第9話 仮面の裏側

 一日の最後の稽古も、やはり姫はどこか身が入っていない様子だった。

 最近では十分以上ねばるようになってきていた一騎打ちも、五分も経たずに敗北する。ルカは弾き飛ばした木刀を草むらから拾いながら、ハーシェルに言った。

「もっと相手の動きをよく見てください。体勢、表情、それに視線。次の動きを予測するには、何も剣だけ見ていればいいってわけじゃありませんよ」

 少し土を払ってから、ルカは木刀をハーシェルに差し出す。ハーシェルはまるで木刀が悪いと言わんばかりにそれをにらみつけ、「分かってるわよ」とむすっとした顔で木刀を受け取った。

 すでに外は暗くなっていた。夜空の下、城からもれる光が煌々と輝く。

 中庭の稽古場を後にすると、ルカは浴場の前でハーシェルに一礼した。

「では、わたしはこれで失礼いたします」

「ええ」

 風のない夜だった。虫の音すら聞こえない今日は、一歩外に出ればまるで世界が時を止めているかのよう。

 頭上で流れゆく一片の雲だけが時間を感じさせる中、ルカはいつもどおり浴場の角を曲がり、兵舎へと戻っていった。


 ――フリをして、近くの植え込みの陰に隠れた。


 指先で葉の位置をずらし、ルカは目を細めてハーシェルの様子を盗み見る。

 やっぱりだ。姫は浴場には入っていない。

 ハーシェルは扉の前まで進んだところでじっとしていた。すぐにその場を動こうとしないのは、ルカが完全に立ち去るのを待っているためだろう。扉の向こうにいるサティは、浴場を前にして、たった今ハーシェルが一人で突っ立っていることなど知るよしもない。

(さあ、ここからどう動くか……)

 じりじりとその時を待っていると、不意にハーシェルが扉に背を向けて歩き出した。夜の空気に気配をひそめ、ルカは十分に距離をとってそっとその後をついて行く。

 着いたのは東塔の前だった。石畳のすき間をぬって伸びている草からは、長いあいだ人が足を踏み入れていないことが分かる。

 ルカは小さく舌打ちした。

 夜にたった一人で、しかもあんな事件があった後に、このようなひと気のない場所に来るなんて何を考えているのか。前々から思っていたが、姫にはもう少し王女であるという自覚を持って行動してほしい。

 そのまま塔の中に入ろうとするのかと思ったが、ハーシェルは入口の手前で足を止めた。近くにある花壇に腰を下ろす。そして、動かなくなった。

(……は?)

 ルカは呆然とした。

 数十分の時が流れても、姫は依然として花壇に座ったままだった。誰かが来る気配もなければ、一人で何かをする様子もない。

 結局、姫はここへ何をしに来たんだ……?

 ルカが混乱していると、ハーシェルが腰を浮かした。帰るようだ。

 その時だった。

 ハーシェルが帰ろうとするのを見越したように、背後に人が現れた。塔の陰に隠れていたらしい。顔は深くマントで覆われており、暗さもあいまってよく見えない。

 ――誰だ?

 剣の柄に手をかけながら、ルカは目つきを険しくする。

 二人は何か話をしている様子だが、距離が遠くてよく聞き取れない。

 一番の問題は、この距離では何かあっても姫を守りきれないことだった。

 相手がどういう意図で姫に会っているのかは分からない。だがもし敵であれば、今ルカが出て行ったところで確実に姫を人質に取られてしまうだろう。いったいどうすれば――

 ルカがやきもきしていると、ルカから遠く離れたところに近衛隊の後輩の姿が見えた。

 この時間帯、このあたりを通りがかる人はめったにいない。見張りを交代した帰りだろう、後輩の少年は肩を回しながらのんびりと歩いている。

 ルカは足元の小石に目を留めた。

 一か八か――

 小石を手に取ると、ルカは少年の方へ向かって大きく腕を振りかぶった。


  *  *  *


 現れた男は、深い闇色のマントを身にまとっていた。

 割れた仮面の代わりに顔は布で深く覆われており、そのすき間からのぞく暗い瞳は冷え切っていて、光がない。

 ちり、と、ハーシェルの胸の奥で痛みとも恐怖ともつかぬものがうずく。

「……いたならもっと早く出てきなさいよ」

 先日一戦を交えた刺客と向かい合いながら、ハーシェルは乾いた声に怒気をはらませて言った。

 温かさのかけらもない目で、男はつとこちらに視線を合わす。

「目的も分からないのに、やすやすと前に出ていくわけにはいかない」

 男の物言いは淡々としたものだった。

 信じられない、というようにハーシェルは軽く目を見開いた。

「目的?」

 かすれた声は、思わず裏返った。ハーシェルは叫ぶように言った。

「そんなの、あなたに会うために決まってるじゃない!」

 ハーシェルが毎日同じ時間、同じ場所で一人になっていた理由。それは、ひとえにこの男に会うためだった。

 この男は、ハーシェルの暗殺に失敗した。しかしハーシェルが黙っていたために、幸いにも事が公にはなっていない。となれば、チャンスがあれば、もう一度ハーシェルにとどめを刺しに来るはずだと思った。

 そこでハーシェルは、あからさまではあるが、わざと隙を作って男が再び現れるのを待っていたのだ。暗殺をあきらめていなければ、男はまだ城内からハーシェルの様子をうかがっているはず。そう信じて。

「どういうことなのか説明して」

 ハーシェルは声が震えそうになるのをこらえて言った。

 しかし次に言葉を発したときには、どうしようもなく泣きそうな顔になっていた。

「あなたウィルでしょう?」



『ウィルーっ!』

 ハーシェルがぱたぱたと野原をかけ下りる。

 近づくと、ウィルはなにやら野原のすそに座り込んでいた。声かけに反応もしない様子に、ハーシェルは首をかしげる。

『ねえウィル、そんなところで何してるの?』

 ハーシェルはワンピースに薄手のカーディガンをはおっていた。今日は少し冷えるからと、セミアに言われて小屋に取りに戻ったのだ。

 足元を見つめていたウィルが振り向き、ニッと笑った。

『見つけた』

『へ?』

 ウィルが手を伸ばす。ハーシェルはウィルの手元をのぞき込んだ。

『よつばのクローバー!』

 ハーシェルは驚いて声を上げた。

 ウィルの指先から伸びる茎には、小さな葉が四つ。前に二人でしつこく探したが、全然見つからなかったのだ。

『たまたま下を向いたときに、なんかそれっぽいのが見えた気がしてさ。見間違いじゃなくてよかったよ』

『本当にあったんだ……』

 ウィルからクローバーを受け取り、まじまじと四枚の葉を見つめる。なかば迷信なのではと思い始めていたハーシェルは、ほぅ……とため息をついた。

『ハーシェルにあげるよ』

 ウィルはハーシェルを見上げて言った。まるで最初からそうする気だったかのようだ。

 ハーシェルの目が輝いた。

『本当⁉︎』

 しかし言ってすぐに、顔にはためらいの色が浮かんだ。

『えっ、でも……見つけたのはウィルだし……四つ葉のクローバーって、持ってたら幸せになれるんでしょ? ウィルが持ってた方がいいんじゃないの?』

『いいんだ』

 ウィルはからりと笑った。

『きみが幸せな方が、僕も幸せでいられるような気がするから』


 春の陽射しのように温かい、ウィルの笑顔。

 それが、目の前の少年の姿と重なることはなかった。冷たく閉ざされたこの少年と、あの幼い笑顔が同一人物だとは誰が思うだろうか。

 だが、ハーシェルは見たのだ。剣を交えたあの夜、月の光によって照らされた横顔。あれは、確かにウィルのものだった。今だって、布のすき間からのぞく瞳に温かさはないが見覚えはある。二年前、ハーシェルが自分の出生を明かした後のウィルの目つきと同じだ。

 侍女のサティを脅し、ハーシェルを毒殺しようとしたのはウィルなのだ。

 あまりの事実に、握りしめた手が震えた。

「どうして……」

「そんな男は知らないな」

 ハーシェルは一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「――は?」

 氷のような瞳でこちらを見すえ、少年は目を細める。

「知らないと言っている」

 ハーシェルはあっけに取られたようにその瞳を見返した。

 しかし本気で言っているのだと分かると、身体の底からは徐々に熱いものが込み上げてきた。それは怒りだった。

「ふざけるのもいい加減にして!」

 高い声が夜空をつらぬいた。急な音に驚いたように、木の中から鳥が一羽空へと逃げていく。

 激しい眼差しでウィルをにらみつけてから、ハーシェルは静かに言った。

「確かに、前に街で会った時はあなただって分からなかった。五年も経ってたし、それにあなた――ずい分雰囲気が変わってたんだもの。だけど、今回は確信してる。あの夜、窓辺で見えた顔はウィルだった。でも、どうしてなのかいくら考えても分からない。街で会った時だってそう。なぜウィルがこの国にいたのか、結局分からずじまいだった。……ねえ、何か事情があるんでしょう? この数年の間に、何があったの。教えてよ。教えてくれないと、私――」

 ハーシェルはつばをのみ込むと、低い声ではっきりと言った。

「あなたを、衛兵に突き出さなければならなくなる」

 動揺しっぱなしのハーシェルに対し、ウィルの様子は一貫して変わる気配はなかった。ハーシェルの話などどこ吹く風といったふうである。

 小さくため息をつき、ウィルは心底どうでもよさそうにハーシェルを見た。

「話はそれで終わりか?」

 稲妻に打たれたような衝撃だった。ハーシェルはがく然とウィルを見返した。

 そのひと言で、悟ってしまった。

 この人には、何を言っても無駄なのだと。――何も、届かないのだと。

 幼なじみなんかじゃない。そこにいるのは、ハーシェルの命、ひいてはこの国の平穏をおびやかす『刺客』でしかなかった。

 それならば、今のハーシェルの感情は無意味なものでしかない。むしろ邪魔とすら言えるかもしれなかった。

 だから、ハーシェルは目を閉じた。衣をつかんだ手が小刻みに震える。

 何かのスイッチを切ったかのように、震えは不意に止んだ。ハーシェルは短く息を吐き出すと、再び目を開いた。

「目的は、なに」

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