第5話 異変

「私も連れて行ってくださったらよかったのに」

 部屋の片隅で、ランプの炎がほのかにゆれる。

 湯浴みの後である。ハーシェルの髪を一本一本丁寧にとかしながら、自分より三つ歳上の侍女は鏡の向こうで不服をとなえた。湿り気を帯びて背中を流れる茶髪は、もうほとんど乾いてきている。

「私と出かけたって、たいして楽しくないわよ。他の侍女や友達と行った方が絶対いいと思うけど」

 上下に動く白い手を眺めながら、ハーシェルは本心で言った。

「またそんなことおっしゃって。一人で楽しんで来られたのでしょう?」

 髪に視線を落としたまま、侍女はふふ、と微笑む。

 ハーシェルはいぶかしそうに眉をひそめて、鏡に映る侍女を見返した。

「っていうかどこで聞いたの、その話」

 今日城を抜け出したことは、侍女を含め誰にも話した覚えはない。もし城で噂が広まっているのなら、面倒なことになりかねないが……

 やや不安に思うハーシェルに、侍女は答えた。

「一人でこそこそと城の端へ向かわれる姫様をお見かけしたので、もしやと。まあ、確信したのはルカ様の怒声が庭の方から聞こえてきた時ですけれどね」

「……っ」

 ハーシェルは片手で目を覆った。

(あの男……!)

 侍女が聞いていたということは、きっと他の者にも聞こえただろう。一番知られたくない人物の耳に届いていなければいいが……

 八つ当たり気味にルカを恨みつつ、ハーシェルは疲れたように侍女を見上げた。

「そのこと、父様には――」

「はい、もちろん申し上げていませんよ。さらに加えますと、私の近くには他は誰もいませんでした」

 察しのよい侍女の言葉に、ハーシェルはホッと胸をなでおろす。

 その時、とんとん、と部屋をノックする音が聞こえた。ハーシェルは後ろを振り返った。

「どうぞ」

「失礼します」

 入ってきたのは、ハーシェル付きになって一番日が浅い侍女だった。手にはティーポットとカップを載せた盆を持っている。

「姫様、お茶をお持ちいたしました」

 サティが緊張した面持ちで言った。

「ありがとう。そこに置いておいて」

 ハーシェルは近くの丸い小机を指した。

 寝る前に紅茶を一杯飲むことが、ハーシェルの毎晩の習慣である。体が温まることで、より早く眠りにつくことができるからだ。

「かしこまりました」

 サティは机の上に盆を置くと、ティーポットを取り上げた。小刻みに震える手から、危うくポットがすべり落ちそうになる。

「大丈夫?」

 ハーシェルは目を上げて鏡の中の侍女を見た。

「はい、申し訳ありません」

 サティは消え入りそうな早口で言った。銀製のカップに茶を注ぐ。湯気の立ち上るカップだけを机に残すと、一礼して逃げるように部屋から出て行った。

 侍女はくしを箱に片づけた。

「息抜きも大切かもしれませんが、せめてお供くらいはつけてはいかがですか? 何かあってからでは遅いんですよ」

 サティが出て行ったのを見計らって、侍女は言った。

 ハーシェルは椅子から立ち上がった。

「何言ってるの。それじゃあ、息抜きにならないじゃない」

 丸机の前に移動し、その向かいに腰かける。いつもの流れでカップを口元に運んだハーシェルだったが、唇が触れる前にその動きを止めた。

 透き通った赤茶色の液体。見慣れたその水面に、じっと視線を落とす。

「これ、いつもと同じお茶?」

 ハーシェルが聞いた。

 侍女はきょとんとした。

「はい。そのはずですが」

 それから、不安げな表情になって続けた。

「もしや、何か不手際でも?」

「……いいえ、何でもないの。私の気のせいみたい」

 ハーシェルは銀のカップを口に運んだ。

「熱っ」

 口元にカップが触れた瞬間、取手が指先からすべり落ちた。なめらかな白の寝衣にはあっという間に赤茶色の染みが広がり、カップが床の上で金属音を響かせる。

 侍女は襲われた鳥のような悲鳴を上げた。

「ひ、姫様! 大丈夫ですか……⁉︎ やけどされたのでは……」

 侍女はあわあわと自分のハンカチを取り出し、ハーシェルの服と足元を拭いた。ハンカチはすぐに水分を含みきって、表面から余分な水分をしたたらせる。

 ハーシェルは軽く手を振って無事を示した。

「大丈夫よ、ちょっとびっくりしただけだから。私はなんともないわ」

 すぐに着替えと拭くものをお持ちします、と叫ぶように言うと、侍女は慌ただしく部屋から出て行った。

 ハーシェルは床に視線を落とした。

 テーブルクロスの裾に広がる赤い染みが、鮮やかに目に映る。銀一色のカップは、こと切れたネズミのごとく床に横たわっていた。



「どうしよう……どうしよう……」

 サティは茶器を台の上に置いたきり放置して、一人で給仕室をうろうろしていた。先ほど部屋に入ってきた先輩侍女が何か言っていたが、よく覚えていない。

 自分がやってしまったことの重大さに、不安と後悔だけがつのっていく。サティは青ざめた顔でつぶやいた。

「私ったら大変なことを――」

 何度目か分からない往復をしていると、後ろで物音がした。給仕室に誰かが入って来たようだ。

 サティは体をこわばらせた。

 まさかあの男では――

 恐怖に振り向けずにいると、突然、誰かに腕を強くつかまれた。あっという間に腕をひねられ、体を壁に押しつけられる。肺が圧迫され、息苦しさと痛みに思わずうめき声が出た。

 首をひねって後ろを確認したサティは、一気に色を失った。

「ひ、姫様……」

「誰に言われたの」

 薄暗い室内で、ハーシェルの目はサティが今までに見たことがないような強い光を放っていた。

 意外に強い力でつかんでくる手に驚きながら、サティは狼狽した声で言った。

「あ、あの、なんのことを――」

「いいから答えて!」

 サティは恐怖に身を縮めた。ハーシェルが怖いのではない。言ったらあの人に殺される、その思いでいっぱいだった。

 迷っていると、ハーシェルが言った。

「大丈夫、あなたは死なない」

 サティの心を見透かしたようなその言葉は、意外にも穏やかなものだった。

 ハーシェルは静かな声で続けた。

「私が絶対にあなたを守る。だから、教えてほしいの」

 それでもサティはまだ迷っていたが、今はハーシェルの言葉を信じることにした。何より、ハーシェルの身が心配だった。

 サティはつばを呑んだ。

「わ、わからないんです……。廊下を歩いていたら、後ろから突然ナイフで脅されて。なんだかよく分からない包みを握らされて、これを姫様に出す茶に入れないと殺す、誰かに話しても殺す、そう言われたんです。その人はただの睡眠薬って言ってたけど、今考えると実際はどうだか……ひ、姫様、もう、飲まれて……?」

「その人の特徴は? 性別くらいは分かるでしょう」

「男、だったと思います。でも、怖くて振り向けなくて、他に分かることは何も」

 言いながら、サティは絶望的な気持ちになった。

 そう、サティは男のことを何も知らなかった。いくら怖かったとは言え、顔だけでも確認しておくべきだったのではないだろうか。

 ハーシェルの手がサティから離れた。痛みから解放され、サティはずるずると壁に手をついて沈み込んだ。

「そう……。疑って悪かったわね」

 ろうそくの光を宿したハーシェルの瞳は、何か考え込んでいる様子だった。普段表に見せている顔とは違う思慮深げなその姿に、サティは不思議な心地になる。

「姫様、あの――お体の方は、大丈夫ですか」

 自分が言える立場ではないと知りながらも、サティはどうしても聞かずにはいられなかった。

 指先でトントンと組んだ腕をつつきながら、ハーシェルはあっさりと答えた。

「ああ、大丈夫。飲んでないから」

 それから、サティの方に向き直ると言った。

「あなたは男に言われたことをきちんとやり遂げたし、顔も見ていない。だからきっと、危険な目にあうことはないと思う。あなたは包みの中身を入れた茶を出し、その後は誰とも話していない。男に何か聞かれたらそう答えるの。いいわね?」

 サティは身震いするように、小刻みに首を縦に振った。

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