第4話 小さな花の向こう側
「何度言ったら分かるんですか!」
ぴしゃり、と雷のような声が鳴り響いた。
嵐は夜を待たずにやって来た。もはや聞き慣れてしまったルカの怒声に、ハーシェルは相手に聞こえないように小さく舌打ちをする。
場所は城の裏庭。花壇には庭師によって完璧に手入れされた花が美しく咲いており、側には黄色い実の成った木が生えている。その枝が城壁の高いところまで伸びていることに気づいたハーシェルは、新しい脱走口として最近よく利用していたのだが――
(この経路ももう使えないか……)
今日、ルカにばれてしまったのである。木から城壁に垂らした細いロープにルカが気がついたのだ。明日には、木の枝はばっさりと切られているに違いない。
高齢になった父、ラルサに代わり剣を教えるようになったルカだが、その容姿はまったく父親に似ていない。金にほど近い薄茶色のくせっ毛はうなじで一つにまとめられており、色白のすっきりとした顔立ちをしている。あの熊のような父親から、よくもまあこんなきれいな顔の息子が生まれたものだ。
がみがみと流れ出る説教を無視し、ハーシェルは半眼になってルカを見た。
「ねえ、私、稽古の時間以外は好きにしていいって言わなかったっけ?」
ルカは端整な顔にぴしりと青筋を浮かせた。
「あなたがしょっ中人の目を盗んでは城を抜け出すような方でなければ、そうさせていただきましたとも。おかげ様で一分足りとも休む暇もございません。これで何回目かお分かりですか?」
ハーシェルはあごに手をかけ、真剣な表情になって黙り込む。そして、わずかに首をかしいだ。
「五回くらい?」
「八回ですよ! 八回」
ルカはカッと目を見開いて言った。
ああ、そうだっけ、とハーシェルはあっけらかんとした顔で返す。
ルカはハーシェルが城を抜け出すせいで自由な時間を過ごせないと言うが、そうでもないと思う。側近になった次の日から、ルカは自主的に一日の大半をハーシェルのそばで過ごしていた。結局のところ、根が真面目なのだ。
(まあ、おかげでダルーシアは私の専属護衛から外れたみたいだし……。やっぱり、護衛は目に見えるところにいる方がまきやすくていいわね)
隣で流れる説教を聞き流しながら室内に戻ろうとしていると、一輪の花が視界の端にとまった。
壁際に咲いているのは、銀貨ほどに小さな白い花である。花の名はアイリスといい、ハーシェルが幼い頃暮らしていたアッシリア王国の野原一面に咲いていた花だ。ハーシェルが一番好きな花でもある。
ハーシェルの視線に気づき、ルカはふつりと説教を中断した。
「こんなところに雑草なんて珍しいですね。庭師が抜き忘れたのでしょうか」
花に手を伸ばしかけたルカに、ハーシェルは「だめ!」と思わず大きな声を上げた。
ルカは驚いたように手を引っ込める。それから、問うようにこちらを見上げた。
ハーシェルの瞳は反射的にルカの視線からそれた。動揺してしまったことを後悔しながら、ハーシェルはルカにばれないよう小さく深呼吸をした。
「他の花の邪魔をしているわけでもないし、別にわざわざ抜く必要はないでしょう? それはそのまま置いておいて」
さりげない調子を装って答え、こっそりとルカの様子を観察する。少し、言い訳に無理があっただろうか?
だが、観察していたのはルカの方も同じであった。ハーシェルの瞳の奥でゆれる感情を目ざとく見つけ、ルカは立ち上がった。
「時々、そのような顔をされますね。何を……いえ、誰のことを考えておられるのですか?」
ルカは真剣に、そして――少し心配そうな表情でハーシェルを見つめる。
ハーシェルは驚いたように目をひとつ瞬いた。何も言わないハーシェルに、ルカはためらうように口を開いた。
「お母上、ですか?」
少し考えて、ハーシェルは答えた。
「――ええ、そうね」
間違ってはいない。母がいなくなってから心の大切な部分が欠けてしまったようで、いくら剣を振るってもその穴だけは埋まらない。母がいてくれたら、温かい腕で抱きしめてくれたら、と今でも思う。
だが、アイリスの花を見て最初に思い浮かぶのは、決まってウィルのことだった。一緒に作った花冠、野原を駆けまわった日々、交わした約束、……――城下街で、偶然出会った日のこと。
あれからというもの、街に出かけると無意識のうちにウィルを探さずにはいられなかった。いるはずがないと分かっている。それでも、もしかしたら、と思うと、つい目が追い求めてしまうのだ。
ハーシェルは小さな花に視線を落とした。
「会えたら、いいのにね……」
言葉がこぼれ落ちた矢先、ちり、と首筋に視線を感じた。
ハーシェルは弾かれたように後ろを振り返った。緑の木々の奥を射抜くように目線を走らせる。
(今、誰か――)
「どうかされたのですか?」
ハーシェルと同じ方向に目を向けたルカが、戸惑ったように言った。ルカは何も感じなかったらしい。
整然と生える木々に、すでに人の気配は感じられない。警戒心だけは解かないまま、ハーシェルはゆっくりと身体の力を抜いた。
「――いえ、なんでも。じゃ、私は稽古の時間まで部屋で休むけど。それまでは、あなたもたまには好きなところで好きなことしたら? 別に誰もとがめやしないと思うわよ」
ハーシェルは言い流すと、返事を待つこともなくルカに背を向けて歩き出した。ルカは少し立ち止まって考えたが、結局何も言わずハーシェルのあとについて行った。
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