第9話 御燈



 『どうした、驚いているのか?』


 ギンはそう言って、自身の美しい毛を舐めた。


 「ギン……。それにその声、……まさか⁉」


 ギンは、普通の獣ならば絶対そうはしないような人間臭い様子で目を細めた。


 『残念だが、そのさ』


 ギンの言葉に、ナギは愕然とした。

 

 ギンはその様子に、鋭い牙の隙間から「フフッ」と意地の悪い笑いを漏らした。


 『俺様にも良くはわからないが、あの契約はどうも不完全なものだったらしいぜ』


 「ふかんぜん?」


 『お前が使った妖術は、対価を与える代わりにこの俺様を従僕とする類のものだ。だが、契約が結ばれれば、本来の主人たる彼奴あいつは息を吹き返し、そっちの主従関係も復活することになる。そうすると、お前の契約とかち合う事になるわけだ』


 ギンの口から滔々と語られる内容を、ナギは戸惑いに集中力を散らされながらもなんとか咀嚼そしゃくしていった。


 「じ、じゃあ、契約は結ばれなかったの?」


 『いや? 契約は結ばれたさ、現に俺様は彼奴の妖力を回復させた』


 「それじゃあ、一体……」


 『俺様は本来、二人以上の人間と契約を交わすことはできない。それゆえ、契約が重複した結果、お前の守護獣でありさらに彼奴の眷属けんぞくでもある狗賓こいつ憑依ひょういせざるを得ない状況になっちまったみたいだな』


 「そ、そんな……」


 ギンもといミアカシは、ナギの狼狽はよそに、彼女を嘲弄するように床へゴロリと転がってその白い腹を見せる。


 『ったく、毛むくじゃらのワン公になっちまうとはな。そもそも、お前が契約を呑まなければ今頃は……』


 ミアカシは悔しげに呟いて、太い前足にその顎を乗せる。


 「じ、じゃあ。対価はどうなるの?」


 『対価は対価だ。俺様は依然、お前の命を好き勝手に扱える権利は保持している。……しかし、主人である彼奴の許可無しには、俺様自身ではなんともしようがねえ』


 ミアカシはそう言ってベッドの上の少年に顔を向け、不服そうに低く唸った。


 『ま、お前は期せずして命拾いしているってわけさ。少なくとも今はな』


 ナギはミアカシの言葉にゾッとして身を強張らせた。


 ミアカシはそんなナギの反応を楽しむような調子で、毛並みの良い白銀の尾を鷹揚おうように揺らした。



 そのミアカシがふと、鼻をひくつかせて顔を上げた。

 その視線は、壁に設けられた窓へ向けられている。


 『おや……。こいつはまた、良い匂いがしてきやがるな』


 そう言ってニヤリと笑う。


 「匂い?」


 ナギは復唱しながら小首を傾げ、ミアカシの言う匂いを探ってみたが、それらしきものは感じられなかった。


 『これだから、修練を積んでいない奴は感覚が鈍い。……同類のくせに分からないのか? この、人間が焼ける匂いがな』


 ミアカシの発した物騒な言葉にナギは眉をしかめる。


 しかし、直後、とある可能性を思い浮かべ、ゾッとしたものを背筋に感じた。

 彼女は慌てて窓の方へ駆けよった。



 窓から見えるのは真夜中の精霊の森の風景。

 いつもは月明かりに照らされた木々の頭くらいしか見えぬはずのそこに、今宵は明々と夜空を染めるものがあった。


 広い精霊の森のずっと向うである。

 森の東方、ウェスターに近い木々の疎らな地点で、天を焦がすような火柱が立っていた。

 炎に照らされて不気味に赤く染まった煙が、空高く狼煙のように立ち昇っていく。


 「そんな、まさか……」


 ナギは絶望した表情でそう零すと、歯噛みして窓から離れ、ベッドの傍らに立て掛けていた杖を握り締めた。



 『あそこへ行く気か?』


 ミアカシが前足の毛並みを整えながら暢気に尋ねた。


 「そうよ。助けないと」


 『助ける? 既に全員死んでいるかもしれないのに?』


 ミアカシが投げかけた不謹慎な言葉に、ナギはキッとミアカシを睨んだ。


 『そう怖い顔をするな。こういう時こそ冷静になるものさ。情深いのは結構だが、俺様に言わせれば、その情は早死にのもとさ。こういう時、隠れて難が過ぎるのを待つのが利口な奴の選択だぜ?』


 「でもそれじゃ、助けられるものも助けられない」


 ナギの言葉にミアカシの金色の目がキュッと細められる。



 『愚か者。それは強者のみの台詞だ』



 ミアカシは鋭い視線をナギに向け、俄かに低く唸るように言った。


 ナギはミアカシの放つ獣の風格に当てられたようにビクリと肩を震わしたが、直ぐに表情を固めると部屋の出口へ向かっていった。


 「ギン……いえ、ミアカシ。その人をお願い」


 そう言い残してナギは部屋から出て行った。


 ミアカシはプイと顔を背け、ふんと鼻を鳴らした。


 『お願いだと? 俺様がそんなもの守るかよ』


 ミアカシは身を反転させると、ベッドの上の少年に近寄る。


 『この、死にぞこないめ。暢気に寝ていると俺様が食っちまうぞ』


 そう言ってミアカシは白い牙を剥き出しにした。


 『ま、こいつを食っても旨くはないだろうからな。初めての食事はもっと旨いものに限る』

 

 ミアカシはそう言って身を翻すと、上機嫌そうな軽やかなステップで部屋の出口へと向かう。

 そして、ふと思い出したように出口の手前で立ち止まって、少年を振り返った。



 『妙な世界だぜ、ここはよ。……一体、お前はどこに堕ちたんだろうなぁ』


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