第15話 はかりごと
「……生きておったか」
カンファスがつぶやく。
その目には何の感情も映してはいない。いてもいなくてもさほど変わらない、置き物か何かを見ているような目つきだった。
隣から舌打ちの音が聞こえた。
ウィルは、今しがた気づいたようなしぐさで目を上げた。
「おや、これはモーリス将軍。帰っておいででしたか」
「なんだ、そのざまは」
モーリスは嫌な顔つきを隠そうともしていなかった。ウィルのことを、ゴミのかたまりとでも思っているようだ。
ウィルは静かに目礼した。
「すべて、わたしの不徳のいたすところです。不快な思いをさせてしまったのであれば、申し訳ありません」
礼を尽くした態度すらも小馬鹿にするように、モーリスは、ふん、と鼻を鳴らした。
「狼にでも喰われそこなったか。まあ、本来下賤の身のお前にはそのくらいがちょうどいい。賎民街を歩いていても、誰も気に留めんだろう」
賎民街とは、王都の裏側にある最下層の貧困地帯である。
領土が小さいなりに、それなりの平和を保ってきたアッシリアだが、現国王になってから賎民街は徐々に広がりを見せていた。税の取立てが厳しくなったからだ。目的は主に、軍の増強のためである。
――と、カンファスが制するように片手を挙げた。
「そのくらいにしておけ、モーリス。もう気は済んだだろう。私はそこの少年と話があるゆえ、お前は下がってよい」
カンファスは手をひらひらと振りながら言った。
一瞬、意表を突かれたように目を開いたモーリスだったが、すぐに真顔に戻ると胸に手を当てた。
「かしこまりました」
モーリスは一礼すると、王の前を引き下がった。
すれ違いざまに、モーリスはちらりとウィルを見やった。ウィルも、無言でモーリスを一べつする。
灰色の瞳は、分厚い曇天の空のようで底が知れない。だが、今はただ、静かにそこにたたずんでいるだけだった。
モーリスはつまらなそうに小さく舌打ちすると、衣をひるがえし、部下と共にさっさと扉から出て行った。
「お前もだ、スコーピオン。しばらく出ておれ」
カンファスは背後の男に声をかけた。
スコーピオンは優雅に腰を折って敬礼した。
「おおせのままに、陛下」
すっと影が遠のくがごとく、スコーピオンは後方の扉から音も立てずに去っていった。
広間は、王と王子の二人きりとなった。
無言の中、二人が向かい合う。目、鼻、口、髪の色。どこをとっても、二人はまったく似ていなかった。王と賎民街の孤児といった方が、よほどしっくりくる。
肩肘を椅子に預け、カンファスは冷めた目でウィルを見下ろした。
「わざわざそなたを助けに出向くとは、よほどの変わり者もいたものだな。まあ、そなたが死のうが生きようが、私にはどうでもいい。――して、ナイルの姫は死んだか?」
いくらかの間が空いた。床に目を伏せたまま、ウィルはゆっくりと言った。
「いいえ。生きております」
痛いほどの沈黙に、ウィルはピクリとも動かず王の返答を待っていた。
カンファスはふむ、と考えるような表情をした。あごに手を当て、こしこしと無精ひげをこする。
「そうか。まあよい」
ウィルは思わず驚いたように顔を上げた。
カンファスはといえば、特に怒った様子もなく平然とした面持ちをしている。てっきりとがめられると思っていたウィルには、どうにも理解できない反応だった。
「さて、そなたにはいくつか話がある」
カンファスは語り始めた。
最初は落ち着いた様子で王の言葉を聞いていたウィルだったが、徐々に顔色が悪くなっていった。手の内側に、じんわりと汗が染みだす。
「――と、いうわけであるから、そなたは離宮にもどりゆっくり養生するがいい。こちらのことは気にしなくてよい」
ウィルは何も答えなかった。伏せられたグレーの瞳は微動だにせず、薄く緊張の膜が張っている。
「その任務、わたしも同行させていただけませんか。どうか名誉挽回のチャンスを」
「だめだ」
カンファスは切って捨てた。
「次の命まで、そなたに用はない。去れ」
ぴくり、と膝についた手が震える。ウィルはしばし沈黙したのち、敬礼した。
「失礼します」
立ち上がり、ウィルは王に背を向けた。
扉に向かうその表情は、入ってきたときとほとんど変わっていない。マントの下の左手は、かたく握りしめられていた。
広間から出たモーリスはいらついていた。
廊下を進むと、見覚えのある男が一人たたずんでいる。白いおもてにひっそりと黒の薄布をたらし、微動だにしないその姿は、夜中であれば幽霊か何かと間違われたかもしれない。
一瞬嫌そうな顔をしたモーリスだったが、すぐに無視を決め込むと男の前を素通りした。男は自然な動作で後ろをついてきた。
二人は無言で城の中を進む。しばらく経って、男が後ろから声をかけた。
「何かご不満のようですね」
スコーピオンが言った。
前を向いたまま、モーリスは「あたりまえだ」と言葉を吐き捨てた。
「石を取られた。これでは戦ができぬ」
「一時的なものでしょう。その時が来れば、必ずや王はあなた様に石をお返しします。これまで戦を避けてきた小国が、急に次々と戦争を仕掛ければ、何かあるのでは他国が疑うことでしょう。王の判断はごもっともです」
スコーピオンは何食わぬ顔で言った。
柱の影と、モーリスの影が重なった。
周囲にひと気のない中、モーリスは足を止めてスコーピオンを振り返った。
「お前はいったいどっちの味方なのだ」
「もちろんあなた様ですよ、王弟陛下」
腹立たしげに眉をひそめるモーリスに、スコーピオンはうやうやしく頭を下げた。
「あなた様以外の人間から見れば、私は王の忠実なしもべでしょう。王も私を国でもっとも信頼なさり、常にそばに置いてくださっています。しかし、私の心は常にあなた様のものです。慎重なだけの王では、この国は発展しない」
あなたこそが、この国の王にふさわしい。
スコーピオンが静かに言葉を締めくくる。
モーリスは鼻を鳴らした。
「そんなことは分かっている。あいつの臆病さには、もううんざりだ。私より一年早く生まれたというだけで、ずい分とえらそうになったものだ。上から見下ろされるだけで吐き気がする」
モーリスは苦々しく悪態をついた。みにくくゆがんだその表情は、王の前では決して見せないものだった。
「しかし、王のお前への信頼もたいしたことないようだな。現に、お前も一緒に部屋を追い出されているではないか」
王があの小僧――ウィリウスに何か任務を与えていることは知っていた。しかし、その内容はモーリスには知らされていない。部屋を追い出されたということは、この男も同じということだろう。
「ご存知のように、王は大変用心深い性格でいらっしゃるので。人に話さない事柄も多いのでしょう。しかし、知らされていないことと、知らないことは違います」
さらりと吐いた言葉の下に、この男の本性が見えた気がした。つまり、自分で調べたということだ。
スコーピオンは細い目をわずかに見開いた。まぶたの間から、エメラルド色の瞳がのぞいた。
「王は、第四王子にナイルの姫を始末させようとしているようです」
「ナイルの姫を?」
モーリスは眉をつり上げた。
「そんなもの、『死霊』たちにやらせればよいではないか」
死霊とは、アッシリア王にのみ仕える暗殺集団である。
その人数や顔ぶれは、王弟のモーリスですら知らない。すべてを知っているのは王、それに『死霊』の幹部のみである。国や貴族社会にとって不都合な者の死の多くは、『死霊』がからんでいると言われている。
石の封印を解いた、ナイルの姫を始末するのは理解できる。だが、それをたかが一人の少年に任せることに意味があるとは思えなかった。
モーリスの疑問をくみ取り、スコーピオンは答えた。
「なんでも、自分で志願したとか。末の王子が考えることはよく分かりませんね。王からすれば、運よく成功すればそれでよし。もし失敗して囚われても、身分を明かせば確実に死刑。口を割ることはできず、情報がもれる心配もありません。たとえ死んだところで、『捨て子』のことなど気にする者もいないでしょう。つまるところ――」
「ただの捨て駒」
モーリスが言葉を引き継いだ。
二人は無言で視線を交わす。スコーピオンは肩をすくめた。
「運よく一命はとりとめたようですがね」
「運悪く、な。まあ、あんな小僧のことなどどうでもよい。それより、こういう時のために、お前が用意してあった石があっただろう。取り替えておけ」
スコーピオンは眉を上げた。
「まさか、勝手に進軍なさるおつもりですか? 罰を受けますよ」
「これから死ぬ予定のやつに、何を言われようがかまうものか。それに幸い、例のものは取られていない。バレない程度に使うくらいなら支障はないだろう。それとも、このまま石が返ってくるのをおとなしく待ってるか?」
じろり、とモーリスはスコーピオンを見やった。
ひかえめな物腰から、一見して慎重派に見えるスコーピオンだが、その反面やることは派手好きだ。モーリスには断られない自信があった。
案の定、白い彫像のようなおもてを上げたスコーピオンは、無感情な唇にうすら笑いを浮かべた。
「いいえ、問題ないかと」
「ならさっさと交換しておけ。やるなら早い方がいい。――あっちの計画の方も順調だろうな?」
モーリスは探るような目つきになったが、スコーピオンはいたってすまし顔で答えた。
「ええ。もう終わっている頃かと。『死霊』ほどではないにしろ、私の配下たちも優秀ですから。――今ごろ、第二王子は天神アシュールのもとへ向かわれていることでしょう」
神のお導きがあらんことを。
官服のそでを平行に重ね合わせ、スコーピオンは神妙な顔で祈りをささげた。
殺した張本人がよく言うぜ、とモーリスはせせら笑った。
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