第10話 交わる剣

「目的は、なに」

 茶色く澄んだ瞳の中に、余計な感情は一切なくなっていた。それは、この国唯一の王女の顔だった。

 少年は視線をハーシェルの胸元あたりに移した。

「その石を寄こせ。そうすれば、命だけは助けてやってもいい」

 ……――石?

 ハーシェルは反射的に、首に下がっている瑠璃色の石を握りしめた。

 どうして石を欲しがるのだろう。まさか、この石の意味や力のことを知っているというのか。

 石を握る手に力を込め、ハーシェルは目つきを険しくした。

「石を手に入れて、どうする気?」

「さあな。それは上が決めること。わたしには関係ない」

 うえ。

 吟味するように、口の中でゆっくりとその言葉を繰り返す。

 つまり、命令を下した人間は別にいるということだ。敵からすれば、城の中に侵入するだけでも賭けのようなもの。なんとなく、一人の少年が独断で行えるようなことではないだろうとは思っていた。

 そこで、ハーシェルは口の端をつり上げた。

「脅してるつもりなのかもしれないけど、あなた、今の自分の状況が分かってて? ここは城の敷地内よ。大声を出して届かない距離じゃないし、私もすぐには殺されない。私を殺して、石も奪ってこの城から逃げ切るなんてこと、到底不可能だと思うけれど」

 慎重に言葉を締めくくって、相手の反応を見る。

 少年はいたって涼しげな顔で言った。

「そうか。なら、呼べばいい」

 あまりにあっさりと返ってきた言葉に、ハーシェルの方がたじろいだ。

「さあ」

 試して……いるのだろうか。布の向こうの表情はよく読み取れない。

 王族を殺そうとした者がどうなるかなんて分かりきっている。死刑だ。たとえどんな理由があろうと、それだけはまぬがれない。

 どちらとも言葉を交わさないまま、数秒の時が流れた。

 国のためにも、ここで助けを呼び、刺客を捕らえるべきだとは分かっている。しかし、ハーシェルはウィルに死んでほしくはなかった。だから毒のことも、部屋で襲われたことも誰にも言わなかった。

 結局、ハーシェルは誰の助けも呼べないのだ。

 相手がウィルである限り、ハーシェルは王女にはなりきれない。

「呼ぶ気がないのなら、さっさと決めてくれないか。大人しく石を渡すか、それともここで無駄死にするのか」

 少年がややあきれたように言う。

 手の内側には、確かな石のぬくもりがあった。その熱に励まされるように、顔を上げたハーシェルははっきりと告げた。

「石は渡さない。これは、母様からもらった大切なものなの。今日も、これから先も、私が私の力で守り抜く」

「そうか、よく分かった」

 少年が指で腰元の剣を押し上げる。ハーシェルも瞬時に姿勢を低く構えて、剣の柄に手をかけた。

 二人の距離がなくなった。その瞬間、高い金属音が夜の空気を裂いた。

 ぎりぎりと牽制し合った剣は、同時に飛ぶように離れた。すぐに攻撃を仕掛けるも、少年はわずかな動きだけで難なくそれを交わす。そのまま間髪をいれずに飛んできた剣を、ハーシェルはすんでのところで受け止めた。いったん剣を脇に流し、回転しざまに後方から腕を振るうが、さらに素早い動きで身体を回転させた少年に真正面から止められる。

 前回の逃げるような剣の動きとは、まるで違った。攻撃的で、強く放たれる殺気からは、ここで決着をつけようとしていることがありありと伝わってくる。

 立ち止まれば、その場で崩れ落ちそうだった。

 ハーシェルは、ただひたすらに苦しかった。悲しかった。ウィルがウィルでないことが。ずっと会いたかった人と、こうして戦わなければならないことが。

 もう一度二人で会えば、きっと昔のウィルに戻ってくれるだろうと思っていた。あの温かい笑みをくしゃりと顔に浮かべて、「ハーシェル」と呼んでくれると。

 本来なら、もう戦う気すら失っていたかもしれない。

 だが、今のハーシェルには守るべきものがあった。母から受け継いだこの石がある限り、決して負けるわけにはいかなかった。

 振り下ろされた剣が頰の横の髪の毛をかすった。続く剣を避けてから、ハーシェルは後ろに引いて距離を取る。乱れてきた息を整えると、ハーシェルは剣の重みを利用して勢いよく振り放った。

 しかし、受け止めるかに見えた少年の剣は、直前になって身体ごと引かれた。空を切って前のめりになったハーシェルの身体は、背中側が完全に無防備になってしまった。

(しま……っ)

 横目に、首筋に手が振り下ろされようとしているのが見えた。かろうじて身体をひねって避けたが、そのせいで重心のバランスが崩れた。

 身体が肩から地面に叩きつけられた。手首を蹴られ、剣が手の届かないところへ弾き飛ばされる。

 ハーシェルはすぐさま立ち上がろうとした。しかし完全に体を起こす前に、白い剣先がハーシェルの前に伸びた。

「おい、その手をどけろ」

 灰色の雲を背に、少年がこちらを見下ろす。

 殺されてもせめて石だけは渡すまいと、ハーシェルは片手でぎゅっと瑠璃色の石を握りしめていた。微動だにしないまま、ハーシェルはただじっと少年の冷たい瞳をにらみ返す。

「やりなさいよ」

 これが最後の賭けだった。

 グレーの瞳がすっと細くなる。ハーシェルは叫んだ。

「ほら!」


 ――――……



『ウィル、お母さんがアップルパイ焼けたって。早く行こう』

『えー、もう帰っちゃうの?』

『そうだ、一緒に星を見ようよ。今日は晴れてるから、星がとてもきれいだよ?』

『アイリスの花言葉はね、“永遠に変わらないもの”』



『ずーっと一緒だよ』

 花冠をかぶった少女が、心底幸せそうに笑いかける。


 ……――――



 剣は動かなかった。

 ――くそっ。

 少年の口の中から、小さく、本当に小さく舌打ちが聞こえたような気がした。布の隙間の向こうで、片方の目尻がぴくぴくと震えている。

 そこで、フッと空の上に剣が振り上がった。ハーシェルは反射的に身を固くして、石を強く握りしめた。

 ……しかし、剣は下りてこなかった。

 まるで、夜空の星に剣が縫い止められたようだ。それとも、時間の方が動くことをやめたのか。

 その時、どこかでかすかな音がした。

 ぞわり、と全身の産毛が逆立つ。考える前に、ハーシェルの体は勝手に飛び出していた。

「だめ!」

 ひゅっと音を立てて何かが空を切る。

 立ち上がりながら、ハーシェルは全力でウィルの身体を向こうへ押しやった。その瞬間、鈍い音と同時に鋭い激痛がハーシェルの肩を貫いた。

「姫!」

 聞き覚えのある声が、悲鳴じみて後方で上がる。

 ハーシェルはふらり、と足を一歩前についた。しかめた眉間に汗を浮かべ、片手で胸をわしづかみにする。

 息が、できない。

 視界がかすむ中、ハーシェルは地面に崩れ落ちた。

 ハーシェルの右肩には、たった今射られた矢が深々と突き刺さっていた。あまりの激痛に呼吸をすることさえままならず、ハーシェルは荒い息を吐き出した。

「なんで……っ」

 初めて、少年が動揺したような声を上げた。

 遠く離れた建物や木々の陰では、何人もの兵士がうろたえた様子で見え隠れしている。あろうことか姫を射てしまったことに、ひどく動揺しているようだ。

「……げて」

 音になるかならないかくらいの声で、ハーシェルがつぶやいた。

 え、と少年が聞き返す。

 ハーシェルは顔を上げた。全身から冷や汗が吹き出し、表情は苦痛にゆがんでいる。それでも、茶色い瞳だけは強い意志をたたえ、ぎらぎらと輝いていた。

「逃げて……早く!」

 ハーシェルは語気を鋭くして言った。

 目元に一瞬の迷いを見せた後、少年はハーシェルに背を向けた。少年がハーシェルから離れた途端、次々と矢が少年に向かって降りかかる。ハーシェルのそばにいる間は、姫に当たる可能性があるため容易に打てなかったのだろう。

 少年が無事矢を避けられたのか、ハーシェルに見届ける余裕はなかった。

 あまりの痛みに、思考が上手く働かない。血を流し過ぎたのか、寒気すら感じ始めていた。

「すぐに医者を呼べ。いいか、すぐにだ。――ああ、姫っ! なぜこんな……大丈夫です、すぐに医者がここへ来ます。ですから、どうかそのまま動かないでください。そのままですよ。……ああ、本当に、なぜこんなことに」

 少年近衛兵に指示を飛ばしながら、ルカが側にかけ寄ってくる。おろおろとまくし立てる様子が物珍しくて、ハーシェルは口元に弱々しく笑みを浮かべた。

「なに慌ててんのよ。これくらい、平――」

 ふっ、と視界がゆらいだ。ルカが、遠くで自分の名前を呼んでいる。

 急に周囲が薄暗くなったかと思うと、ハーシェルの意識はそのまま闇にのまれて、消えた。

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