第17話 サティの事情
姫様は賢い。それに、とても慈悲深いお方だ。
これが、最近サティがハーシェル姫について知った新たな一面である。
これまでは、姫様については知らないことがほとんどだった。
言葉のやり取りは最小限の事務的なものしかしたことがなかったし、あまり笑わない方かと思えば、かといって冷たいわけでもない。その姿は、人によってはカイルのように「お高くとまっている」ように見えるのかもしれないが、それともまた違うような気がした。
見知らぬ男に脅され、姫様のお茶に毒を入れてから数日後。姫様に辞職を告げたときのことを、サティは思い出す。
「先日は、大変申し訳ございませんでした……! 死にも値する大罪を犯した私を許してくださったこと、大変感謝しております。しかし、私には侍女として姫様のお側でお仕えする資格がありません。今日で職を辞すことを、どうかお許しください」
床に這いつくばり、サティは頭を下げた。
もう、荷物もまとめてある。
突然実家に帰ってきた娘に、両親は驚くだろうが構わない。これ以上、罪を背負いながら姫様の側でお仕えすることに耐えられなかった。
「顔を上げて」
しばらくして、ハーシェルが言った。
サティはそろそろと体を起こした。そして、ハーシェルの顔を見て驚いた。
姫様は、ただ困ったような顔をしていた。
怒るでも、無頓着なわけでもない。ただ、純粋に困った顔。姫様のこんな表情は初めて見る。
「……やっぱりね。あなたなら、そう言う気がしていたわ」
ハーシェルは深くため息をついた。呟かれた言葉は、ひどく残念そうな響きをともなっていた。
「あのね、前にも言ったけど、私は本当に気にしてないのよ? もしあなたが男の命令を断っていたら、その場で殺されていたかもしれない。だけど、あなたが素直に従ったおかげであなたは死なずに済んだし、私も毒を飲んでいない。むしろ結果オーライだと思っているくらいよ」
サバサバとした口調で言うハーシェルは、本当に何も気にしていないようだった。サティは「なんて心の広い方だろう」と感嘆すると同時に、「一国の王女が、こんなに甘いことを言っていて大丈夫だろうか」と少し心配になる。
「あなたの気持ちも分からなくはないわ。だけど、その罪はあなたが背負うべきものじゃない。もしあなたの心が許すなら、私はこの先もあなたに側にいてほしいんだけど……だめかしら?」
ハーシェルは不安そうな瞳で、ちらりとサティを見上げた。
サティはたじろいだ。
決意を固めて、ここに来たはずだった。しかし姫様にここまで言われては、さすがに迷いが生じてしまう。
「しかし、私がここにいたら、また姫様にご迷惑をおかけしてしまうかもしれません。また同じようなことをやってしまうかもしれませんし、そうでなくても、私には姫様のお役に立てる自信がありません。……それでも、よろしいのでしょうか?」
サティはおずおずと言った。
ハーシェルの口元がちょっとだけ笑った。サティが初めて見る、姫様の笑みだった。
「言ったでしょう? あなたのことは、私が守る。それに、自分の身は自分で守るって、母様が死んだときに決めたの。あなたが少々のヘマをしたくらいで、私は傷つきやしないわよ」
固まっていた気持ちが、ゆっくりとほどけていくのが分かる。
本当は、もっと姫様のことを知ってみたかった。
最近少しだけ、姫様のことが分かってきたような気がしていたのだ。それにまだ、十分な誠意をお見せできていない。これからもその時間があると思うと、サティは嬉しさのあまり胸が熱くなった。
「――よろしく、お願いします」
目に浮かんだ涙を見られないよう、サティは深く頭を下げた。
ハーシェルは一つうなずいてから、あっ、と思いついたように声を上げた。
「でもどうせ荷物まとめちゃったんなら、一度実家に帰ってゆっくりしてきたら? そうね、十日間くらい」
「えっ、十日もですか?」
サティは思わず驚いて言葉を返した。
それは、サティの気持ちを気遣ってのことだった。あんなことがあった後だから、まだ城を一人で歩くのは怖いだろうとハーシェルが気を利かせたのである。サティはハーシェルの心遣いに甘んじて、十日間の休養をとった。おかげで気持ちの整理もつき、心を入れ替えて仕事に復帰することができたのである。
――それから約一ヶ月と少し。
サティがハーシェルのもとに戻ってきた当初、王宮は大騒ぎになっていたが、それもようやく落ち着いてきた。帰ったら姫様が怪我を負っているわ、刺客が入り込み、さらにその刺客が地下牢から逃げたわ……たった十日の間にこんなに色々なことが起こるものなのかと、サティは驚くばかりである。
サティはハーシェルと一緒にアグレシア国に来ていた。お忍びで出かけるハーシェルが連れて行く侍女はたった一人。そこにサティが選ばれたので、信じられないほど光栄なことである。
王女の同行を知っているのは、使節団団長であるヤーコフ大使官と、護衛隊、それにルカとサティだけである。
サティは常にハーシェルの近くにいて、身の回りの世話をする予定だったというのに、アグレシアに着くやいなや事情を知らない副使官によってあっけなく引き離されてしまった。サティは今、どうやったらハーシェルと合流できるか必死に考えながら、到着先の大使館で献上品の振り分け作業に加わっていた。
(ああ〜っ、どちらにいらっしゃるのですか姫様。せめて居場所が分かれば、すぐにでもここを抜け出して駆けつけるのに……)
もんもんとしながら、サティが花瓶を指定された場所に下ろしている時だった。
誰かが、部屋に入ってきた。
女性ばかりの作業場で、やわらかな色の髪に整った顔立ちの若者の姿は、そこだけ光が射しているかのように目立っている。何かよくないことがあったのか、少し顔色が悪い。
突然現れたきれいな若者に女性たちは色めき、作業の手を止めてそわそわと内緒話を始めた。
若者の様子に、サティはやや不安になる。入り口の前で部屋を見回していた若者は、サティの姿を目に留めると早足でこちらに近づいてきた。
「やっと見つけた。まったく、着いて早々ここまでバラバラになるとは思わなかったな。ヤーコフ大使官はどこで油を売ってるんだ?」
「どうしたの、ルカ」
イラついたように眉間にしわを寄せていたルカは、ちらりと周囲に目をやった。
「ここでは言えない。一緒に来てくれ」
ルカはサティの手をとった。ずい分焦っているようだ。
どこからか「キャーッ」と黄色い声が上がる。後で変なうわさにならないだろうかと、サティは心配になる。だが何も打開策を思いつかぬうちに、サティはルカに引かれてさっさと部屋から連れ出された。
部屋を抜け、廊下を抜け、屋敷を抜けて外にまで出た。
さすがにもういいだろうとルカの手を振りほどくと、サティは腕を組んでルカをにらみつけた。
「ちょっと、いったいどうしたって言うのよ。っていうか、姫様はどうしたの? あなたと一緒にいるんじゃなかったの」
サティがハーシェルと離れるのは予想外のことだったが、それでも必ずルカが側についているからこそ安心できたのだ。それなのに、肝心のルカが姫様の側にいないとは、いったいどういうことなのか。
ルカは目に見えて動揺していた。ルカをこれほどまでに分かりやすく動揺させるできごとは、そうそうない。
「ああ、そのことなんだが、実は――」
突然、サティはルカが何を言おうとしているのか察した。それは、サティが想像できる限り最悪の事態だった。
「ちょっ、ちょっと待って。まだ言わないで。私、心の準備が――」
しかし、ルカにサティを待つ気はないようだ。
サティの覚悟が決まらぬうちに、ルカは残酷にもはっきりとその言葉を口にした。
「姫が、いなくなった」
――ああ、これが夢であればいいのに。
ショックで呆然とする中、サティは心の底からそう思った。
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