第6話 真夜中の侵入者
* * *
人々が寝静まり、地上が厚い闇に閉ざされる頃。
城壁の片隅で、暗闇をぬうように一つの影が走り抜けた。
その影は誰の目にも映ることはない。何かに勘づいた瞬間には、すでに意識を失っているからだ。
影はするりと城内に侵入すると、息づかいさえ聞こえないほどの静けさで城内を移動した。
目的地は、城の深部にある。
入り口に立つ二人の衛兵は、影の正確な一振りで糸が切れたように崩れ落ちた。冷たい床に転がる兵を素通りし、男は長い廊下を歩く。
――突き当たりに差しかかったところで、男は足を止めた。扉を正面に立ち、白い仮面の奥で一呼吸置く。
取っ手に伸ばされた手は、かすかに震えていた。男は繊細な彫刻のほどこされた取っ手をつかむと、そっと扉を開いた。
青白い月光の差し込む部屋は、深い森の中のような静けさをたたえていた。
天井近くまである大きな窓に、すっきりと整えられた美しい家具。調度品はどれも気品はあるが数が少なく、部屋の主の物に対する頓着のなさがうかがえる。
男は息をひそめ、部屋の中央にある天蓋つきの寝台へ移動した。
ふわり、と寝台を囲うやわらかな布をつかみ、手に力を込める。そして、一気に横へ引いた。
そこには、誰もいなかった。
まるで整えられたばかりのように、シーツにはしわ一つ寄っていない。
――おかしい。
男がかすかに眉を寄せる。
しかし次の段階へ思考をめぐらせようとした時、背後で人の気配がした。
「こんな夜更けに乙女の部屋に忍び込むなんて、」
男はハッと後ろを振り返った。
月光が遮られ、男の前に影が落ちる。
目の前で、鋭く細められた茶色の瞳が殺気を帯びて光った。
「――いい度胸ね」
ハーシェルは一息に剣を振り下ろした。
しかし、確かに不意をついたにもかかわらず、攻撃はあっさりとかわされてしまう。
二、三度ほど金属音を響かせて剣を交えた後、ハーシェルは一旦後ろに引き下がって態勢を整えた。男も後ろへ跳んで動きを止める。
「なぜ――」
男が仮面の奥でくぐもった声をもらす。ハーシェルは油断なく剣を構えたまま、低く笑った。
「あなたでしょう? サティを脅して、お茶に毒を混ぜさせたのは」
男は何も答えない。ハーシェルは続けた。
「サティの振る舞いは、初日から堂々としたものだった。それが、今日になって急に怖気づくはずがない。それに、あのお茶は本来ハーブの香りがするの。あんな甘い匂いはしないわ」
銀のカップは毒で変色するが、すべての毒に反応するわけではない。普段ならわずかな香りの変化など気に留めなかっただろうが、今回はわけが違った。
最近、城内で時々視線を感じることがあった。
おそらく、ハーシェルの動向を観察していたのだろう。殺気はなかったため放っておいたが、そのうち何か仕掛けてくるかもしれないとひそかに警戒していたのだ。
「でも、私は毒を飲まなかった。だから何か勘づかれる前に、直接手を下しに来たというわけ。違う?」
目はしっかりと男を見据えたまま、ハーシェルは周囲の音に耳をすませた。
(衛兵は……来ないか)
警備が厳しい城に単身で侵入してくるほどの手だれが、声が届く範囲に人を残しておくはずがない。兵がいるのなら、先ほどの物音ですでに駆けつけているはずだ。
果たして、一対一で勝てるか――
先ほどの戦闘を思い返しながら男の技量を図っていると、男が動いた。
ハーシェルはとっさに身を硬くした。しかし男はハーシェルのそばを素通りすると、窓辺の方向へ走っていった。
「は?」
あまりの意外さに、思わず腑抜けた声が出た。この状況で逃げるというのか。
「行かせないわよ」
ハーシェルは男の前に回り込んだ。
男は剣を振り上げた。このまま避けたら逃げられると思ったハーシェルは、一旦剣を受け止めて態勢を低くし、足払いをかけようとする。
男は後ろに転がり、すんでのところでそれを避けた。立ち上がりざまに、男は下方から跳ね上げるようにして剣を振るった。ハーシェルは剣を跳ね返し再び攻撃を仕掛けるが、男はわずかな動きだけでそれを避けてしまう。まるで計算し尽くされたような距離感だ。
男の動きは明らかに場慣れしている。攻撃は一向に当たる気配がなかった。
後ろに下がって距離を取り、ハーシェルは白い仮面をにらみつけた。
(それなら――)
ハーシェルは剣を振るった。
ひと振り目は、弾き返された。
しかし、ふた振り目で剣を重ねると、ハーシェルは相手の剣を斜め下に押し流した。そしてそのまま、柄の方を上にして殴るように突き上げた。
予想外過ぎる動きに、男は一瞬驚いたように動きを止めた。次の瞬間、柄は仮面の額にまともに打ちつけられた。
(せめてその面、拝んでやる)
白い破片が舞った。陶器が割れる音とともに、仮面が砕け散る。薄闇の中で、白い破片はやけにはっきりと目に映った。
男は額を手で押さえてよろめいた。額から頰にかけて血がつたう。ハーシェルは男が思ったよりも若いことに気づいて驚いた。自分といくらも違わないかもしれない。
その時、一陣の風が顔の横を吹き抜けた。
男が通り過ぎたのだと気づいた時にはもう遅かった。後ろを振り向くと、男は開け放たれた窓枠の上に飛び乗っていた。
「ちょっと待ちなさいよ!」
ハーシェルは後を追おうとした。
窓から射し込む月光が、男の横顔をつかの間白く浮かび上がらせる。
瞬きの合間には、男の姿は窓の向こうに消えていた。あとには、窓枠によって四角く切り取られた星空だけが、何事もなかったかのようにそこにあった。
ハーシェルは男が見えなくなっても動くことができなかった。
手に持った剣は中途半端に空中に留まり、かすかに口を開けた表情は呆然自失としている。
大きく見開かれた瞳は、瞬き一つできずに固まっていた。
「――え?」
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