第13話 地下牢へ
* * *
「ちょっと姫、私より先を歩かないでください」
「どうして? 経路と警備配置なら、すべて頭に入ってるわ」
時おり松明の炎が道を照らすだけの薄暗い城内で、壁に伸びた二つの影がひそひそと話をする。背が高い方の影は暗褐色のマント、それよりひとまわり小柄な方の影は深緑色のマントに身を包んでいる。
――重罪人用の牢はどこにあるの。
そのひと言を口にしてから、ルカとは随分もめた。
口元に形のよい笑みを浮かべ、いっさいの言葉を発しなくなった時には恐怖すら覚えたものだ。しかし結局、一人で勝手に行動されるくらいならと、ルカの方から協力を申し出たのである。
『こういうのはどうでしょう』
羽ペンを片手に、ルカが言った。机の上には書きかけの城内図がある。
『姫はこの高い塔のところで、私がここから出てくるのを待つ。私が現れたら、姫は下にいる私に向かって、近くに人がいないかどうかランプで合図を送る。そして私が無事、牢からあの少年を救出することができれば、同じ場所で今度は私が姫に合図を送る』
ルカはペンを紙の上で滑らせながら言った。ルカの現在地をトン、と指してから、最後にハーシェルがいる塔をトントン、と二度つつく。
向かいの寝台に腰かけたハーシェルは、半眼になってルカを見た。
『……それで私が納得すると思ってるの?』
『いいえまったく』
ルカは表情を変えずに言った。どこか残念そうに見えるのは、おそらく気のせいではない。
『言ってみただけです。しかし、危険だとは思わないのですか?』
今さら何を言っているのか。
ハーシェルがいぶかしそうな顔をすると、ルカは言葉をつけ加えた。
『誰かに見つかることがではありません。あの少年が自由になることで、また刃を向けられるかもしれない。少年に殺されそうになるかもしれない。そうは思わないのですか?』
ハーシェルは少し考えてから言った。
『たぶん、それはないと思う』
言葉のわりに、その声は自信に満ちている。目が覚めたような顔をして驚くルカに、ハーシェルはかすかに微笑むだけだ。
それから、試しに『牢破りは今夜でいいわよね?』と言ってみたが、ルカには『その体でどうやって動くおつもりですか!』と一蹴されて終わった。……当然といえば当然である。
そういうわけで、計画を実行に移したのは、ルカの協力を得てから三日後のことだった。ウィルが捕らわれてからは一週間後ということになる。
夜明け前の城は、息をひそめたように静かだった。床石を小さく打つ靴の音でさえやけに響き、誰かに聞かれはしないかとひやひやする。しかし、それ以上に心配なのはウィルの体のことだった。
休みなくうずく肩を無視して早足になっていると、「姫っ」と後ろからルカの鋭いささやき声が飛んできた。
「なによ、体なら平気――」
文句を言うため振り向こうとすると、ぐいっ、とそばの横道に引き込まれた。
顔を上げると、思ったよりルカの顔が間近にあり驚く。唇の上に人差し指を当て、筋の通った鼻先は角の向こうを指し示していた。
見ると、ちょうど見まわりの兵士が廊下の先に現れたところだった。隠れるのがあと少し遅ければ、完全に鉢合わせしていただろう。
じっと二人で身をひそめていると、やがて兵は壁の向こうに姿を消した。
ルカはあっという間にいつもの距離感に戻った。
「だから、後ろを歩いてくださいと申し上げているんです。先を急ぐのも結構ですが、周りへの注意を怠らな――」
何気なくハーシェルに視線を戻したルカは、急に言葉を切った。
「大丈夫ですか」
ハーシェルの額はじんわりと汗ばんでいた。
特別暑い夜でもない。久しぶりに動いたせいで、体に負担がかかったのだろう。肩の痛みも上乗せされ、体が自分のものではないように重く感じていた。
「別に」
短く答えると、ハーシェルはルカを押しのけるようにして先に進んだ。それ以上とどまっていると、ルカに計画を中止にされそうだった。
階段を下り、通路のなかばにある扉を開けると、そこは厨房だった。
昼間はたくさんの食材と料理でごった返しているが、今は磨き上げられた台と調理器具が並ぶばかりで閑散としている。
その先に、今入ってきた扉とは別に簡易的な戸があった。
開けると、中は狭い通路になっていた。壁際には取っ手の欠けた大鍋や古びた箱など、すぐには使わなさそうなものが積み重ねられている。
荷物の間を進んでいくと、また戸があった。戸の前に陣取った箱を隣によけ、ルカは取っ手を引いた。
その瞬間、ひゅうっ、と生ぬるい風が吹き込んだ。
暗闇のなか、木がさわさわとゆれる。戸の外に出ると、ハーシェルは目をすがめてそこにあるものを見上げた。
「よくこんな抜け道知ってたわね」
「たまたまですよ。前に、ここから兵舎の方の厨房に荷物を運んだことがあったので」
そこは東塔の前だった。
伸びた草に囲まれてひっそりと立つ塔は、時から置いてけぼりを食らったようにしてそこにある。昔は神殿の一部として使用されていたが、今では滅多に使わないものを詰め込んだ物置となっている。――というのが一般的な認識だが、その実態は少し違うらしい。
「でも、神殿の中に牢をつくるなんて、ちょっと不謹慎じゃない? 当時の神官たちは、いったいどういう考えでそんなものを置いたのかしら」
ルカの後ろを歩きながら、ハーシェルは尋ねた。
神殿に罪人を招き入れる。それは、清浄さが不可欠とされる神域を汚しているとは見なされないのか。
ルカは答えた。
「神殿だからこそ、かもしれません。神の御水は人の心を清めると言いますし。それに、牢の設置はその時の王が内密にお決めになったことで、当時はその存在すら知らなかった神官も多かったそうですよ」
やがて時代の流れとともに神官は必要とされなくなり、今では王宮に神官を置くこともなくなった。せいぜい祝言や祭事の際に、形ばかりに外部から呼び寄せる程度である。
「神官がいなくなってから神殿としての機能は失いましたが、地下牢はそのまま残したそうです。もともと人に知られた場所ではなかったですし、色々と都合がよかったのでしょう。……あれ、」
「どうしたの?」
ルカは塔の扉に鍵をさしたところだった。今朝、上官の部屋からこっそり拝借してきたものだ。
鍵を回すことなく、取手を引くと塔の入り口は難なく動いた。キィ、と爪で引っかいたような音を立てて、扉が半開きになる。
「開いてる……」
「先に入った牢番が、鍵を閉め忘れたんじゃない?」
「いえ、牢番は別の入り口を使うので、ここは通らないはずです」
月明かりの届かない建物内は、完全な暗闇だった。
一歩足を踏み入れると、ひんやりと周囲の気温が下がる。ルカがランプを持った腕を伸ばすと、闇の中に名前も分からない楽器や、衣装箱がぼんやりと浮かび上がった。
「本当にただの物置みたいなのね」
隣に積まれた麻袋に目をやりながら、ハーシェルが小さくつぶやいた。
「実際そうですからね。牢自体、長い間使われていなかったようですし」
ルカはランプを壁際の床に下ろすと、何やら手で周囲の壁石を探り始めた。そしてある箇所で動きを止めた。
「ちょっと姫、もう少し下がってください」
「え」
よく分からなかったが、言われるがままに足を一歩後ろに引く。
その時、どん、とルカが壁を拳で強く叩いた。
すると、足元で何か物音がした。
下を見ると、ハーシェルのつま先の向こうで床の一部が浮いている。ルカが床板を引き上げると、奥に向かって階段が続いていた。
ハーシェルは目を丸くして驚いた。
「もう一度言っておきますが、くれぐれも私より先に行かれませんよう。いいですね?」
こちらを振り向き、ルカが釘をさす。ハーシェルは「ええ」とうなずいた。
ルカに続き、ハーシェルは階段を下りた。
腰が床下に沈み、次いで頭が闇に包まれた。ランプの先は暗闇で、終わりの見えない階段は妙に長く感じる。ようやく足が底に着くと、その先は馬車一台がぎりぎり通れるほどの通路になっていた。
等間隔に並ぶ松明が、冷たい石壁を照らす。気温はさらに下がり、松明の炎があっても肌寒いくらいだった。
それにしても、人の気配ひとつない。
普通、ここに来るまでに見張りの一人や二人くらい出くわすものではないだろうかとハーシェルは疑問に思ったが、どうやらそれはルカも同じようだった。
「誰もいませんね」
「ええ。でも、鍵が開いてたってことは、誰かはあの扉から入ったはずでしょう?」
「はい。ですが、それが必ずしも今日とは限りません。もっと前に誰かが開けて、締めずに放置した可能性もあります。しかし、ここまで誰にも会わないというのはやはりおかし――」
突然、ルカが足を止めた。
ちょうど角を曲がりかけたところだった。一瞬目を見開いたルカの表情が、みるみる険しいものへと変わる。
「姫、こっちへ来ないでください」
「なんでよ」
「いいから――」
ハーシェルはルカの隣に並んだ。
最初に目に飛び込んだのは、仰向けに倒れた兵士の瞳だった。天井を見つめる大きな瞳は、ガラス玉のように動かない。胸の傷からは、まだ固まりきっていない血がどろりと流れ出ている。
そのすぐ隣には、もう一体の兵士の死体が同じようにして転がっていた。さらに目を上げると、もう一体も。
「いったん戻りましょう。ここにいるのは危険です」
片手を伸ばし、ハーシェルを死体から遠ざけながらルカが言う。
一瞬頭が真っ白になったハーシェルだったが、すぐにうずを巻くような勢いで脳が急回転し始めた。
あの開いていた鍵だ。あそこから、誰かが侵入したのだ。この地下牢に。
いったい誰が? 何の目的で?
――ウィルはどこ。
「姫っ!」
ハーシェルはルカを押しのけて走り出した。
通路は一本道だったため、迷うことはなかった。石畳を打つ靴音が、冷たい壁に反響して高く降りかかる。壁に突き当たるたび、ハーシェルはよろけるようにして角を折れた。
「待ってください!」
ルカの声が後方で響いた。
必死の足音も、今のハーシェルには追いつけないようだった。松明の炎が、迫りくるように何度もハーシェルの頭上を飛び抜ける。再び壁に突き当たった時、その先に道はなかった。代わりにあったのは、鉄格子で仕切られた古い牢だった。
全身で息を切らしながら、ハーシェルはぶつかるようにして鉄格子をつかんだ。ガン、と音を立てて鉄の棒が振動する。
「姫、大丈夫で――」
後から追いついたルカが、牢を見て口をつぐんだ。
何度も拷問を受けたのだろう、天井からは太い鎖がつり下がり、壁には赤い血が飛び散っている。さらに牢の入り口から通路にかけて、血が点々と落ちていた。それはまだ新しく、松明の炎を反射して生々しく光っている。
ルカは無言でその場にかがむと、床に転がった錠を拾い上げた。
「誰かに先を越されたようですね」
ハーシェルは額を鉄格子に強く押しつけて、立ち尽くしていた。その目は床の生々しい赤から離せずにいる。
牢の扉は開いていた。
中にはすでに、誰もいなかった。
*近況ノートに裏話をつけ加えました(12.5話 共犯者)。
牢に行くことを決定するまでの、ルカとハーシェルの話し合いシーンです。興味がある方はご覧ください。
→https://kakuyomu.jp/users/w_shieru/news/1177354054894101483
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