ううん私達はっそれだけ次の演劇祭に向けて頑張っているの!だからこそ強く言いすぎてしまったのよ」


 ああ思い出した。


 この女生徒は二年の先輩で優香が入部するまでは主役級を担当していた人だ。 


つまりは恋慕の嫉妬以外にも役を奪われたことの嫉妬もあるのか……それにしても、


「だから悪いのは東田君よりも瀬能さんの方よね?演技のときに対して何の意見も出さない。こちらの意見と指示を待っているだけで何もやる気が見えないもの……それなのに異性交遊だけは熱心なんてどうしようもないじゃない?そう思わないの!みんな」


 最後の言葉をより張り上げて彼女は聴衆達にアピールする。


 なるほど昨年まで主役を張っていただけあって頭も悪くないし、度胸もあり、顔も世間一般的に見れば美人でもある。


 なにより声が大きいので、元々演劇に興味があって入部したのではなく優香を見て入部したものが大多数の彼らのような所謂にわかにとっては声高に大きく主張されて一部の人間が賛意を表明した以上何の異論もないだろう。 


 東田も先ほどまで一方的に罵倒されていたせいか、わざわざ異論を挟んで波風を立てることもしないようだ。  


 場の趨勢は決した。


 すでに判決は下りたのだ。


 後は囚人がやってくるのを待つばかりである。


 無実の罪を何の打ち所も無いであろう人間が裁かれてしまうのは昔からよくある事、要はそうならないように目立たず立ち回るかもしくはその無実の人間を陥れる側の人間になればいいのよ。


 誰かの言葉を思い出した。


 真っ白なシーツを乗せたベッドに座ってあのおっかない瞳で見下ろしながら……。


 そしてその後に続いた言葉は……たしか……。


「お、おはようござい……ます」 


 静かに、でも煮えたぎった悪意のこもった部屋ではコーヒーに垂らされたミルクのようにはっきりと見て取れるほどの存在感を出しながら……、未だ自分の罪を知らない囚人がやってきた。


 その後のことはまさに地獄。


 ただその一言だけだ。


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