第31話 脱出作戦(1)

 計画はこうだ。

 手始めに、朝食はいつもより少なめにとる。体調が悪いフリをして早々に食事を切り上げ、「しばらく休みたいので一人にしてほしい」と告げて部屋に戻る。

 もちろん、それはただの口実だ。角を曲がって自分の部屋に入ると見せかけ、専属護衛のダルーシアが現れる前に一つ隣の部屋にすべり込む。ダルーシアは、ハーシェルが部屋に戻ったと思ってその場にとどまるだろう。

 他の人についても、「一人にしてほしい」という母を亡くしたハーシェルの心を気遣い、しばらく部屋を訪ねてくることはないはずだ。後は、頭の中に描いた脱出経路どおり、人の目をくぐり抜けながら門を出れば脱出成功だ。

(完璧だ)

 ハーシェルは一人ひっそりと笑った。

 そんなわけで、ハーシェルは今、自室の隣にある空き部屋に来ている。ポケットには昨夜調理場からくすねたクッキーを巾着袋に包んで入れており、実際には健康そのもののハーシェルは今すぐにでも食べ出したい気分だ。

 ここは、ハーシェルが初めて城に来たときから誰も使っていなかった。部屋の隅には、忘れ去られたように斜めに立てかけられた本が数冊と、針の止まった小さな振り子時計が置かれてある。中央には古びたソファとテーブルがあり、どちらにも表面には薄くほこりが積もっていた。

 ハーシェルはそれらのそばを通り過ぎ、窓際へと向かった。

(確か、この下に……)

 ハーシェルは窓の下をのぞき込んだ。

 やっぱりあった。一階のバルコニーだ。

 問題は、どうやって下りるかだ。ここは二階。そのまま窓から飛び降りるには、いくらか落差があり過ぎるように思う。

 ハーシェルは少し悩んだが、窓を上に引くとその縁に飛び乗った。窓枠に両手をかけ、体を外側に出して壁面にぶら下がる。これで、足先と地面との距離がだいぶ縮まったはずだ。

「……よっと!」

 壁を軽く蹴り上げると、ハーシェルはとんっ、ときれいにバルコニーの上に着地した。

 我ながら見事な着地技だ。

 ハーシェルは得意げな笑みを浮かべた。

 足の裏が少しじんじんするが、なんてことはない。ヘステラが見ていたら、卒倒しそうではあるが。

 ハーシェルは部屋に通じるガラス戸に手をかけ、中へと入った。

 そこは小綺麗な応接間だった。城に客人が訪れた際には、まずたいていこの部屋に通されるが、普段は誰も使っていない。

 ハーシェルは無人の部屋を横切ると、扉をわずかに開いて廊下の様子をのぞき見た。侍女がその先の角を曲がっていったことを確認すると、ハーシェルはすばやく部屋からすべり出た。

 柱の陰や階段の裏に身をひそめながら、猫のように城の中をすり抜けていく。

 ただでさえ広い城の中を、道を選びながら、しかも物陰に隠れながら進むとひどく時間がかかる。やっとの思いで城の端の棟にたどり着くと、ハーシェルは一階の回廊を外れて庭へと下りた。

(よし、あとは庭の死角を利用して門を抜けるだけ……)

 ハーシェルは植え込みのそばに移動しようとした。

 ――とその時、

「あら、姫様」

 ハーシェルは体に火がついたように飛び上がった。

 そろり、と後ろを振り向くと、回廊の内側にヘステラが立っていた。眉を少し落とし、やや不機嫌そうな表情をしている。

「まあまあ、そんなに驚かれなくてもよろしいじゃありませんか。体調がすぐれぬとお聞きしましたが、もうお身体は大丈夫なのですか?」

「え……ええ、まあね」

 ハーシェルはぎくしゃくと答えた。

 なんてタイミングが悪いのだろう。この辺りは人通りが少ないというのに、なぜ今日に限って、しかもへステラが通るのか。

 へステラは心配そうにこちらを見た。

「しかし、まだお休みになられていた方がよろしいのでは。顔色もあまり良くないようですし……。ところで、どちらに行かれるのですか?」

 城を抜け出して、一人で街へ散歩に出かけようとしてるところです、なんて言えるわけもない。

 ハーシェルは迷ったあげく、答えた。

「えー……庭に、花を摘みに」

 口に出した瞬間、ハーシェルは自分を殴りたくなった。

 花なんて、ここ数年摘んだことがあっただろうか。もうちょっとマシな嘘はなかったのか。

 ヘステラは怪訝そうな表情をした。

「花、ですか。しかし、こちら側の庭は植木ばかりで、あまり摘むのに適した花が咲いているとは思いませんが……。――そうだ、わたくしもご一緒してもよろしいですか? ちょうど、踊り場に飾る花が欲しかったところなのですよ」

 ハーシェルの言葉を疑ってか、それとも一人でいることを心配してか、ヘステラは思いついたように言うとこちらへやって来ようとする。ハーシェルはぎくり、とした。

 まずい。今ついて来られたら、確実に城を抜け出すタイミングを見失ってしまう。へステラは、部屋に送り届けるまで決してハーシェルを離そうとはしないだろう。そして部屋の前にはダルーシアがいる。そうすれば、何もかもが水の泡だ。

 ハーシェルは必死に頭を回転させた。

「いいえ、一人で大丈夫よ。その、……母様の部屋に飾る花なの」

 でまかせに言ったハーシェルの数歩先で、ヘステラははた、と足を止めた。

 それから、気がそがれたように眉尻を下げた。

「そうでしたか……。それは、一人でごゆっくりと選ばれた方がよろしいかもしれませんね。――きっと、王妃様もお喜びになられますわ」

 悲しそうに微笑んだヘステラの瞳には、うっすらと涙すら浮かんでいた。

 来た道を戻っていくヘステラの後ろ姿を、ハーシェルは何とも言えない表情で見送った。

 胸の内には、後味の悪い罪悪感だけが残った。

(ごめんなさい……)

 ハーシェルは、心の中で母とヘステラの二人に謝ったのだった。

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