第8話 守護精霊


 少女は大樹に設けられたツリーハウスに戻ると、部屋内のベッドへ少年を横たわらせた。


 彼を部屋まで担いできた狼は、二人から少し離れた場所に座って少女のすることを静かに見守っていた。


 少年の容体と言えば、携行していた治癒ポーションを使って何とか命を繋いではいるものの、自然治癒は期待できず未だ一刻の猶予もない状況であった。


 少女は少年の纏う衣服をナイフで切り裂く。

 露わになったその体には、赤黒い口を覗かせた傷が幾か所にもある。


 少女は清潔な布を傷口に当てて止血を試みた。

 しかし、なかなか出血は収まらず、少年の傍らには血を吸った布がみるみる山のように積まれていく。


 少女は部屋内の棚から、先程森の中で使ったものと同様の硝子瓶を数本取り出すと、中身を布に浸して少年の患部に押し当てる。

 その度に、少年は僅かに呻き声を上げるものの、それすら力なく弱々しい。


 少女は布の上に手を翳すと瞼を閉じて唱える。


 「精霊よ、この者に生きる力を」


 ぼうっと掌が青白く光り輝き、暫くして収まる。

 掌で押さえた布は、少年の血を吸って真っ赤に染まっていた。


 「……だめ。ポーションもヒーリングも効果が薄い。きっと、生命力マナが尽きているんだわ」


 少女は苦々しげに呟いた。


 少女はその場を離れると、先とは別の戸棚から、一枚の羊皮紙を引っ張り出し、ベッドの横に設けられた机の上へとそれを広げた。

 羊皮紙には何重にも円が描かれ、さらに円の周に沿う様に細かい文字がびっしりと刻み込まれていた。


 「でも、この人の守護精霊なら、なんとかできるはず」


 少女はそう言い、少年の傍らに積まれた血を吸った布を一枚手に取ると、机上の羊皮紙の上でそれを絞り、数滴の血液を滴らせた。


 「守護精霊よ。来たりて汝の主に見え給え」


 少女が唱えると、羊皮紙上の血溜まりが生き物のように震え、やがてブクブクと沸騰し始めて白い蒸気を放った。

 鉄臭い香りが少女の鼻をついた。


 途端、血液がパッと光を放つと、ジュッと音を立てて発火した。



 最初、蝋燭程度だったその火の玉はみるみるうちに膨張し、瞬く間に天井を焦がす程まで燃え上がった。


 炎は眩い光を放ちながら熱い暴風を纏い、部屋中を蹂躙して紙切れや家具など、辺りにあった物を吹き飛ばした。

 同時に大量の火の粉が豪雨のように少女の体に襲い掛かったが、それは森の中で体験した時と同様に彼女の身を焼くことはなかった。


 炎は不自然に蠢くと、その只中に黄色い目玉を二つ形成した。



 『お前、さっきの子娘か、この俺様を召還しやがったな』



 唐突に炎が低い声を放った。


 「やっぱり。あなた、あの人の守護精霊だったのね」


 少女は熱風から顔を庇いながら、狼狽えることなく炎へ話しかけた。


 『守護精霊だと? ふん、何の事だか知らんが、俺様は奴を守護などしていない』


 炎はそっけなく言う。


 「でも、契約したのでしょう?」


 『契約だと? 冗談じゃない。奴は法力ほうりきで俺様を縛り、一方的に使役していただけさ。今は、奴の力が弱まっているから自由になっているがな。それをこんな形で呼び戻しやがって……』


 「でも、あなたの主なんでしょ? その人が死にそうなの。力を貸して」


 少女の懇願に炎は黄色い目を後ろに向けて、ベッドに横たわる少年を見た。

 途端、轟々と音を鳴らして笑った。


 『こいつめ、妖力を切らして死にかけているのか。フハハッ! ざまあないな』


 火精はひとしきり火花を噴き上げて笑うと、少女に向き直って言う。


 『こうなったのも所詮此奴こいつの落ち度。そんなもの、死なせておけばいいのさ』


 「どうして……⁉」


 少女は食い掛かるように叫ぶ。


 『どうしてだと? 簡単だ。此奴が死ねば俺様は自由になれるのさ。千年の呪縛からやっと解き放たれるのだ。それをなぜ、奴を助けて再び縛られねばならない?』


 「そんな……」


 少女は消沈したように声を落とした。


 その様子に、火精はふとその黄色い両の目を細める。

 すると、火精は首をひょろひょろと伸ばして、少女に顔を寄せ彼女の姿をまじまじと見た。


 『ふむ、だがお前がどうしてもというのであれば……』


 火精はそう言うと、水飴のように伸ばした細い体を操り、少女を吟味するように彼女の周囲を旋回した。


 『俺様のような悪魔は、お前のような穢れの無い乙女の精気を好むものだ。もしお前が、その命を俺様に捧げるというのであれば、お前の願い、叶えてやらない事もない』


 火精の言葉に少女は目を見開いた。


 「私の……命?」


 『そう、お前の命だ。どうだ? 見ず知らずのの為に、自らの命を捧げられるか?』


 少女は戸惑った。

 火精の言う通り、ベッドに横たわる少年は名前も正体も知らない「人間」である。


 『勿論、断るのもお前の自由だ。自分の命を擲ってまで彼奴を助ける義理はお前には無いからな。断ればただ、失われるだけさ』


 そう言って炎は、少女の肩や首に纏わりつき、意地悪く笑った。


 「私は……」


 少女は言い淀んで少年を見た。

 彼は眠るように瞳を閉じていた。


 精霊というものは時に悪意を持つものも存在し、契約者を騙して利益を得ようとする事もあるという。要求を呑んだとて、必ずしも約束が果たされるとは限らない。


 ……だが少女は、目の前で自身を嘲笑するように見下ろしていた火精へ視線を戻すと、確固たる意志の宿った瞳で火精を見た。



 「精霊よ。我は汝との契約を請う」



 少女の発した言葉に火精はギョッとしたように橙色に輝いて火の粉を散らした。



 「我は汝の求めに応じ、この命、捧げる事を誓おう」



 『ば、馬鹿な! お前!』


 火精は、少女の宣言を止めようと、わっと膨張して彼女へ飛び掛かろうとしたが、寸前で机上の羊皮紙に描かれた魔法陣が輝き、そこから伸び出た光の蔓が火精を絡めとって動きを封じた。



 「契約の盟主、我の名は『ナギ・ホーリーベル』」



 『や、やめろ――‼』



 「務めを果たす者、汝の名は――」



 少女の脳内でパッと炎が燃え上がるイメージが湧き、その炎の中にとある名前が浮かび上がった。

 少女は、神懸ったように無意識にその名を口に出す。


 「 ミアカシ 」


 唱え終えた途端、ミアカシと呼ばれた火精の体が、鞴で吹いたかのように轟々と音を立てて明るい橙色に輝いた。


 ミアカシの足元の羊皮紙が虫食いのような焦げ目をつけると、一瞬で燃え上がって黒い煤が天井まで舞い上がった。


 すると、ミアカシの体がグンと、宙へ舞い上がる。


 ミアカシが抗う様に机に齧りついたが、尾の方は水飴のように宙へ引き伸ばされていき、それが火災旋風のようにバラバラと空中で回転し始めた。


 『くそぉおおおお‼ 子娘ぇええええ‼』


 ミアカシが火花を散らして叫ぶも、宙へ舞った火花も全て旋風に巻き込まれて部屋内を飛び回った。


 やがて、ミアカシが必死に掴んでいた机の端が炭化してバラと砕けると、ミアカシの体は支えを無くして空中に投げ出され、旋風に呑まれてギュルンギュルンと回転した。


 ミアカシは最後の抵抗とばかりに轟と音を立てて咆哮するが、それも旋風が巻き起こした風の音に飲み込まれてくぐもった音となった。


 旋風はやがて、中心部へ収束するように小さくなると、次の瞬間、その内圧に耐えきれなくなったかのように閃光とともに乾いた音を立てて爆ぜた。


 その瞬間、辺りへ星屑のように煌々とした光の粒子が拡散し、部屋内はさながら真昼のような眩さに包まれた。


 ナギの目はその閃光に眩み、やがて視力が平常に戻る頃には、辺りは静寂に包まれ、散らかった紙や布が、部屋内に残ったそよ風に靡いていた。


 ナギは暫しあっけらかんとしていたが、はっとして少年のもとへと駆け寄り、彼の様子をうかがった。


 やがて、わっと声を上げると、瞳を歓喜に輝かせた。



 「……良かった! マナが戻ったのね。ポーションが効いてる」



 傷口に当ててあった布を除くと、先程まで赤黒い口をのぞかせていた傷は、未だ若干の凹凸はあるもののしっかりと塞がっており、出血は完全に止まっていた。



 ナギは安堵の溜息をつく。


 「これでひとまず安心ね……」


 ナギはそう呟くと、ベッドの横に転げていた椅子を起こし、そこへグッタリと腰を下した。


 「……ただ、出血量が多かったから回復までは時間が掛かりそう。数日は、意識は戻らないかな」

 

 血色の良くなった少年の顔を見て、ナギは破顔した。


 彼のその大人びた怜悧な顔立ちを改めて眺めてみると、表情の奥に歳相応の稚さをも含んでいるようにも思えて、どこかつかみどころのない印象を抱かせた。


 その夕凪のように穏やかな少年の寝顔を見ていると、ナギの脳裏に先程精霊と交わした契約の内容がふと浮かんできた。


 「……私の命か」


 ナギは、自分の掌を見つめながらポツポツと零した。


 すると部屋の端で物音がした。

 ナギがそちらを見ると、終始部屋の隅に座っていた狼が立ち上がって、澄ました様子でこちらに歩み寄って来る途中であった。


 「ギン……」


 ナギは、すぐそばまで来た狼の頭を撫でながら、落ち込んだ様子で語り掛けた。


 「ねえ、ギン。私どうなっちゃうのかしら……」


 すると、ギンと呼ばれた狼は、ナギの言葉に反応するようにその顔を上げて、獣らしからぬ挙動で、その口の端をニッと釣り上げた。



 『ふん、まだどうにもしやしないさ』



 その口から発された言葉に、ナギは唖然としてギンを見つめた。



 

 

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