第8話 ルカの事情


  *  *  *


 ――時は少しさかのぼり。


 最近、姫の様子がおかしい。

 ルカは端整な顔にしかめ面を浮かべていた。

 あの時からだ。何者かが城に侵入し、警備兵が一斉に意識を失った事件。あれ以来、弓矢では的を外すことが増えたし、食事中はどこかぼーっとしていることがある。

 そもそも、あの事件の時に姫が何も気づかなかったというのは、どう考えてもおかしいのだ。ルカは姫の能力をじかに知っている。たとえ就寝中であっても、人の気配や物音にまったく気づかぬほど鈍感ではない。

(絶対に何か隠してる……)

 腹の中でうなりながら、日が照りつける外回廊にさしかかった時だった。

「くそっ、あのガキ本当に腹が立つぜ」

「入隊して二年足らずで昇進だなんて、まったく将軍の息子ってのはいいご身分だよな」

 ルカはふと足を止めた。

 柱の陰から声の主を見やると、中庭をはさんだ反対側の回廊の前で、ルカと同じ近衛隊の連中が立ち話をしていた。

 赤毛の大男がアドラスで、とがった顎をしているのがフィン、近衛兵にしては小柄なのがレイモンドだ。いずれもルカより数年歳上の先輩だが、階級はルカの方が上だった。ルカは側近就任と同時に、近衛隊としての階級も三等近衛から二等近衛へと昇格していた。

 ちなみに二等近衛は、近衛隊の中でもわずか二割ほどの者しかなれないエリート階級である。

 三人の話は続く。

「っていうか、あいつが昇進したのってこの間の武闘大会で優勝したからだろ? でも、それも本当のところはどうなんだかな」

 アドラスの言葉に、レイモンドが首を傾げる。

「どういうことだ?」

「だから、何か裏があったんじゃないかって話だよ。金と口先で丸め込んで、順位を操作するのはそう難しいことじゃない。なんたってあいつの父親は将軍だし、誰しも金には弱いからな」

「将軍の息子って肩書きだけじゃ足りないってか? 涼しい顔して、裏では何やってるか分かったもんじゃないな」

 フィンがせせら笑う。

 レイモンドは天を仰いだ。

「あーあ、ロダウのやつが欠場さえしてなけりゃなぁ。あいつを木っ端みじんにしてくれただろうに」

「にしても、ロダウも運が悪いよな。まさか大会の前日に怪我するなんて」

「それも、実際はルカの野郎が仕組んだことじゃないのか? あいつはそう簡単に口車に乗るようなやつじゃないからな」

「ありえる」

 ルカは表情ひとつ変えずに、背中越しに三人の馬鹿にした笑い声を聞いていた。

 好き勝手言ってくれる。武闘大会は国王臨席のもと、多くの人の目にさらされた状態で行われる。そのような中で不正を行うことはほぼ不可能だし、やるとすればよほどの馬鹿か、罰を受けたい人間だけだ。そのことが分からないわけではないだろうに。

 ルカは柱から背中を上げた。この手の嫌味や陰口はよくあることだった。これ以上聞くのは時間の無駄だ。

 しかしルカが立ち去ろうとした時、聞き覚えのある名前が耳に飛び込んできた。

「でも、側近ってハーシェル姫のだろ? 案外苦労してるかもな。無理難題押しつけられたりしてさ」

「言えてる。この国唯一の王女様だもんな。世界は自分を中心に回ってると思っているに違いない」

「いい気味だ」

 気がつけば道を外れ、中庭を横切っていた。

 へらへらと下卑た笑いがいやに耳につく。ルカはまっすぐ三人に向かって歩きながら、腰から長剣を引き抜いた。

「おい」

 冷え切った氷のような声が出た。

 近衛兵たちは、ルカの姿を見てぎょっと表情を一変させた。フィンが尻込みしたように引き下がる。ルカはかまうことなく近づいた。

「わたしのことはどう言おうと勝手だ。だが、姫に対する暴言はひかえていただきたい」

 低く言い放ち、ルカは剣の先端を近衛兵に向かって突きつけた。ヒッ、と三人のうちの誰かが小さく声を上げる。

 ちょうど剣の真正面に立っていたアドラスは、向けられた剣を一べつすると乾いた笑い声を上げた。

「……お、おいおい。王宮内で剣を抜くのは反則だぜ?」

 その額の生え際には、じっとりと冷や汗がにじみ出ている。

 目を静かに怒らせながら、ルカは激しい口調で言った。

「言えばいい。代わりに、お前たちは王族を侮辱した罪で罰を受けることになるがな」

 アドラスが身じろぎする。行こうぜ、とフィンがアドラスの腕を後ろに引いた。

 アドラスは苦々しい表情を残しながら、フィンに押されるようにしてルカに背中を向けた。レイモンドもルカを一べつすると、二人の後に続いて去っていく。

 三人が見えなくなっても、ルカの心臓はどくどくと脈打っていた。

 世界は自分を中心に回っている?

 ふざけるな。姫はそんなことは思っていない。

 確かに、城はしょっ中抜け出すし、退屈な講義の課題はルカに押しつけようとするし、説教は甘んじて受けるわりに全然反省しようとしないが、姫は決して権力をかさに着るようなことはしない。ろくに姿も見たことがないくせに、勝手なことを言わないでもらいたい。

 無性に苛立ちながら中庭から離れると、ちょうどサティが回廊の角に顔を出した。

「あっ、ルカ――って、どうしたの。顔、恐いわよ」

 近づいてきたサティが、やや引き気味に言う。

 ルカは驚いた。その拍子に、眉間にしわが寄っていたことに気づく。

 怒りが表に出るなど、自分らしくもない。ルカは軽く眉間をもみほぐしながら反省した。

「――いや、何でも。それより、どうしたんだ? そんなに荷物持って」

 サティは大きなバッグを二つ肩から下げている。侍女が持ち歩く荷物の量にしては、明らかに多い。

 サティはちょっと言いにくそうに、指先で頰をさわりながら視線をそらした。

「あー……実は、今日からしばらく休みをいただくことになって。今から実家に帰るところ」

 サティの実家は、王都の一角にある食事処だ。王宮で働く前までは実家の店を手伝っており、そこに入隊試験中のカイルがよく食べに来ていたのだとか。サティが王宮入りしてからは、よく三人で夕飯がてら店に立ち寄るようになり、今では気の合う近衛兵のたまり場と化している。

 ああ、とルカは納得した。それで荷物の量が多いわけか。

「そうか。いつ帰ってくるんだ?」

「十日後よ」

「十日⁉︎ それは長いな……」

「あ、そういえば私、あなたに渡すものがあったのよ。帰る前に会えてよかったわ」

 サティはバッグの中を探ると、一通の封筒を取り出した。真っ白な紙のふちには、赤と金のきれいな装飾がほどこされている。

 その中身を察し、ルカは途端に苦そうな顔になった。

「悪いが、色恋沙汰には興味がないんだ」

「まあそう言わないで。こういうのは、読んでもらえるだけでも相手にとっては価値があるものよ」

 そう言って、サティは白い封筒――ラブレターを、ルカの手に押しつけた。ルカはしぶしぶそれを受け取る。

 武闘大会が終わってから、妙にこのようなことが増えたように思う。その多くはサティを通じて手紙が回ってくるのだが、まれに直接告白してくる者もいる。しかも、その相手がまったく知らない人だったりするものだから、ルカは嬉しさを感じる以前にやや混乱している。

 この場にカイルがいなくて本当によかったと思った。あいつがいたら、ひやかしたり嫉妬したりで大さわぎだ。姫はいてもいなくてもたいした影響はないだろうが、なぜかいてほしくない気がした。

 そうだ――

 手紙を懐にしまったルカは、顔を上げた。

「なあ……最近の姫、ちょっと変だと思わないか? 近くで見ててどう思う」

 ハーシェル付きの侍女であるサティなら、何か分かるかもしれない。

 そう思いたずねたのだが、姫の名前が出た瞬間、心なしかサティの顔がこわばったように見えた。しかし、そのようになる理由はないはずだし、自分の気のせいだろうと思い直す。

「さあ。私には、特にお変わりはないように見えるけど」

 サティはやや硬い声で言った。

「そういうのは、ルカの方がよく分かってるんじゃない? 一日の中で、私より姫様と一緒にいる時間が長いもの」

「まあ、それはそうなんだが……。どうも腑に落ちなくてな。お前なら何か知ってるんじゃないかと思って」

「そうねぇ……」

 ルカの真剣な様子に、サティは先ほどよりも真面目な顔つきになって考えた。

「少なくとも、体調が悪いようには見えないけれど。稽古だって、いつもより練習熱心みたいじゃない?」

 姫の稽古のことは、城の中でもごく一部の者しか知らない。ハーシェルの侍女であるサティも、その一人だった。

 ルカは困惑した表情を浮かべた。

「稽古? 稽古なら、むしろ前より集中力が落ちているくらいだが」

「でも、最近じゃ湯浴みに来る時間が少し遅くなったじゃない。てっきり、稽古が長引いてるんだと思ってたけど」

 ルカの反応に、サティも戸惑った様子を見せる。

 ルカはあごに指をかけて思案した。

「いや、稽古はいつも通りの時間に終わっている。そんなはずは……」

 ルカは夕食後の稽古が終わると、必ずハーシェルを浴場の前まで送るようにしている。後は中にいる侍女に任せればよいため、ハーシェルとはそこで別れていたのだが。

(姫と別れてから、浴場に入るまでに空白の時間がある?)

 だが、浴場は目の前。一歩入ればそこでは侍女が待っているというのに、入るまでに時間をかける理由はない。

 となれば、残る可能性は一つだった。

 姫は、湯浴み前に一人でどこかへ行っている――――?

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