第5話 辺境国
帝都よりも遥か西。
光の球が向かうその方面に位置するのは、帝国領の西端に位置する国。
『辺境国ウェスター』。
その規模は帝都に比べれば赤子程であるが、それでも都市中央に立つ石造りの城は、無骨ながらも荘厳な雰囲気を放つ巨大な建造物であった。
城の西側に設けられた堅固な造りの一室。
西方を臨んだ小窓から注ぐ緑光をその身に浴びるようにして、祈りの姿勢をとる少女の姿があった。
歳の頃は十代半ば。
腰まで真っ直ぐに伸びる黒髪は、
身に纏う衣服は落ち着いた色合いであるが、凡そ平民には似つかわしくない上等な誂えであり、また憂い気に伏した目の切れ込みや、小さく何かを呟く唇などには、どこか高貴な香りを漂わせている。
その清楚可憐な少女は、辺境国ウェスターの前王シオン・アンテロースの一人娘、アリア・アンテロースであった。
蝋燭一つ灯されていない陰気な一室には、彼女の身分の割には召使の一人として姿はなく、緑光に照らされるアリアの姿のみが薄幸な幽霊のように暗い部屋内へぼうっと浮き上がっていた。
ふいに、部屋の東側、アリアの後方に設けられた扉がノックされた。
アリアは怯えた小動物のような挙動で顔を上げると、背後を顧み、緊張した細い糸のような声で「誰?」と問うた。
少しの間を置いて、節のある響きの良い男の声で短い返答があった。
その声を耳にして、警戒を解くようにホッと胸を撫で下ろしたアリアは、扉の外に立つ人物を、柔らかい声で部屋内へ招いた。
数秒後、アリアをうかがう様なゆっくりとした挙動で扉が開くと、部屋の外には、その入口よりも大きいのではないかと思われるほどの偉丈夫が立っていた。
彼は静かに一礼して部屋に入って来た。
男はアリアから数歩離れた場所で、さっと床へ片膝を着き、忠誠を示すような姿勢をとる。
男は目上の人間を敬うようにその顔を伏せていたが、元々上背があるせいで、窓から差し込む光に照らされて、その表情はアリアからは良くうかがえた。
「リカード。どうしてここへ?」
「……姫様のご様子をと」
リカードと呼ばれた男は、静かに答えた。
アリアは僅かに頬を緩めるが、すぐにまた表情を引き締め直して言う。
「リカード。それは、誰かに命じられたのかしら?」
リカードが「いえ……」と小さく答えると、アリアはわざとらしく小さな溜息をついてみせる。
「ここに来たことが知れたら、彼等に疑心を抱かせかねないと、思わなかったわけではないでしょう?」
「……ええ」
「あなたに懐疑の目が向けば、あなたの立場も危うくなるのです。私と違い、あなたには、今なお地位と名誉があるというのに」
「……」
リカードはアリアの言葉に一切反論することなく、唯々諾々と聞く。
微動だにせず自身の言葉を聞くリカードの様子に、アリアは降参するように静かに溜息をついて僅かに破顔した。
アリアは振り返り、窓の外の夜空で煌々と輝く光の球を見上げる。
「あれを案じて来てくれたのね」
リカードは答えなかった。
「……貴方が来る前まで、私は祈っていました」
アリアは遠い目をしながら独り
「帝国で『魔神』と呼ばれる存在に対してです」
リカードは口を開かず、静かにアリアの言葉に耳を傾けていた。
「つい先日、その行いがこの国を、そして父上と母上を殺したというのに、ですよ」
そう言いアリアはリカードに向き直った。
「愚かな事です。……軽蔑しますか?」
リカードは顔を伏せたまま暫く沈黙を続けたが、やがて「恐れながら……」と前置きし、太く芯のある声で話し始めた。
「魔神ウルカは、ミルド教会の教えにおいてこそ悪神として語られますが、一方で彼の神は、人と亜人を分け隔てなく養い、率い、善政を敷いた優れた神であるとも伝えられています。為政者というものは、負けた側を悪人に仕立て上げ、自らの正当性を説くもの。それが真実であるかどうかは、信じる我々の行いが証明するものです」
リカードの弁舌に、アリアは一瞬驚くような表情を浮かべた。そして、どこか満足したような小さい笑みを彼に向けた。
「……リカード。あなたは強く、勇ましく、慈悲深く、そして賢くもある。この国にとって、なくてはならない存在です。……貴方が戻って来てくれて、本当に良かった」
アリアはわずかに声を震わせながらそう言うと、感情を悟られないようにするためか、振り返って再び窓の外を仰ぎ見た。
彼女は空を走る光をまじまじと見上げ、そして緑光を映して輝くその瞳の中に、決意の光を灯した。
「いまや、私は大罪人の娘です。……しかし幸いなことに、この命永らえ、またかつての民達のために行える事も残っています」
アリアは再度、覚悟を決めるようなゆっくりとした瞬きを経て言う。
「私は、私の祖先や父上、母上達が護って来た、この国と国民、そして亜人達を護り続けたい。その為ならば、例えこの身を捧げることも厭いません」
アリアの言葉に、リカードは驚いたように顔を上げ、そこで初めて彼女を直視した。
何時の間にか、アリアはリカードに向き直り、彼を真正面から見つめていた。
物言いたげなリカードを制するように、アリアは再び言葉を続けた。
「心配は無用です。私は、私のすべき事をするまで。そして、あなたにもまた、あなたにしか出来ない事があるはずです。……リカード。アンテロース家に対する忠義がまだあなたの心に残っているのであれば、……どうか、あなたに今できる事を尽くして、民達を守って下さい。この国にはあなたが必要なのですから」
窓から差し込む光を、後光のようにその身に背負い、アリアはさながら女神のような風格を纏っていた。
笑顔を浮かべる彼女であったが、その精神的な強さで覆い隠した表情の向こう側には、隠しきれぬ恐怖と悲哀が渦巻いているのに、彼女を幼い頃から良く知るリカードは気付いていた。
知っていながら何も言えず歯噛みするしかなかった。
リカードは再び顔を伏せ、了解の意を告げると、立ち上がって部屋を後にする。
部屋の戸を閉める時、リカードはアリアの方を僅かに顧みる。
彼女は窓から差し込む光に向かい、一心に祈りつづけていた。
その肩の向こうで、彼女の輪郭になぞる様に、小さく光るものが流れ落ちた気がした。
それは空の光だったのか、彼女の感情の発露であったのか。
確認する間も与えず、その視線を遮るように扉は無情にも閉じていった。
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