◇ 幕間
――時は二年前。ハーシェルの母、セミアが亡くなって間もない頃に戻る。
アッシリア王宮、ある塔の一角。
そこでは、六名の神官が円形の台座を囲んでいた。
頭からはそれぞれが白い衣をすっぽりと被り、すそを波打たせている。数本のろうそくのみが灯る暗い塔内で、主に神官たちを照らしているのは、台座の中央にある筒状の結界だった。
台座中央の階段状に盛り上がったところ、すなわち結界の中心にはほのかに光を放つ瑠璃色の石があった。その名はラピストリア、別名『王の石』である。
「聞いたか」
「ああ、聞いた」
「かの国の王妃が死んだとな」
「しかし城に乗り込むとは、あの王にしてはなかなか大胆なことをする」
「だが仕方あるまい。あの強力な封印を解いた者が、石とともに敵国に存在しているというのは、まるで開いた獣の口の中にいるようなもの。いつその牙が閉じられるかと思うと、気が気ではなかった」
「これでようやく、肩の荷がひとつ下りたな」
神官たちが互いにうなずく。
我が国の王も、だてではない。大神官様も、ご安心なされたことだろう。ひとまず、牙の中は脱しましたな。
神官たちの間から安堵の息がもれる。
「だが、まだ十分ではない」
一人の発言によって、ゆるんだ空気は霧のように立ち消えた。
静まり返るなか、何かを察したように別の神官がおもむろに口を開いた。
「姫か」
「そうだ。幸い、ナイル王はパルテミア王族の出ではないが、姫はその血を半分受け継いでいる。つまり、ナイルは石を使えるということだ」
「だがまだ子どもだろう。確か十二かそこらではなかったか」
「だからと言って油断はできぬ。危険の芽は摘んでおくに限る」
「まあ、そのあたりのことも含めて、これから大神官様がお話になられるだろう。そろそろ王との会談も終わる頃。まもなくご到着されるはずだ」
その時、キィ、ときしんだ音がした。
皆はそろって前方を振り返った。部屋の扉が開いている。しかし、その向こうに立っていたのは意外な人物だった。
「スコーピオン神官長。遅れるとうかがっておりましたが」
奥に立つ神官が、やや驚いたような顔で言う。
この塔には、神官の中でも最高位に属する石守り神官七名と、大神官しか入ることを許されていない。しかし、スコーピオンの背後に控える二名は見たことのない顔ぶれだった。
何かが、おかしい。
塔の中にぴりりとした緊張感がただよう。
「全員、そろっていますね」
スコーピオンは、骨張った白い顔で皆を見回した。
髪はあまりに黒すぎるせいか、紫色をおびた光沢を放っており、糸のような目元には一本のしわが刻まれている。年齢の割には老けた顔だちをしているが、神官長としては若すぎるくらいである。
表情を変えぬまま、スコーピオンは冷えた声で言い放った。
「これより、石を解放する」
あまりに突飛な発言に、その場の誰もが沈黙した。
ややあって、一人がゆっくりと言葉をつむいだ。
「……何を、おっしゃっているのですかな?」
「結界を解くと言っているのです。今ここにいるのは、私を含めて七名。術に必要な人数は満たしているでしょう」
「そういう問題ではありません! 何のために、我々石守りが存在していると思っておいでか。我が国の祖先は、石はもう使わないと誓った。代々守り抜いてきた誓いに、そう簡単にそむくわけには参りませぬ」
瞳の奥に静かな炎をたたえ、老齢の神官は重い口調で述べる。
スコーピオンは小さく笑った。
「誓いが聞いてあきれる。いったい、いつまで過去の戒めに縛られているおつもりか。――以前とは状況が違うのです。石そのものの封印は、五年前に解けた。もし今、ナイルが石を使ってこの国を攻めてきたらどうするのです? みすみす滅ぼされてもいいというのですか」
思い当たる節があるのか、神官はいくらか言葉に詰まった。
「それは、私も考えぬわけではない……。確かに、ただでさえ兵力の少ないアッシリアに石の力は必要だ。だが、その判断を下すのはあなたではない。まずは大神官様に進言し、皆で話し合うというのが筋というも――」
「誰かわしを呼んだかね」
やわらかで、それでいて底から響くような力強さのある声が聞こえた。
皆は一様に声の主を振り返った。そして扉口にリブラ大神官が立っているのを目にすると、目を伏せて敬礼の姿勢をとった。
「大神官様」
「いったい何を騒いでおる。神官たるもの、そうたやすく感情を表に出すものではない。基本であろう」
たっぷりとした純白の衣をたゆたわせ、大神官は穏やかに神官たちをたしなめた。雨雲の色をした眉はぴくりとも動かない。
神官たちは、いくらか罰の悪そうな表情になった。困惑した顔、怒りに満ちた顔を互いに見合わせる。
「申し訳ありません。しかし、これが平静でいられましょうか。――スコーピオン神官長が、石の結界を解くとおっしゃるのです」
「なんじゃと?」
大神官はさすがに眉をしかめた。
「それはスコーピオン、異な事を。石を封じ、守り抜くことが我らの役目。なぜ、突然そんなことを申すのじゃ? そなたが石を使えるわけでもあるまいに」
「もちろん、私は使えませんよ。使えるのなら、とっくに試しています」
大神官は一時、返す言葉を失った。皆も、初めて目にしたような顔でスコーピオンを見つめる。
スコーピオンは、おっと、と軽く口に手を当てた。
「少し言葉が過ぎましたね。今の発言は忘れてください。一神官の戯れ言です。――ところで大神官様、先ほどまで王と会われていたとか。どのようなお話をされてきたので?」
突然の話題の転換に、大神官は意表を突かれたように目を少し開いた。長いひげをなでつけ、くぐもった声で答える。
「これからのことじゃ。神降ろしの儀の日取りや、来年の見習い登用のこと、それに石についてのこと」
「私がお聞きしたいのは、まさにその石のことです。王は、なんとおっしゃっていましたか?」
大神官は黙った。琥珀色の瞳の気配が、急に深く険しいものへと変わる。
「口が過ぎるぞ、スコーピオン。王神会談は、王と大神官のみで行われる神聖で内密的なもの。その結果はわしから皆に伝えるが、その内容にまでそなたが口を挟むことではない」
「おや、何か隠したいことでもおありで? なに、私がお聞きしたいことは一つだけですよ」
めったに表情を崩さない大神官の顔が、わずかにゆがむ。
一方で、機嫌がいいのか、どこか余裕のある様子のスコーピオンは、細い目の奥に怪しい光をちらつかせた。
「王はこうおっしゃいませんでしたか? 『石の結界を解け』、と」
あたりは水を打ったように静まり返っていた。大神官の返答に耳をすませ、全員が息をひそめる。
大神官は硬い表情のまま何も言わなかった。
しかし、皆が返事を待ち続けていると、やがて折れた様子でしぶしぶ口を開いた。
「確かに、そうおっしゃった」
途端、その場は一気にざわめき声であふれた。驚き、疑念、そしてわずかな恐怖。神官たちが口々に騒ぎたてる中、スコーピオンはほとんど表情を変えることがなかった。むしろ、その口元はかすかに微笑んですら見える。
「じゃが、わしは反対した!」
ざわめきに押し流されまいと、大神官の声は大きかった。
「結界を解くことは決してまかりならぬ。その先に待っているのは破滅のみ、二百年前の歴史を繰り返すことになるだけじゃと。わしの言葉に、王は納得してくださった。よって、この件に関してそなたらが懸念するようなことは何もない!」
「そうですか。それは残念でしたね」
スコーピオンが後ろにひかえている男に視線を流すと、男はスコーピオンの前に進み出た。
男は腰の剣に手を添えた。かと思うと、なんのためらいもなく剣を振りかぶった。
皆、一瞬何が起こったのか分からなかった。
血しぶきが、台座の縁に赤く飛び散る。
大神官は少しだけ驚いた表情をしていた。星を読んで得た未来が、予測とは少しはずれていた。ただ、そんなふうに。
老体が、床に転がった。
純白の衣はみるみる赤に変わっていった。動かなくなった身体には神聖さも、生命力もまったく感じられない。それはもはや、ただの死体でしかなかった。
時が止まったようだった。誰も微動だにせぬなか、スコーピオンは腕環に飛び散った血を布でぬぐった。
「さて、これで反対する者はいなくなりましたね。確か、大神官が何らかの事情で次の大神官を指名できなかった場合、次期大神官となるのは神官長。つまり、私ということでよろしいですね」
誰も、何も言えなかった。
目を見開き、かすかに口を開け、ぼんやりと大神官の体に血が広がっていくさまを見つめる。
最初に金縛りが解けたのは、一人の老いた神官だった。神官はハッと正気にもどると、激しい形相でスコーピオンをにらみつけた。
「この卑怯者! そなた、自分が何をしたか分かっておるのか! ただでは済まされぬぞ」
老齢の神官は、地が割れんばかりに叫んだ。
丁寧な手つきで腕環をみがくスコーピオンは、平然としたものだった。
「いいえ、ただで済みますよ」
ふたたび金の光沢を取り戻した腕環から目を上げ、スコーピオンは言った。
「みなさん、何か勘違いしておられるようですね。今回のことは、なにも私の独断で行っているわけではありません。――これは王命です」
「お、おうめ――」
老齢の神官はがく然と口を縦に開ける。他の者も、まったく同じ表情で固まっていた。
「もともと、こういう手はずでした。石は王と大神官、二人の合意のもとでしか解放できない。確かそういう誓約でしたね。もし、王が説得を試みても大神官が反対を続けるようであれば、殺せとのご命令でした」
過去の歴史に近い、つまり高齢の神官ほど、古くからの言い伝えを重く受けとめ守り続けようとする気質が強い。神官たちの中でも特に老齢である大神官が、意志を曲げる可能性は初めから低かった。
「ああそれと、」
スコーピオンは思い出したように続けた。
「五年前に封印を解いた者ですが、死んでいませんよ。封印を解いたのはナイルの王妃ではなく、姫の方だったのですから。つまり、我々の問題は何も解決していないということです」
もっとも、リブラ大神官はそのことを我々に伝える気はなかったようですがね、とスコーピオンは言葉をつけ足す。
神官たちは絶句した。たび重なる衝撃に、言葉を返す余裕がある者はいなかった。
「よって、」
スコーピオンは声を大きくした。
「これより、我々は石の結界を解き、アッシリアは石の力を借りて周辺国への侵攻を開始します。アッシリアが十分な力をつけた頃には、王妃と同様、ナイルの姫も死んでいることでしょう。これが、我が国の今後の方針です。異論がある者は?」
スコーピオンの言葉とはいえ、これは王命に他ならない。
王命に反対できる者などこの中に、いや、この国にいるはずもなかった。
「よろしい。それでは、これより解放の儀をとり行います。各自配置についてください」
神官たちは、円形の台座を等間隔に取り囲んだ。スコーピオンも、その輪に加わる。
台座の中心では、瑠璃色の石が淡い光を発していた。その周囲を取り囲む、白い光の結界に手をかざし、皆は目を閉じた。
ひとりごとのようなつぶやき声が、さざ波となって部屋を満たす。それはバラバラな言葉を唱えているようで、同時にみなで一つの言葉を紡いでいるような響きでもあった。
そして一つの言葉が紡ぎ終わるごとに、結界の側面からは、目に見えない円形状の波紋が放たれた。それは電流のように結界から台座の上を伝わり、神官たちの外側へと放たれた。波紋が外側へ抜けるたびに、部屋の空気がわずかに振動する。
その過程が何度も繰り返され、結界の光は徐々に薄くなり始めた。結界が薄くなるにつれ、瑠璃色の光は強さを増していく。
深い青の輝きが、瞳に光をやどしたスコーピオンの顔を照らし出す。その口元は、喜びを抑えきれないように薄くゆがんでいた。
(※結界を張ったときの話については、第1部 第11話「二つの石」を参照)
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