第6話

 翌日になっても状況は当然のことながら好転していなかった。


 むしろ緩やかに悪くなっていっている。


 東田がいることで優香の周りに人が集まっていく、そして彼らとの会話に優香をまるで熟練の羊飼いのように違和感無く参加させている。 


 臆病な羊のように怯む優香をさり気に、気軽に会話の端々でわずかにでも合流させることでかろうじて彼女と他者への会話を成立させている。


 まったく惚れ惚れするような気遣いと絶妙なバランス感覚だ。 


 もはや心がざわめくことすらない。


 例えるなら小さな子供が空を見上げたときのように自分のちっぽけさを全身で余すことなく感じている。


 すがすがしい気分ですらある。


 体育館内に響く部員と東田達の『楽しいお話の笑い声』を浴びせられながらある種の諦めにもにた安心を感受している。


 だがそこで、一度ぎゅっと目を瞑り、小さく両拳を握りこむ。


 目を閉じた暗闇の中でその行動をすることによって自分自身の存在が収縮してカッチリと認識できる。


 そう、俺は東田には勝てるところが無い。


 それは世間一般的な価値観……つまり外見、優しさ、心の広さ、そして愛を持って接する心、その全てにおいて悔しがることも出来ないほどに圧倒的に負けているのだ。


 だがそれでも……。


 ゆっくりと落ちついて瞳を開ける。


 身体の中を冷たい何かが充満していくイメージを固める。


 それは俺自身が最低な行為をしたときと同じ覚悟を固めた時と全く同じ状態だ。


 そして岩のように硬く、氷のように冷たい、あるいは子供だけはと懇願する母親の目の前で幼児に剣を振り下ろすような無慈悲な残酷さを持って俺は行動することを宣言する。


 俺自身の脳内で。


 自分自身に宣言することによって、それは絶対に後悔しない、絶対に止まらないことと同義になる。


 俺が自分に明確に心中で叫ぶんだ。


 他人の不幸、優香の涙、良人を騙し嵌めることに対して躊躇なんてするはず無い。


 たとえ神の裁きによって自分が将来地獄の業火に焼かれることになっても、俺は笑ってそれを受け入れるだろう。 


 それをいとわないほどに俺は醜悪で、わがままで、心が狭く、そして愛という感情の中の大部分がエゴで出来ている存在なのだから。


 さあどうやって嵌めて騙してやろうか……?










「お~い今日もファミレス寄っていくだろう?」



 半ば日課になりつつあるファミレスでのトークを東田が誘ってくる。


「ああ……いいと思うけど、今日は俺は少し用事があるから行けそうに無いな~、たまには二人で話したらどうだ?」


 素っ気無い態度で優香の方に顔を向ける。


 俺の後ろに立っている優香の顔は蒼白で、落ち着き無く視線をさ迷わせている。


「瀬能さん?どうかしたのか?」


 不思議そうな目で優香に東田が問いかけるが、なかなか返事をしない。


 心象風景としてはまさに自分を支えている地面が崩れているといったところだろうか……。


「どうしたの?せっかくだから行ってくればいいじゃないか……なあ、行けるだろ?」


「ひっ!……う、うん……だ、大丈夫だよ……は……はは……」


 引きつった笑いで答える優香に内心舌打ちをする。 


 なんとも下手な演技だな。


 もう少し落ち着けばいいのに……東田が変に思うじゃないか。


 ぎゅっと東田の死角から優香の背中側に手を回し、彼女の小指をきゅっと軽く掴む。


 驚いたようにビクっとする優香に向かってコクリと頷く。


 落ち着けという無言のメッセージだったのだが、優香はそれを正確に受け取ってくれたようで、でもまだ戸惑いと怯えを少し残しながらも頷き返す。 



 一瞬のことだったので東田はやや戸惑い気味ながらも優香がすっと前に出てきたので、



「そ、それじゃ……行こうか?瀬能さん。近藤もまた明日な」


「ああさようなら……また明日な」


 ニッコリと手を上げて優香達と別れる。 


そしてその足で駅に向かう。


 駅に着くとコインロッカーを開けて中からバッグを取り出す。


 朝早く来てこのコインロッカーに入れて置いたのだ。


念のため中身を確認すると当然のことながら中身は朝入れたときと変わっていない。


 携帯を取り出して時間を確認する。


 30分立ったか、そろそろ向かうとするか……でもその前にバッグを持って駅構内のトイレへと入る。


 そして個室に入るとバッグを床に置いて中に入っているものを順番に取り出す。


 眼鏡に、帽子に、服とズボン、そして紙を煮詰めてある程度の塊にしたもの。


 まず服を脱ぎバッグ内に入っていた服とズボンに着替える。 


ちなみに服は白いシャツに淡い青をしたアロハシャツを上着にしている。


 そしてズボンはやや丈の大きいダボっとしたもので、腰の位置で止めてベルトをつけた。

 度の入っていない眼鏡をかけ、帽子をかぶる。


 ちなみに帽子はニットのような薄い生地で通気性がよく、正面に髑髏のワンポイントが取り付けられている黒いものだ。


 着替えた自分をバッグの中に入れておいた鏡で動かしながら注意深く観察する。 


 大丈夫、どこから見ても近藤恭介には見えず、今時の若者風だ。


 というか俺も一応若者なんだけどな。


 自分で苦笑しながら着ていたものをバッグに詰め替え、個室から出ようとしたところで向き直る。 


 忘れていた……これを装着しないと。


 あわててポケットの中から先ほどバッグに入っていた紙の塊を取り出す。 


 それを口内に入れて歯の外側へと装着する。


 そしてもう一度鏡を取り出して確認すると、輪郭がややふっくらしてますます近藤恭介に見えなくなった。


 これは輪郭をごまかす為に自ら作ったもので、指名手配犯がこれを使い、変装して警察の捜査から逃げ切ったということを本で読み実践してみたのだ。


 うん、意外に悪くないな。


 俺は頬がややこけていて、少し面長なので変装したところで幼馴染である優香に見破られる可能性を考慮したものだ。 


 全てチェックし終わったので個室から出て、コインロッカーにバッグを戻す。


 準備を終えたので意気揚々と駅を後にし、俺は東田達がいるファミレスへと向かっていった。


うす暗い夜道を歩きながら、今日の目的を心の中で確認する。


 まず俺の居ないところでの二人の会話を聞いてどの程度優香が心を開いたかを確認。


 次に東田の会話をよく吟味して何か付けこめそうなところがあるかを知る。


それが無いならば、何か役に立つ情報が無いかを見つけることだ。


 ここでの役に立つというのは東田と優香双方の関係悪化につながるようなヒントを見つけるということだ。


 そして東田との会話の中で優香のアドバイザーを見つけることだ。 


 全く不愉快なことに優香に対して誰かが相談に乗っていて、そして優香もその人物をある程度信用しているということを考えると、俺が不在のときに何がしかの情報を出すかもしれないという期待を込めている。


 ただ気になることはそのアドバイザーはおそらく演劇部には居ないと思われるが、そうなると一体どこで優香がそいつと会っているのか?ということと、その人物の目的だ。 


 演劇部には居ないという推測はおそらく当たっているだろう。


 なぜならそのような人物がいるならば誤魔化したり噓をつくのが下手な優香は必ず尻尾を出すはずだ。


 優香が孤立し始めるときから誰かが助け舟を出して優香の孤立を防ごうとするのを邪魔するために注意深く部内を確認していたが彼女が俺以外の人間と親しく話していたりそのような素振りを見せる人間なんて居なかった。


 ということはその人物はは演劇部外の人間ということになる。


 クラスメイトか?


 しかしそのような人間が居るとは部活内や帰りがけの様子を見るとそれも考えずらい……、そしてその人物の目的もいまいちはっきりしないところも不気味だ。


 孤立した優香を心配しているが周囲のことを考えてこっそり会っている?


 基本的に優香は放課後は俺と居る。


 もちろん俺と別れた後はわからないのだが、そんなお人良しならば優香との会話の中で出てきてもおかしくないはずだ……第一に俺に黙っている意味がわからない。


 ということは優香にはそいつから口止めされている? 


 一体何のために?


 もしや他に男がいるのか?


 それならば俺に黙っているように口止めさせるのも理解は出来る。

 

 それにそれならばそれで問題は無い。 


 問題は無いというのは優香が浮気しているというのなら逆手にとって彼女の罪悪感を疼かせ、また自分が如何にどうしようもないかというのを理解させて俺への依存度を高めさせればいい。


 仮に他の男とそうだったとしても最終的に俺のところへと戻ればいいのさ。


ただその男には全力で後悔することになってもらうが……。


 気がつくと目的のファミレス前へと着いた。


 こうやって考えながら移動するのは意外に好きだ。


 特に優香のことならね……。


 一度駐車場内で空を見上げると、すっかり空は真っ黒に染まっていて、ファミレスの光だけが救いのように地表にあふれ出している。


 まるで…そう、まるで大きな何かが大口を開けて空を飛ぶ全てを飲み込もうとしているような錯覚を覚える。


 ぽっかりと口内に取り込まれた空を隔てるように、明るい地表はまだ飲み込まれていないことを証明しているようだった。


 視線を戻し、駐車場を通り店内へと向かう。

 

 そうさ、空はもう飲み込まれていてもう君が飛ぶ場所はどこにも無い……この地表以外には。


 それに気づかず誰かに引っ張られてまた空を飛ぼうとするならその手を切り落としてまた地表へと落としてやる。


甘く鈍い毒が身体を充満し、身体を重くして、もう空を飛ぼうとする気力すらわかないようにしてあげる。


 そして蝶を空に上げようとする愚か者には特別の毒を放り込んでやるのさ、全てを恨み、恐れ、呪うようなそんな毒を……。


 落ち着くために一度深呼吸して、店内に入る。


 やや重い扉を開けると、よく効いた冷房が歓迎してくれた。


 熱く火照った身体と頭を少しだけクールダウンさせてくれる文明の利器だ。


「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」


 慣れた口調でバイトの女性が人数を聞いてくる。

 

「後から一人くるから二人」


 ぶっきらぼうに服装から見られるイメージを意識して答える。


 普段の近藤恭介の姿を見せないように。


 よく考えたら何回かこの店には来た事あるのでバイトのこの女性にも気づかれないようにしないと。


「かしこまりました。おタバコはお吸いになられますか?」


 店員の質問に少し考えるフリをしながら優香達を探す。 


 居た。 窓際の真ん中の席だ。


 都合のいいことに周囲のテーブルは空いている。


「吸わない。それと連れがわかりやすいように窓際がいいんだけど?」


 これまた不機嫌そうに答え、なおかつ窓際の席がいいと要求する。


「は、はい…ど、どうぞご自由に」 


 態度が悪すぎたんだろうか?少し引きつった顔の店員さんが答える。


 う~ん、少しやりすぎたか?


 後で何かしらフォローをしておかないと……でも一体何がいいんだろう?


 どうも俺は東田のように人を楽しませる才能が無いものだから、こういうときどうすればいいのかわからないな。


 そんなことを考えながら俺は優香達の横を通って、彼女らの後ろの席につく。


 背中合わせで後ろに居るのは優香だ。


 今日の目的を達成するためには彼女の近くにできるだけいなければならない……それに付き合いの長い優香ならば俺の変装を見抜く可能性はゼロではないのだから、なおさら彼女の後ろにいた方がいい。 


 運ばれてきた水を一口のみ、お絞りで軽く手を拭いた。


 さてと二人の会話を盗み聞きしようとするか。


 

「……それで、今度の練習なんだけど」


「う、うん……それでいいと思うよ」


「わかった!それで行こうか……これでやっとどういう風に演技していけばいいか決まったよ~、本当にありがとう瀬能さん」


「そ、そんなことで、あ、頭下げなくていいよ~」


「いや、本当に助かってるんだよ、なにせ今回は演出も自分達で考えていかなければならないだもんな~超素人の俺じゃ上手いこと考えられるはず無いもんよ」


「で、でもひ、東田君の意見……も、よ、よかったよ」


「そ、そうかな?なんか嬉しいな、そう言われると……でもよく一人で来る気になってくれたね……てっきり今日は来ないかと覚悟してたんだけどさ」


「えっ?……う、うん、その今日は……特別だか……ら」


「特別?何が特別なんだい?」


「ううん……なんでもないの」


「そ、そうか……なんでもないんだ。そ、そういえばさ~……」






やがて時間が立って優香達が席を立つ。


 結論から言えば何の益も無い無駄な時間だった。


東田は相変わらずの秀逸なトークで優香を笑わせてはいたが、雑談の粋を出ていない。


ようするにただの高校生の友人同士の会話をしていただけだ。


一方優香も東田のトークにそれなりに反応し、笑ってはいた。


 やはり壁を間に挟むようなそんな少し隔絶した対応だった。


 上澄みだけを飲み込んでいるようなそんな薄っぺらい会話だ。


 せっかく邪魔者である俺が居ないというのに、居るときと変わらない会話をする両者に若干の怒りと期待するような情報を得られなかったという徒労をコーヒーを飲みながら全身で感じている。 


 仕方が無い、よく考えてみたらそんなすぐに求めているような情報が手に入るはずがないのだ。


 どうも優香を罠に嵌めたあの日から物事が比較的上手く言っているので過剰な期待をしてしまっていた自分に気がつき少し顔を赤らめる。 


 全く何をやっているんだか……我ながら。


 多少の自嘲を混めた息を吐き、さてこのコーヒーを飲み終えたら帰ろう。


 優香にメールをして、おそらく東田からも来るだろうが、それは適当に返事を返しておこう。 


 最後のドロリとした、特に濃縮されたカフェインの塊を飲み込んでカップをテーブルに置き、さて出ようかと腰を上げかけたところでふと気づく。


 目の前に誰か座っているのだ。


 いや目の前なのだから当然その誰かの顔と身体はみえているのだが……やはり誰かなのだ。


 つまり、全く、身も知らない、見たことも無い、女性がそこには座っていた。


 長く美しい髪をさらりとおろし、陶器のように白い肌をしていて涼しげな瞳をしたその女性は困惑する俺をまっすぐ見つめ、


「こんばんわ……恭介君」


 ニコリと笑う。


「…………」


 俺は無言で目の前に居る女を見る。


 そして記憶を反芻し、決して多くない女性の知り合いの顔を次々と思い出してみるが誰にも当てはまらない。 


 一体……誰なんだ?この女は……。


「……わからないって感じね、その表情は」


 凛とした瞳と同じような涼感を感じるその声で彼女はゆっくりと口を開く。


「安心していいわ、あなたとこうやって会うのは始めてよ」


「…………そうですか」


 ポツリと返事だけを返す。


 突然現れた女はどうやら自分のことを知っているようだ。


 だがこちらは向こうのことを知らない。


 張り詰めた空気を壊すように店員がやってきて水とおしぼりを置いた。


「コーヒーを一つ……砂糖とミルク無しで」


 簡潔に注文を済ませ、店員がテーブルから離れる。 



「…………………」



「…………………」


 何も言わない。 お互い何も言わない。 


女は注文を済ませた後はただ俺をじっと見つめ、たまにニコリと笑う。 


 嫌な笑いだ。


 凄く綺麗で…誠実で…何の雑さも無い完璧な笑顔をし、それがゆえにその微笑が機械的に動かされた筋肉運動であるのが見て取れた。


 つまり女は笑っていないのだ。


 表情は慈愛に満ちて笑っているが、その実、腕の良い彫刻家にあるいは人形師に作られた芸術品のような笑みの形をしているだけだ。


 得体の知れない人間と向き合って平然と居られるほど俺は度胸のある人間じゃない。 


 というかむしろ対極にいるような存在が俺自身である。


 心中で震える臆病な自分自身を必死でなだめ、また少しでも落ち着こうと目の前に置いてあるカップに手を伸ばし口元に持っていく。


「クスッ」


 さっくりと小さく切り裂くような笑いを目前の女が上げる。


「もうとっくに飲み終わってるんじゃないかしら?」


「えっ?あっ……」


 そうだった、優香たちの会話を盗み聞きするためにチビリチビリと飲んでいたコーヒーはすでに飲み終えていたのだ。


 動揺を宣言するようにカップを持つ手が震えるが、やや乱暴にカップをテーブルに置く。


 ガチャンと大きい音が響いたが、カップは割れていない。


 ただ音に驚いて周囲に座っていた客と近くに居たウエイトレスが一斉にこちらを見る。


「失礼しました」


 立ち上がって周囲に軽く頭を下げると彼ら彼女らはゆっくりと日常に戻って目前の話と仕事を再開し始める。


 その彼らがうらやましくなるほどに俺と彼女の話は全く進んでいなかった。


 というより話の内容どころかどんな話をするのかさえ知らないのだから困ってしまう。


 だが彼女がこうして俺の前に来たことと、こちらの反応を観察するように見る女から察するに余り良い話ではないだろう。


 なぜならこの女の視線には侮蔑と嘲笑、若干のからかいの感情がある。


 そしてその対象は明らかに俺なのだから。 


「お待たせしました」


 少し間延びしたような印象を受ける眼鏡のウェイトレスが女の注文したコーヒーを運んで来た。


「彼の分も貰えますか?待っている間に飲み終えてしまったようだから、砂糖とミルクは……砂糖が二つでミルクは一つでいいわね」


 俺のカップを見て勝手に注文をする。


 その態度は何かドジな彼氏を持つしっかり者の年上の彼女という役割を演じているようで内心不愉快だった……が、しかし実際に向こうが話を切り出さない上に間が持たないのであえて特に何も言わずにいることにする。


「……………」


「……………」


 また沈黙が始まった。


 俺の焦れとは裏腹に女はまるでこちらが居ないかのように静かにコーヒーを飲み始めてしまう。


「それで一体……」


 何の用?という前に女が素早い動作で俺の唇に指を持ってきて優しく触れる。


 その行動に呆気に取られて黙ると、


「用件はとりあえずあなたの分が来てからにしましょう?話の途中で誰か来られるの嫌いなのよ」


 言葉を途中で止められてしまったせいか有無を言わさないその雰囲気に推されたのか俺は無言で椅子に座りなおす。


 そして沈黙がまた始まった。


 女は相変わらずの落ち着きようで静かにコーヒーを飲む。


 そして俺はその仕草を見ながらゆっくりと心を落ち着かせていた。

 

 いきなりの奇襲からずっといまに至るまでこの女にずっと押されている。


 無駄な会話はしたくはないがこのまま押されっぱなしというのもなんというか情けないし、何より理屈ではないがこの女とは用心してぶつからなければならないという気がするのだ。


「よしっ!」


 小さく気合を入れ、大きく息を吸い込んで……吐き出す。


 動揺を示す指の震えは……止まった。


 ハイペースで動いていた心臓の鼓動もいつもどおりに戻った。


 そして何より焼きつきかけていた脳内がゆっくりと冷却され、落ち着きをとりもどすことも出来た。


「少しは落ち着いたかしら?」 


平常運転に戻ったところを奇襲するように女が悪戯っぽい目で俺に問いかけるが、その視線を軽く受け逃して、


「別に……」


サラリと返す。


 返事は必要最低限に、相手の目的も正体もわからない以上、大げさに反応するのは避けるべきだ。 


「なんだつまんないの……もう落ち着いてしまったのね」


 見た目と反比例するような子供びた言い回しも俺の警戒をとくことは出来ない。


 というかこいつはわかっていてこういうことをしてくる人間だ。


 おそらくは優香や東田と同じような人種だろう。


 もっとも二人とは違う何か恐怖を感じるが……。


「それにしても……」


「お待たせしました」


 タイミングよくコーヒーをウエイトレスが持ってきた。


 感覚をずらされたのか女が黙り込む。


 コトっという音を立て、コーヒーを置いてウエイトレスは去っていった。


「……それで話ってのはなんなのさ」


 やや気まずい雰囲気を脱して主導権を取るためにこちらから話に切り込む。


「……何の話をしていたかしら?」


 ちっ、とぼけやがって……。


 俺の意気込みを無視するように女がとぼける。


「話が無いなら帰らせてもらいたいんだけど?」


「あら残念ね、私としてはもう少しお話したいんだけど?」


 茶番としか言えないような会話に内心で苛立って気づかれないように奥歯を噛みこむ。


 全くお笑いだ。


 このまま帰ることなんて出来るはずが無い。


 間違いなくこの女は何か企んでいる。


 それが何なのか、そして女の正体の一端でも掴まなければ帰宅することなんて出来るはずがないのだ。


 だがそれを見せてしまえば足元を見られる。


 おそらく女も同じように思っていて、だからこそこんな惚けた態度を取っているのだろう。



 俺の焦りを女は知っている。 


 だが俺も女がこうして帰らせたくはないことには気づいている。


 当然だ。


 わざわざ奇襲するように登場しておいて何の話もせずにただ帰すはずが無い……。


 互いに手綱を握ろうとしているがゆえに俺達は席を立つこともせず、口だけで虚しく噓を言い合ってただただ愚かに時間を浪費している。


 我慢比べにも、チキンレースにも似た馬鹿らしい意地の張り合いを繰り返している自分達の愚鈍さを笑うことも出来ずに二人は無表情でにらみ合っている。

 

 このまま無意味な消耗を続けあうのか?


 と俺がゲンナリしたところで店内にメロディーが響き渡る。


 少し前に流行った歌のメロディーだ。


 優香がその歌が好きで口ずさんでいたのを思い出す。


 そのメロディーは目の前に居る女から流れてきていて反応するように彼女がポケットの中から携帯を取り出す。


 どうやら電話かメールが届いたようだ。


 差出人の名前を確認したところで女がニヤリと小奇麗な顔を歪ませて笑う。


 美しいのにすごく嫌な顔だ。


 素直にそう思ってしまう。 


「ほら…メールが届いたわ」


 女が携帯の画面をこちらに向ける。


 青白く美しく光るその画面の差出人には瀬能優香の文字があった。


 一瞬動きが止まり、画面を凝視しようとする俺にまるで幼児を教える先生のように携帯をこちら側から読みやすいように置いて、その白く細い指先でメールの文面をなぞる。


 小さい液晶画面には決して多くは無い文章が羅列されていたが俺には読めなかった。


 否、内容を理解することが出来なかったのだ。


 ショックのあまりに脳が機能停止を起こしてしまい、文字は読めるが文章を理解するという能力がすっぽり抜け落ちてしまっていた。


 だが文書の合間に存在する間や句読点や特徴によりそれがまぎれもなく優香の文章だということは理解できた……したくはないが悲しいほどに判ってしまったのだ。


「彼女……可愛らしい人ね、あなたの為に無理して今日は東田君と二人でお話するんだものね……まだまだ他人が恐ろしくてしょうがないのにね……いくら貴方が言ったことだからってね」


 勝ち誇るように、嘲笑うように携帯をポケットに戻しながら女は言う。


 確かに今日、俺は二人の会話を盗み聞きするためにあえて優香を東田と二人っきりで会わせた。


 ふるふると救いを求めるように震える手を優しく握り、誠実な瞳でまっすぐに優香を見据え、俺は彼女に言ったのだ。


『いつまでもこのままではいけない、俺以外にも話せる人間を増やすべきだよ』


 噓だった……優香が俺以外に心許せる人間を作らせるつもりなんてない。


『大丈夫、用事を済ませたらすぐに行くよ、そしてどうしても無理なら電話してくれればいい……同じくすぐに君の元へ向かうよ』


 これも噓だ。


 彼女がいくら動揺し、救いを求めようが、俺はそのことごとくを黙殺し、決して東田と対峙する優香の元へと向かうことは無い。


 大丈夫、後で彼女には、


『ゴメン、気づかなかったよ……本当にゴメン』の一言で事足りるのだから。


 それほどまでに優香を冷酷に自分勝手に追い詰めて立てた計画は成功するどころか余計な不安要素まで見つけてしまうほどの大失敗だった。


 おそらくは優香にとって非情な覚悟を持って挑んだであろうこの計画の真意は達成されず大失敗となってしまっているが、そんなことは問題ではなく、今現在、俺の前に座っているこの女がどうしてそのことを知っているかだ。


 まあもちろん理由は、


「彼女から直接聞いたのよ」


 予想通りの答えだった。


 そしてその答えはある一つの失敗を表している。


 それは俺一人だけが彼女にとって唯一の存在であろうという目標が明確に否定されたということだ。


 つまり瀬能優香には近藤恭介という人間以外にも相談出来る者がいるという冷酷な事実が証明されている。


 俺は静かに天井を見上げる。


 視界は天井に備え付けられている必要以上に明るくする照明によってまぶしいほどに白く塗りつぶされていた。


 俺は優香に裏切られた、あるいは騙されていた……?


 だが怒りは沸いてこない……当然だ、最初に騙したのは、嵌めたのは俺自身なのだから、ただ…そう…ただ俺が彼女を上手く騙しきることができていなかったという事実に俺は打ちひしがれているのだった。


 全くこれだから俺って言う人間は……。


 自分の無能さと、先ほどまで自分の計画が完璧に進んでいると思っていた愚かさに少しだけ泣きたくもなるが、今はそれをぐっと堪えて視線を戻しまっすぐに女を見る。


 女はいつの間にかあの嫌な笑いを収めて、今度はやや上品と言ってもまあ差し障り無い程度の笑みをして俺を見ている。


「あらあら、ショックだった?でも女の子は大抵複数の顔を持っているものだから気にしない方がいいわ。大丈夫よ、一番好きなのは貴方だと思うから」


 遠まわしな嫌味に顔がこわばる。


 この女の言ったことはすべてが俺に対するあてつけであり、それを理解して物分りの良いような言い方をする根性のねじれがすがすがしいまでに見えた。 


 そう俺はショックを受けている。


 だが優香が俺に見せるとは違う顔を持っていたことでも、一番好きなのはという言葉から二番手が存在するという。


唯一の理解者であるのは俺だけという目的もはっきりいって問題ではない。


 先ほども言ったが俺が上手く優香をコントロールできていないということがショックだったのだ。


 それに比べれば、俺以外に連絡を取っていることや隠し事をされていることなど問題なんかじゃない。


「それで嫌味と驚かせるためだけで来たのかい?」


 何とか平静を取り戻して嫌味にもなっていない嫌味を言ってみたが、当然それは


「あらそれは心外だわ、驚かせるのはこれからなのよ」


 ニッコリとまだこれが序の口だと言うことを宣言した。


「……それはそれは、次はどんなことで驚かせてくれるんだい?優香が実はレズだったとかかな?あるいは実は生き別れの双子と摩り替わっていただったりして」


 我ながら馬鹿らしいとは思うが、目の前に居る女にはそれすらありえてしまうと思うほどの妙な説得力があった。


 女は一度子供を見る母親のように目を細め、一口コーヒーを啜る。


「それはお楽しみよ……でも貴方ならきっと乗り越えられると思うわ」


 取り繕うようで酷く社交辞令じみた言い方の裏には底意地の悪い反対の意味が見て取れる。  


「まあ乗り越えられないときは俺にとっては死を意味するからね」


 女が一瞬きょとんとした顔になる。


「乗り越えるさ、乗り越えて見せるよ……だが忘れるな、あんたは俺から見れば靴の底に張り付いたガム、あるいは夏の雨戸の隙間から入り込んだ飛虫みたいなもんだ。 調子に乗って入り込んでうっかり踏み潰されないか、もしくは蜘蛛の巣にかかって食われないように気をつけな、俺にとっては一生をかける存在なのさ…優香は」


 ニコニコと悪意の無い顔で悪意そのものを固めたような言葉を吐く。


 女は俺の言葉を同じく笑顔で聴きながら、片方の口角を上げ、


「それは凄いわね、凄い楽しみよ…ええ、凄い楽しみだわ。まるで新刊の本を手に取った時のような気持になるわ、お願いだから期待をはずさないでね……せいぜい楽しませてもらうわ貴方の一生をかける価値のある存在の親友として」


 挑発するような女の前で、残ったコーヒーを一気に、でも下品にならない程度に飲み干す。


 すでに戦いは始まっているんだ。


 この女の前では僅かなミスも気の緩みもすることはしない。


 カチャっと静かにカップを皿に置いて俺は立ち上がる。


 伝票を手にして。


「私が払っておくわ、いきなり現れたんで驚いたでしょ?その詫び料よ」


 歩き始めようとする俺の背中に振り向かずに声をかけ、右手だけは伸ばして伝票を受け取ろうとする仕草をしている。 


「女の子に払わせるわけには行かないだろ?ましてや恋人の親友にね」


 そう言ってレジへと歩き出す。


 後ろで空気を漏らすような、噴出すような音がしたが気のせいだろう。


 そのまま俺は勘定を済ませて一度も振り向くことなく店の外へと出た。


 すでに夜から深夜へと変わり始めた屋外は、クーラーの効いた店内から出ても温度の変化は無く、夏特有の風の匂いだけがしていた。


 その中をゆっくりと駐車場内を横断し、駅へと向かう。


 そこでこの服を着替えて家に帰らないと……優香にはそのときにでも電話しよう。


 今日はメールでは気が済みそうにないから色々な話をしたい。


 でも謎の親友のことは聞かない。


 いずれ優香からこちらに話すか、親友自体が消えることになるだろう。


 俺は決して優香を責めない。


 上手に騙すためにそのフリをすることはあるが、それだけのことだ。


 そう俺は優香を一生騙し続けなければいけないのだ。 


 だからこそ負けられない。


 だからこそ命を賭けられる。


 だからこそあの女の存在は許せない。


 いずれ正体を突き止めて後悔させてやる。


 この俺の邪魔をしたことを。


そして俺以外に優香の支えに成ろうとしたことを…… 。



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