第4話

その何かが象徴するように状況はさらに悪化してきていた。


 四時間目の授業が終了後、昼食を食べ終わった俺は次の授業が移動教室だったので、特にやることも無いと思い早めに授業をやる教室へと向かうことにした。


 その際に優香のクラスの前を通りかかる。 


 何気なく教室の中を覗いて見ると、休み時間だと言うのに席に座っている優香が見えた。


そしてその横に立って、話しかけている東田の姿も。


 東田はいつも見せる人懐こい笑顔で会話を試みているようだが優香の表情は少々戸惑い気味に見える。 まだ心は開いていないようだ。

 

ふと優香がこちらに気づき一瞬目が合い、一瞬喜んだ顔をするがそれも束の間すぐにはっとした表情をしてまた視線を逸らしてしまった。


 どうやら昨日の忠告がきいているようで、少し嬉しくなったが、こんなところで立ち止まっていたら怪しまれるのでやや早足でその場を立ち去る…つもりだったが、後ろから声がかけられたため振り返ることになった。


「お~い、ええっと…近藤?だっけ」


 妙に憎めないファニーフェイスで東田が教室の戸から顔だけ出して呼び止める。

「…そうだよ、何か用か?」


 ゆっくりと振り返った俺に抱きつくように東田が走ってきて両手を強く握り締めてくる。


「ちょっと助けてくれないか?」


 真剣な面持ちで俺より少しだけ背の高い端正な顔を近づけながら頼みごとをしてくる姿に正直気圧されてしまい、


「な、なに?」


 のけぞりながら返事を返してしまった。


「お、お前ってさ、瀬能さんと幼馴染なんだろ?す、少し一緒に話をしないか?実はさ、さっきから話しかてるんだけどどうも俺がむさいせいか彼女引き気味なんだよ~、教室の中がすごい微妙な空気になってるんだ!とにかくこっちに来てくれ!」


 有無を言わさずに強引に俺の手を引っ張って教室内へと連れて行く。 手にはじっとりと汗をかいていて握られた手のひらごしに伝わる感触が気持悪い…というより不快だった。


「や、やあ…瀬能さん、ちょうど君の幼馴染で演劇部の仲間である近藤が来てくれたから一緒にトークしようぜ」


 やや外し気味のテンションの東田と急に俺が現れて少しテンパっている優香、そしてあきれ気味の俺、遠巻きに楽しげに見ている優香のクラスメイトたち。


 なんとも混沌とした雰囲気の中で東田はそれに気づきもしないで話を始める。


 内容は学生らしいといえば学生らしい話だった。 好きなアーティスト、お笑い芸人、テレビ番組に学校のこと。


 話している内容は何の変哲も無いことだったが、東田という人間にかかるととても面白いことのように感じられる。


 彼の話し方のトーン、リアクションに聞かせっぱなしにならないように要所でこちらに話を向けてくるタイミングの良さ。 まるで素晴らしい映画を見ているような気になるほどに東田の話は楽しかった。


 

 あまり笑わない俺でさえ笑ってしまうほどに東田のトークというか人を楽しませる能力は際立っているということが感じられた。


 そしてその結果として彼は人にとても好かれやすいという人間なんだろう。


 それを俺は理解した。 後は彼の魅力に気づかれる前にどうやって優香と彼を引き剥がすのかを考えなければならない。 俺の予感に間違いは無かったのだ。

  

 東田は起きてしまえば決して生き残ることの出来ない大いなる災厄なのだ。

 

 優香が東田に惹かれてしまえばそこで全てが終わりとなる。 一度引き上げられた蝶ははるか大空にまで飛び上がって蜘蛛には届くことの無い高さまで行ってしまうだろう。


 東田の笑顔と優香の笑い顔の中で俺はその恐怖に立ち舞うことが果たして出来るのかと微笑を浮かべたまま自問した。




 放課後の部活中、主役である優香と東田はジャージ姿で台本を持って演技をしている。


 夏休みにある演劇コンクールに出展する劇は一次課題として出演する劇団、演劇部それぞれに共通の演目が指定されている。


 その内容はいわゆる恋愛モノで、身分違いの男と女が出会い、恋に落ち、様々な困難を乗り越えて最後には結ばれるという実にシンプルで、悪意を持って言えばマンネリな物語なのだが、話の大筋を変えなければある程度のアレンジや演出をしても良いらしく、それぞれの出演グループごとに例年様々な改良がされているため、自由度の高い課題なのだそうだ。 


 所詮は最近急増しただけの演劇部なので演出、アレンジ担当の人間はおらず、結局主役である(とはいっても優香は孤立するまでだが)東田達が担当することになったのだが、


「瀬能さん、ここなんだけど…こうしてみようか?」


「うん」


「ここのアレなんだけど、どう思う?」


「私は東田君に任せるよ」


 いまいち優香が自主性を発揮せずにいる。 とはいってもそれも当然のことで、部内で孤立しかかっているというか衣装切り裂き事件、部費盗難事件の疑惑で互いに疑心暗鬼になっており、その結果優香は俺の望みどおりに昔とはちがう消極的な人間になっていた。


 俺は内心、東田が意見を出さない優香に怒って二人の間に溝が出来ないかと期待していたが、中々に東田は人間が出来ているようで優香の消極的な姿勢には何も言わず、むしろ他の役を担っている面々たちがイラついているのを抑える行動さえしている。 


 これ以上孤立したくない、嫌われたくないという思いから出しゃばらず大人しくしていようという優香の気持とは裏腹に、他の面々からはやる気が無い、調子に乗っていると思われており、女子部員からは東田の相手役だということで、さらに反感を抱かれるという実に皮肉な図式になっている。 


 実は優香は何度か主役を降りようとしたことがあったが、そこは幼馴染としての信頼と恋人としての好意を利用して何とか説得したのだが、それでもたまに部活を辞めたいと言う優香を時には叱咤し励まし、ベッドの上で何度も優しく愛情を込めて(実際あるかどうかは別にして)何とか演劇部に留めたのだった。


 その努力のかいもあって優香は演劇部員が多いクラス内で他の友人もできず、俺以外にろくに話す相手もいない状況にまで持ってこれた。


 もちろん、優香がストレスで病まないように登校拒否にならないように俺も全力で彼女のサポート(心、身体両面で)も忘れずに頑張ってきたことは言うまでもない。


 それでもこのやや最悪な雰囲気で行われた中での練習は先週よりもあきらかに完成度が高くなってきているのはさすがだった。 


 東田の舞台栄えする長身や彼本来が持つ明るい雰囲気も凄いが、何だかんだ言っても優香の舞台上の演技力、表現力は秀でていて、それがあるからこそ反感を抱いている人間達も優香の主役抜擢に対して(裏ではどう思っていても)表だって批判は出来ないのだった。


 それにしても今日はここ最近では一番の険悪だったな。 


俺は小道具の片づけをしながら横目でチラリと優香を見る。


 ちょうどヒロインが周囲の反対に嘆き悲しむシーンをちょうどやっていたが、膝を突き、自らの不幸と神を呪いながら慟哭の涙を流す演技は真に迫っていた。 当然だ、彼女は明らかに泣いている。 なぜならいま置かれている状況はまさに劇のシーンと同じなのだから…周囲の悪意に打たれながら、自らの不幸を嘆くその姿は現実の優香だ。 ただ物語と違うのはその状況に追い込んだのは王子(正直言って役不足だとは思うが)自身だということくらいだろう。 



「どうしたんだろう…瀬能さん、本当に泣いてるぞ」


 ボソリと近くに立っていた東田が一人呟く。 


 なんだ、わかってるじゃないか。 明るく飄々とした感のある東田だが、見た目とは裏腹に中々鋭いようだ。


 だが、どうして泣いているのかはわからないだろうし、わかったところでどうすることも出来まい、優香に向けられた悪意、そして自身が原因で受けているであろう女の嫉妬を解消させることなんて出来るはずが無いのだから…もし出来たならそれこそ感服ものだ。 


 そしてこの状況こそが唯一東田に対して活用できる俺の武器である。


 仮に優香が東田に惹かれたとしても、部員の悪意と嫉妬の圧力に耐えることなど出来まいし。 もちろんそんな状況になったとしたら俺も全力で壊す方向に持っていく、その孤軍奮闘の中で果たして優香が東田という恋人を選ぶだろうか?


そして東田は優香を守ることが出来るのか?


 ……はあ、思わずため息が出る。 あまりにも楽観的な考え方にだ。


 先ほど言った俺の考えはあくまで一般的に見てで、普通の恋愛だった場合だ。


 仮に優香と東田、そのどちらかの愛情というか情熱が俺の予想以上だったとしたら?


 この物語の主人公達のように周囲の反感など意に介さず、あっさりとねじ伏せてしまうほどに彼らが強かったらどうだろう? 足元で蠢くおろかな蜘蛛である俺には空を雄大に飛ぶ蝶達の考えは読みきることは出来ないのだから。


 ただもしそうであったとしても、今は手元にいる蝶をただ味わおうとしよう。


 優香の瞳の中に見える潤みが今日、彼女が俺に弱音を吐きに行くという決断をしたことを理解して俺はただただ卑屈に笑う。 少なくとも今は自身の手元に居る蝶の中身を除き見ることの出来る快楽に酔いしれて……。

 



 部活終了後、俺は学校の近所にあるファミレスに居た。 ブスリと精一杯の不機嫌を表情いっぱいに表して。


「呼び止めたりして悪かった」


 向かいの席に座る東田はそういって神妙な顔で俺に頭を下げてくる。


俺はその姿を胡散臭げに見つめながら、ちょうどいま受信されたメールを開いて内容を見ていた。


『今から会える?話がしたいです』


 優香からだ。 俺の予想通りに優香が俺に会いたいというメールを送ってきた。


話の内容はまあ、また部活を辞めたいとか自分は主役にふさわしくないとかなんだろうが、辞められては困るのでなるべく早く説得をしたいというのに……、チラリと東田を見る。


 奴はまだ頭を上げずにいた。 もしかして俺が言うまでやりつづけるんだろうか?


 だとしたら律儀と言うか変に堅い男だな。 まあいい、早く話を終わらせて優香と会わなければ、とりあえず優香には『わかった、けど少し待ってて、後でメールする』と返しておく。


「もういいよ、それより話ってなんだよ?」


 俺の言葉を待っていたかのように、東田ががばっと顔を上げる。 その勢いに驚いて一瞬びくっとしてしまったが、平静を装って東田の言葉を待つ。


「実は…瀬能さんのことなんだけど」


 ピクリと身体が反応してしまった。


 優香?優香のことだって?一体何の話だ? クソッ!指が震える。 落ち着け、落ち着いて深呼吸するんだ。


「瀬能…?ああ彼女のことか、それで?」


 内心の動揺を隠し、促す。 一体何の話をするつもりだ?


 予想外のことに浮き足立っているのがわかる。 我ながら小心者だな。

自分に苦笑する。


「その…俺の…勘違いだったら…いいんだけど…か、彼女って…」


 なかなか話の先を告げない東田にイライラするが、表情に出さないように次の言葉を待つ。 その間に優香から二通目のメールが届いた。 そっと確認してみると、


『わかった。待ってますね』


 簡潔な文章が優香の切羽詰った心が見えた。 今日はもしかしたら今までの中で最大級かもしれないな。 携帯を閉じながら、どうやって優香を明日部活に行かせるかに頭をフル稼働させようと思ったが、東田の次の言葉で、それが強制的に止められる。


「瀬能さんって、なんであんなに孤立してるんだ?」


 パチリと携帯を閉じる音がテーブルの下で響くのと同時に言い放ったその発言に俺は一瞬言葉を失ってしまう。


 なんともまあ勘の鋭い奴だ…いや主役としていつも練習してるなら当たり前か? いずれにしても話の内容はそのことで間違いないようだ。


「孤立って……どうしてそう思うのさ?」


「ということは孤立しているんだな?」

 

 ……失言。 我ながら頭は良くないと自覚はしているが、こんなときくらい上手く回って欲しいものだ。


 俺はハーっと息を吐いて、横を通ろうとした店員さんを呼び止めてコーヒーを頼む。 その間も東田は真剣な目で息すら忘れたように俺をじっと見据えていた。


「ここは奢ってくれるんだろう?」


 俺の問いかけに一瞬きょとんとして東田は、


「あ、ああ…もちろん。なんだったらこのスウイートパフェだって頼んでもいいぜ」


 ちょっと軽い口調に戻る。 とりあえず奇襲されたような気分だったので軽く反撃をしてみた…全く意味は無いけどな。


「まあ…孤立というか、大分浮いてきてはいるよ、彼女は」


 運ばれたコーヒーを何もいれずに口に運ぶ。 馬鹿を言った自分に罰を与えるために苦味を口の中で味わう。


 当然、東田は答えた。 


「どうして?」


 俺は努めてクールに真面目な顔になって言い放つ。


「今から言ったことは彼女には聞くな…まだ傷が治ってないようなんだ」


コクリと頷いた東田の顔はまるで映画スターのようにさまになっていた。


 俺は優香が孤立することになった事件をかいつまんで説明する。 もちろん俺がそれをやったなんてことは言わない。 自分のやったことを客観的に説明する作業は何か不思議な感覚で自分がまるで小説の登場人物になったように現実味が無かった。


「…そんなことが、酷いことするやつがいるぜ」


 タンとテーブルの上を叩いて東田が怒りをあらわにする。


俺も沈んだ表情で、


「ああ、一体誰があんなことを…」


 東田と同じ気持ちのフリをする。


「瀬能さんがそんなことをするはずが無いじゃないか!自分で衣装を切ったり、部費を盗んだりなんて…」


 ……確かに優香はそんなことはしていない。したのは俺だからな。


「だが残念ながら部員の一人が見たらしいんだ。 衣装がちょっと気にくわないとか言ってのを、それに部費が盗まれた日に優香が普段通らない神社の境内にいて何かを隠していたのを見たらしい」


「なっ!一体誰が見たんだよ!そんな姿を」


「…落ち着けよ、店内だぞ」


 興奮した東田をたしなめる。

 

「どうかなさいましたかお客様?」


「あっ、うるさくしてすいませんでした」


 ぺこりと東田が周囲の客達に頭を下げる。 俺も一緒になって下げる。


「…で、誰が見たっていうんだよ?」


「…それがわからないんだ。ただ皆、誰々から聞いたとかその誰々に聞いたらまた別の誰々に聞いたとか言って要領を得ない。結局は誰が見たのかなんてうやむやさ」


 これは都市伝説が広がるパターンを利用した方法だった。


 まず第一に誰々から聞いたんだけどと部外の人間から聞いたと噂を流す。 この場合は優香が犯人「なのかもしれない」という噂だ。


 その噂を聞いた人は次に誰かに話すときは誰々が誰々から聞いたんだけどと話すだろう。


 その噂はどんどん駆け巡っていき、次の次の次の次くらいには誰々の誰々の誰々の誰々の誰々から聞いた話とはならずに、誰々から聞いたんだけどと短縮される。


 そりゃ話すほうからすれば大事なのは内容なのだから誰から聞いたなんてのは短縮されるするだろう。 だがその結果、噂の出所がわからなくなり、かくして誰が言ったかわからない、けれど優香があんなことを言っていた、あんなことをしていたというのが伝言ゲームのように広がるうちに内容が変わってこの結果に落ち着いたのだった。


 ちなみに俺が最初に流した噂では、衣装を改良したいなとお守りを買いに神社に行ったとだけ言っておいた。 これは仮に噂の出所である俺のところまで誰かがたどり着けた際に言い訳する為にこういう風にしたのだ。 もっとも実際は予想を遥かに超えて洒落にならない噂になっていたので意図的に噂を直すこともやる羽目になったが。


 それにしても根拠のない話の怖さが良くわかる事例だった。


 特に校内で目立つ優香の噂は俺の予測以上に過激に広がっていたので当人の耳に入る前に軌道修正できたのは僥倖だった。 ちなみにそのときに流れた過激な優香の噂が原因で彼女と積極的に交渉を持とうとしない人間が増えたのは俺にとっては予想外の収穫だったな。


「そ、そんな…ひどい…ことが…」


 絶句する東田を見ながら、コーヒーをすする。 そしてその下で優香にメールを打った。


『もうちょっとしたら終わるから待っててくれる?今日は家族居ないから近くまで来たらメールする』


「近藤!」


 急に立ち上がった東田に驚いて携帯を落としそうになる。 幸い落とさなかったが、コーヒーがカップの外に少し跳ねてしまった。


 そんなことも気にせずに東田はがっしと俺の手を両手で握り、真剣な顔に目には涙をうっすらと浮かべて、


「瀬能さんを俺達の手で救い出そう!」


「はっ?」


 本気でそんな言葉が出た。 一体何を言っているんだこの男は? 先ほど俺が話した絶望的な状況をちゃんと聞いていたのか? そして理解していたんだろうか?


「確かにいま瀬能さんの状況は最悪に近いさ、でも…でも…俺達に何か出来ることは一つくらいはあるだろう?」


 俺達ってなんだ? 少なくとも俺が望むのはお前が大人しくして優香と距離をとってくれること何だけどな。


「変に何かをすればそれだけ彼女の状況が悪くなるんだ。よく考えろ。 彼女のためを思ってやったことで迷惑をかけるかもしれないんだぞ?」


「た、確かに…そうかもしれないけど、でも…俺…は」


尚も何かしたいという東田を何とか説得し、俺が家路につけたのは最後に優香にメールしてから一時間半後だった。


 トボトボと夜道を歩きながら、空を見上げると小さな三日月が浮かんでいる。


 結局、優香にメールできなかったな。 仕方ない、家に帰ったらすぐにメールと電話して明日帰ったときに全力で説得するとしよう。 とりあえず今日は色々と大変だった。


 それにしても俺が思っていたより、いや思っていた以上に東田は良い奴だった。


 いつもふざけているようで妙に律儀なところがあったり、いくら同じ部員だからといってあそこまで優香の状況に自分のことのように怒ったりとなかなかどうして憎めない奴だ。


 ふと自分で気づく、笑っていることに。 なるほど、あいつは本当に凄い奴だ。

 敵だと認識している俺がこんな気持になってしまうなんて……。


 適わないよ、実際。


 見上げていた視線をまっすぐに戻す。 もう自宅の近所だ。 ちょっとシンミリとした気分を見透かすように風が吹いた。

 

「ん?…なんだアレは?」


 すっかり暗くなった道の先に何かがある。 その何かはちょうど俺の家の玄関前にあるように見えて、ゆっくりと用心するように近づくとその何かが動き出してにゅっとこちらを見る。


「…お、おかえり…へへ」


 悪戯が見つかった子供のように、俺の家の玄関前に座り込んでいた優香が照れたように笑う。


「…ずっとここで待っていたのか?あのメールからずっと?」



「う、ううん…さっき来たとこ、ちょっと待ちかねちゃって…エヘヘ…ゴメンネ」


 謝る優香の頬を手で両側から挟み込む。 もう初夏に入るとはいえ、夜はまだ冷える。


 優香の両頬はすっかり冷たくなっていた。 見透かされたことが判って困ったような顔になる。


「ふ~、とりあえず家に入りなよ。いま暖かいコーヒーを入れてあげるからさ」


「うん…やった~、ミルク砂糖甘めでね」


「駄目だ、ブラックで飲んでもらう。主役なのに風邪引きそうなことをした罰として」


「……それは…ゴメン…だって…会いたかったから」


 玄関に入った優香をぎゅっと抱きしめる。 互いに無言になって数分間そのまま。


「まあとりあえず、話しから聞こうかな?話って何さ?」


「え?ええっと…なんだったけ?なんか恭君と会ったら嬉しくて忘れちゃった」


「ふーんそうかい、それじゃお湯が沸くまで色々話そうか?」


「うんわかった……なんか今日は優しいね」


 嬉しい気持を全身から出す優香の頭をニコニコしながら軽く撫でて心の中で呟いた。


 そろそろ覚悟する時が来たからね。



 

 夢を見ていた。 それもやはりと言うべきか悪夢だ。


 状況はわからないが、何故だか俺は東田に攻められている。 あの爽やかな人の良い東田が俺をまるで悪魔でも見るように怒気を全身からみなぎらせ、断罪するように罵っている。 そしてそんな俺の前には優香が居て、膝をペタリと地面につけて呆然と俺を見ている。 


 なんだその目は…なんなんだ! 優香の綺麗な瞳の中に俺が映らない、濁った沼底のような虚ろな瞳が彼女が絶望していることを表していた。 


 瞳が溶け出ているような涙を流し、彼女は壊れた人形のようにその場にへたり込んでいる。


 俺は何か声をかけようとする。 しかし、喉が張り付いたように言葉が出ない、それどころか優香とまっすぐ目を合わせることが出来ないでいる。


 彼女のどこを見ているのか判らない瞳の中に映ってしまえば自らの醜さに消えてしまうのではないかと言う気持ちが心の底から噴出し、俺も壊れた人形のようにその場に立ちつくしている。


 だが東田だけは違った。 時間を止められたかのように凍り付いている俺と優香の間に入り、軽蔑するかのようにこちらを一瞥し、ゆっくりと彼女の前に立つ。


 そして救世主が信者に話しかけるように優香の肩に手をかけ、視線を合わし、何かを囁いている。 聞こえはしなかったが、それが愛の告白だと言うことはわかった。 恐ろしいことに東田は俺の目の前で優香を口説いているのだ。


 優香の目に光が戻る。 そしてゆっくりと逡巡するように手を伸ばし、そしてそれを東田が強く握る。 それが合図のように二人は激烈に抱擁しあうのだ。 


 俺はただただそれを見続けることしか出来ない。 


 優雅で美しく最も恐ろしい悪夢を……。



 ブーンブーンという低音のバイブ音で目が覚めた。 やはり夢か……。 


 暗くなった室内で天井を見上げながらホッとする。


 隣では裸の優香が可愛らしい寝顔をして寝入っている。 そうだ、外で身体を冷やしながら待っていた優香と家に入って軽く談笑した後、俺達は抱き合ったのだ。 まるであの悪夢の二人のように……。


 夢を思い出し、総毛立ちそうな悪寒を振り切って、俺は優香を起こさない様に慎重にベッドから降りて脱ぎ捨てられたズボンのポケットから携帯電話を取り出す。 

 メールの受信を表すアイコンが画面上に出ており、開いてみると差出人は東田だった。


 悪夢から目覚めるのを助けてくれたのが悪夢の張本人だったなんて、皮肉な状況に思わず苦笑してしまう。


 薄暗い室内でボウッと光る携帯を操作してメールを開くと、


『件名 東田です    

 今日は急に呼び止めて悪かった。なんか用事があったんだろう?携帯いじくってたからわかってはいたんだけどさ。 とりあえず明日から俺は俺なりに瀬能さんがまた元に戻る方法を考えてみるよ、お前の話を聞いて何も知らないではしゃいでた自分が馬鹿みたいに思えたし、きっとみんな瀬能さんと仲直りするきっかけを探しているんだと思う。近藤もよかったら協力してくれないか?とりあえず明日また学校で話そうぜ』


 半分予測していたとはいえ、頭が痛くなる。 どうやら東田は迷惑なことに(本人にとっては大真面目なんだろうが)優香を昔みたいにしてやりたいと決意してしまったようだ。


 あのファミレスでの会話の中で東田は人が良いわけではなく、なかなか正義感が強いというのも知ってしまったが、まさかここまで行動的だとは思わなかった。


 俺としては何かしら言ってくるたびに上手いこと否定していればそのうち諦めるだろうと思っていたんだが……。


 携帯を閉じて、小さく寝息を立てる優香の横にもぐりこんでしばし寝顔を観察した後、ゆっくりと縛り付けるように抱きしめて俺はまた眠った。 とりあえず明日からの為に今は寝よう…このぬくもりを忘れないためにも。

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