第6話 精霊の森



 辺境国ウェスターの郊外。


 西方に広がる広大なステップ地帯を抜けた先にある大森林。

 帝国の人間やウェスターの人間は、そこを『精霊の森』と呼称していた。


 精霊の森の只中。

 鬱蒼と茂る木々の中にあって、一際大きく聳え立ち、辺りの木々を我が子にように見下ろす大樹があった。

 上空ヘ向かって大きく広がるように伸びる太い幹の中途、何又にも分かれた太い條々えだえだに支えられるようにして設けられた木製の建造物がある。

 條々に抱きかかえられるように一体化し、その歪な形状が何百年も昔から大樹と共にあったことを物語る、年季の入ったツリーハウスである。


 そのツリーハウスの壁へ、刳り抜くように設けられている窓。

 ハウスの中から漏れ出す暖かな蝋燭の光を背にして、夜空を行く光の球を見上げている少女の姿があった。

 目深に被ったフードから零れた白い頬は、朝露に濡れた白い花弁のような瑞々しさを放ち、艶のある肌は空から注ぐ怪しげな光に照らされて、蠱惑的な輝きを見せていた。


 夜空に向けられた少女の翡翠色の瞳は、空から注ぐ光を受けて泉のように輝いていたが、途端、そこへ血の雫が滴ったかのように、瞳はたちまちルビーのような情熱的な輝きにうって変わった。


 空を行く光の球がぱっと爆ぜたかと思うと、まるで衣を脱ぎ捨てたかのように、緑色の尾だけが千切れて夜空に取り残され、光の球は今度は赤く燃えるような衣を羽織って、そして俄かに空を駆ける速度を早めたように見えた。


 直後、幻想的な夢を打ち醒ますかのように、光の球は周囲の空気を打ち震わした。


 周囲に小さく輝く星々までもが揺さぶられるかと思うほどの轟音は、空気を媒介した暴力となって地上に降り注ぎ、大森林の木々は慄くようにビリビリと震えた。

 少女はビクリと肩を振るわしながらも、なお光の球の行方からは目を離さなかった。

 一身に空を睨む少女の胸にあったのは、光の球の放つ圧倒的な力に対する畏怖と、それが意味するものへの期待の両方であった。


 水面を行く一艘の船のように夜空を滑っていた光の球は、やがてスルスルと高度を下げたかに見えると、その後は一見して「落下」とうかがえる挙動で大森林の只中へと吸い込まれていく。

 光の球は明々とした長い朱色の尾を空に引き、さも紅い龍がその腹を地面にこするかのように、大森林の木々を薙ぎ払いながら進み、周囲には砂礫や木々が粉砕する無慈悲な轟音が響いた。

 光の球の進んだ後には、茶けた土煙が高々と巻き上がり、光の球の残した赤い火花とともに空中で舞を舞った。


 光の球が空気を裂く轟音は、地面を抉る音と共にさらにその規模を増し、空気と地面を伝って、遠く少女の元へも襲い掛かって来た。

 少女の鼓膜はビリビリと震え、彼女を支える足場は大樹ごとグラグラと傾いだ。


 堪えず少女は床に這いつくばり、耳を押さえて蹲った。


 その後齎された一際大きな爆音は、掌で塞いだ少女の鼓膜をも突き破らん程に周囲一帯へ炸裂した。


 爆音と衝撃に少女の意識がフッと薄らぎ、再び意識が正常に戻った頃には、辺りは先程までの狂騒が嘘であるかのような、不気味なほどの静寂に包まれていた。


 少女は、そろそろと起き上がって、光の球が墜ちた先を眺めた。


 大森林が間二つに裂かれたかの如く、地面が深く抉られていた。

 さながら、光が墜ちた先へと、道が敷かれたかのようであった。

 おあつらえ向きに、その溝の両脇には吹き飛ばされた木々が松明のように燃えて、夜道を照らしていた。


 少女は半ばぼうっとした意識のまま、目の前に突然現れた壮大な道を眺め、その後はたと気が付いたように窓から離れた。


 大樹に設けられたツリーハウスの出口は、大樹の根元の洞に続いていた。

 洞から現れた少女は、その手に黒い光沢を放つ木製の杖を握っていた。


 少女は大樹を離れ、大樹の周囲に広がる草むらを横切り、草むらの縁、つまり鬱蒼と茂る森への入り口手前で立ち止まる。

 少女は辺りをキョロキョロと見回した後、手にした杖を頭上へ軽く掲げ、一呼吸おいてから唱える。


 「精霊よ。我が道を照らせ」


 すると、杖の先端から僅かに離れた虚空へ仄白い灯りが点り、それはみるみる大きな光点となって、やがて松明ほどの明るさとなった。

 少女はそれを頭上高くに掲げると、暗い森へ向かい、何かへ合図するかのように左右に大きく振るった。


 間もなく、茂った木々の合間から、ヌッと大きな影が顔を出す。


 暗闇の中、二つの眼球を金色に輝かせたそれは、近づくにつれ少女の三倍以上の体積はあろうかという巨体を光の下へと晒していった。


 徐々に露わになるその姿。

 最初に見えたのは、引き締まった堅牢そうな顎。ナイフのような鋭利な牙が立ち並びギラギラと輝き、また暗中で輝いていた眼球の周りには、一本一本が精巧な銀細工のような体毛が滑らかに生え揃い、雪面のような美しさを放っている。

 脚を踏み出す度にその膂力を裏付ける豊かな筋肉を躍らせて、威厳ある足取りで歩み来たのは、巨大な狼であった。


 狼は少女の傍らに歩み寄ると、少女の頭上よりも高い位置にある己の首を垂れ、銀毛雪白の額を少女の頬や首に擦り付ける。

 自身の胴体よりも太い首に押しこくられ、危うく蹌踉よろけそうになるのを踏みとどまりながら、少女は宥めるようにその額や首をひとしきり撫で回すと、丸太のような首筋を白く柔い掌で軽く叩いた。


 狼は、悟っていたかのような落ち着いた挙動でその身を反転させると、ゆっくりと脚を折り、地面に腹を着けた。

 伏せてもなお山のように盛り上がった狼の背へ、少女は慣れた様子で軽やかに飛び乗る。


 狼は少女の軽い体をその背に感じると、すっくと立ち上がる。

 そして首を背後に捻って、背の上の少女に指示を乞う様に鼻筋をひくつかせる。

 少女がその首筋をポンポンと叩くと、狼は軽やかに足を踏み出し、暗く鬱蒼とした森へ向かって進んでいった。


 狼は徐々に足取りを早めていき、やがて暗い森の中、木々の合間を風のようになって駆けて行く。

 少女は風を体に受けぬよう狼の背の上へ腹這いでしがみ付き、身に纏ったローブの裾が風に靡いてバタバタと踊った。


 「まさか、言い伝えが本当になるなんて……」


 風を切る音の中、少女の小さな呟きは、暗い森の中へ置き去りにされるように響いた。

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