第7話 謎の少年



 少女を乗せた狼は森の中を風よりも早く駆ける。



 密集する木々が月明かりすらも遮っているのに加え、代わり映えのしない景色が延々と続く夜の「精霊の森」の中では、通常自分が何処に居るかを把握するのも困難であるが、精霊の森を知悉する少女はもとより、その森に棲む獣にとっては迷う心配など全くない。


 闇の中を、少女の杖の光が斬り進んでいくと、暫くして突然その視界が開ける。


 少女の記憶では、そこは本来まだ大森林の只中にあって、生い茂った木々に覆われて夜空など拝めない場所であったのだが、その夜は違った。


 辺りには、先程の光の球がそうせしめたであろう、先刻までそこに生えていたはずの木々が木っ端微塵となって散乱していた。

 足元の地面は深い場所から根こそぎひっくり返され、柔らかい赤土や泥土と木の根などが入り混じり、四足の獣とて脚を取られて走りづらい程の惨状であった。

 狼は背の上の少女を慮るようにバランスをとりながらゆっくりと歩みを進めた。



 抉られたU字の溝に近づくにつれて、土塊の香りや様々な物が焼き焦げたような、鼻を突く臭気が辺りに漂った。

 狼はU字の底を見下ろす溝の縁まで来ると歩を止め、背に乗る少女に次の指示を乞う様に鼻を鳴らした。

 少女は狼の背をポンポンと叩くと、その背から軽やかに飛び降りた。


 彼女は溝の縁にしゃがんで底までの深さを目で測り、崩れやすい縁の地面に注意しながら、その反り立った斜面に足を下ろし、そしてズルズルと一気に滑り降りた


 U字溝の底へ至ると、少女は身に纏うローブの腰に着いた土埃を払い、自身の後を追って溝を下りて来る狼を待つ。



 少女が杖を掲げて溝の向こうを照らすも、溝は闇の向こうまで長く続いておりその終端はまったくうかがえない。


 少女は深呼吸をしたのち、意を決するようにゆっくりと踏み出した。



 溝は長く続いていた。

 進むほどに地面が深く抉られており、相当な威力をもって光の球が墜ちたことがうかがえた。



 溝の底を歩き始めて数分。いよいよ溝の終端を前方に捉える。



 一際大きく抉れたそこは、溝よりも広い円形状に地面が穿たれており、そのクレーターの中心部には光の球が墜ちて間もない事を示すように未だ炎が明々と燃え立っている。

 炎は少女の半身程の高さまで燃え上がっており、とても生身では近づけない熱量を放っている。


 少女は狼狽えず炎の間際までゆっくり歩み寄る。

 ヒリヒリと肌が焼け付くように感じる距離で、炎に杖を向けた。



「水精よ、踊れ」



 すると、掲げた杖の周囲に気流が発生したかと思うと、大気中にキラキラと輝く霧状の水泡が渦を巻きながら出現し、次第に白い渦潮へと成長していった。

 少女が杖を横薙ぎに振るうと、渦潮は杖の動きに呼応するように前方へ押し出され、次第に幅を増してクレーターの半分を覆う程の巨大な霧状の渦に変化していった。


 霧の渦は風を鳴らしながら、燃え立つ炎を上空へ吸い上げるように巻き込んでいく。炎の赤と霧の白の織り交ざった渦は、夜闇を焦がしながら轟々と鳴った。


 渦に巻きあげられる炎は、揉まれ千切られ、大気中へ溶け込むように消えて行く。そのため、渦に含まれる赤の配色はみるみる減っていった。

 クレーターの最中央で渦に抗って僅かに残る炎も、まさに風前の灯と言った体で、間もなく鎮火するかに思われた。



 しかし、その直後であった。



 炎を圧倒していた渦が、あたかも痛痒を感じたかのようにギュルリとうねる。


 すると突然、松明程の大きさまで弱まっていたはずの炎が急激に膨張し、ドッと音を伴って周辺の渦を爆散させた。


 渦は内部から腹を食い破られたかのように形を崩し、逆に勢いを増して燃え上がった炎に呑まれる形で消滅した。


 枷を外された獣のように、炎はその身を直上へグンと伸ばして大手を広げ、少女を見下ろすかのように立ちはだかった。


 突然の事に、思わず尻もちを付く少女。

 その時、生き物のように不自然に蠢く眩しい炎の中に、自身を睥睨する金色の眼玉が二つ形成されたのを見た。



火精サラマンダー――⁉」



 炎を見上げて、少女は半ば悲鳴のように叫んだ。

 少女の背後に控えていた狼が、さっと彼女と火精との間に身を滑り込ませ、彼女を守護するように立ち塞がって低く唸った。


 火精は、鞴を吹かすかのような轟々という唸り声を上げて荒ぶり、空を焦がしながら、少女と狼を交互に見下ろした。


 ふいに、火精の身が僅かに縮んだかと思うと、次の瞬間、ドッと音を鳴らして少女の頭上を駆け抜けた。


 直後、火精の纏った熱い風が吹き付け、少女の肌をジリジリと焼いた。

 体表の神経が瞬時に焼き切られるような峻烈な熱気を感じるが、痛みに身を捩るだけの余裕もなく、少女はひたすら顔を伏せて火精が遠ざかるのを待つほかなかった。



 永い一瞬が終わって、少女はその身に、ひんやりとした風を感じるようになった。



 はっとして振り返ると、火精が飛び去った方向には、蝋燭の灯のような小さい点となった火精の姿が見えたが、やがてそれも夜闇に呑まれて消えていった。


 呆気に取られ、茫然とその姿を見送る少女。その頬を傍らにいた狼が優しく舐めた。


 少女は思い出したように、炎に焼かれたはずの自らの顔や手足に視線をやった。

 だが不思議にも、そこに火傷などの痕跡は一切残っておらず、彼女の白い肌はもとの美しいままじんわりと汗ばんで、炎が肌を焼いた時のジンジンとした感覚が残るのみである。

 すぐそばにいた狼においても、その美しい毛の一本として焼け焦げた痕跡は見当たらなかった。


 少女は地面にぺたんと尻をついたまま、放心したように狼の顔を眺めた。

 

 その狼は、意味ありげに振り返って、自身の視線の先へ少女の注意を誘導した。


 少女は小首を傾げつつ立ち上がると、狼の背後に回って狼の視線を追う。



 ちょうど、クレーターの真ん中であった。



 火精の残した残滓がチラチラと燃え続けながら照らし出しているのは、そこへ倒れる何者かの姿であった。


 少女は予想外の光景に驚愕し息を呑んだ。



 「人間の男……?」



 眠ったような穏やかな表情を火灯りで照らしてそこに倒れているのは、少女とそれほど変わらない年頃の少年であった。


 投げ出した手足の線は細いが背はスラリと高く、顔面は死人のように青白かった。


 いで立ちはかなり異様である。

 顔の造りは端正というべきものであったが、少女も見知らぬ異国のそれである。

 また、身に纏っているのは、少女が今までに見た事も聞いた事もない作りの衣服である。

 ムラの無い丁寧な黒染めで、一体どんな素材を用いたのか、表地は絹のように光沢があるが、一方で絹には無いようなハリもあり、上体の前面には金細工のような煌びやかな装飾品で飾られている。



 ……だが、その風体以上に少女の注意を惹いた点があった。



 彼の纏った衣服の、その黒い生地がベッタリと何かに濡れていたのだ。


 少女は警戒しつつも少年の傍らに歩み寄り、その衣服に触れる。

 衣服から離した掌には、薄暗い夜闇の中でも分かる程、鮮やかな赤いモノが付着していた。


 少女の心臓が早鐘を打つ。



 近くに寄ってみて初めて気が付く。染みの広がった箇所には鋭利な物でつけたような裂け目が形成されており、そこからいまも尚ドクドクと彼の体液が流れ出ていた。


 その上、それは一カ所にはとどまらなかった。

 体の至る所に刺し傷のようなものがあり、流れ出た体液が地面を赤く染めていた。


 少女は狼狽えながらも、自らの耳を少年の口元へ近づけてみる。

 僅かであるが、糸のようにか細い呼吸音が聞き取れた。


 少女はすぐさま身を起こすと、自身のローブの裾に手を差し込み何かを取り出す。


 親指程の大きさの硝子の小瓶であった。

 その内容物は、仄かに青く光を放っている。


 少女は硝子瓶の頭を折ると、それを少年の口元に近づけた。

 もう一方の手で少年の下唇に触れ、青ざめた唇の間に僅かな隙間を作る。


 その隙間に小瓶から青い雫を滴らせる。


 唇を伝って少年の口内に液体が流れ込むと、俄かに少年の喉元がひくついた。


 途端、少年は身を強張らせると、咽るようにして口元から赤々とした血反吐を吐き出した。

 だが、その動作さえ力なく、粘り気のある血液はゴボゴボと口から溢れて喉元をダラリと流れ落ちた。


 少女は歯噛みし、彼の顔を横に傾けて口に溜まった血液を吐き出させる。


 少女は今度は、手にした小瓶の中身を一気に呷った。


 そして、それを口に含んだまま自身の顔を少年に顔へ寄せて、そのまま唇を重ねた。


 少女の口内には青い液体の苦みに混じって、少年の血液の鉄臭い味が広がった。


 少年は僅かに顔を顰めると、先程と同様に喉元をひくつかせたが、今度は咽ることはなかった。

 少女の口からもたらされるものを受け入れて謳歌していく。

 合わさった口元から、輝く一筋の青い雫が漏れ出て、少年の血に汚れた喉元を洗った。


 どれほどの間かそうしたのち、少女は静かにその顔を少年から離した。

 口元を少年の血で汚したまま、一心に彼の様子をうかがっていると、まもなくその呼吸が俄かに力強さを取り戻したように感じられた。


 少女は安堵した表情をみせ、口元を袖で拭った。

 狼を近くに呼ぶと、その背に少年の体を乗せるべく彼の脇を抱えた。

 彼は細身の割には体重があり、少女の細腕で抱え上げるのは一苦労であった。


 狼の背に乗っても尚、少年の体からは絶えず出血が続いており、狼の銀毛を赤く染めながら地面に滴っていた。

 狼は自らの体毛が汚れる事も厭わず、先導する少女の傍らを歩く。




 大樹の元へ向かう為、森の暗闇の中を進んでいく少女と狼。


 狼の背の上から力なく手足を投げ出して、死人のように白い顔をした少年。その見ず知らずの彼を横目に、少女は夢と現の狭間を彷徨っているような浮遊感に苛まれていた。

 自身の制御を越えた緊張感と焦燥感に対する身体の防衛反応だったかもしれないが、それ以上にとある現実味の無い可能性が少女の心に渦巻いていたのであった。


 

 「この人が、本当に魔神ウルカ……? 」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る