第九章 再会
第30話 ただの少女に
乾いた風が、城の岩肌に吹きつける。
そこは城の一角にあたる屋上。城壁にくり抜かれた射手用の四角いくぼみに腰かけ、ハーシェルは眼下に広がる街を眺めていた。
ここは、めったに人が来ない。だから、一人になりたいときや勉強をさぼりたいとき、ハーシェルはよくこっそりとこの場所に来る。
風に吹かれ、瑠璃色の石が小さくゆれた。
母がずっと持っていた石は、今はハーシェルの胸の上にある。ハーシェルはアスリエルとの会話を思い出した。
『この石、返した方がいい? 母様に、父様からもらったものだって聞いたから』
このように重要なものを、果たして自分が持っていても良いのだろうか。そう思いながら、ハーシェルは尋ねた。
アスリエルは答えた。
『それは、セミアがそなたにと渡したのだろう? ならば持っているといい。その石はすでに、そなたのものだ。石がまた、そなたを守ってくれることもあるかもしれんしな』
(私を守る、ね……)
だが、ハーシェルはあの時何が起こったのかほとんど覚えていなかった。
お母さんが殺されると思った。直後、目の前に青い光が広がり、気づけば部屋は荒れ果て、男たちは姿を消していた。アスリエルいわく、近くに石があったため、無意識にその力を使ったのだろうと言う。
しかしあれから何度か試したが、嵐を呼ぶどころか、雲の動き一つすら変えることができない。パルテミアの王族たちは、一体どうやって石を使っていたのだろうか。
――様。……シェル様。
街の上空を、白い渡り鳥がふわりと風に乗って弧を描く。ざらついた城壁に背中を預け、ハーシェルはぼんやりとした目でそれを見つめた。
そもそも、なぜ封印が解けたのだろう。本当に私が解いたのだろうか?
たまたま封印が切れる時期と重なっただけで、偶然触れたことで封印が解けたように見えたとか。だって、自分に特別な力があるとは到底思えな――
「嬢ちゃん」
ハーシェルは、ハッと背中を起こした。
振り返ると、ほんの数歩先のところにラルサが立っていた。風に衣をはためかせながら立つラルサの表情は、なんとなく微妙な様子である。
目をぱちくりと瞬かせ、ハーシェルはやわらかく微笑んだ。
「ずい分と懐かしい呼び方ね」
「無礼をお許しください。こうすれば、気づいてくださるような気がして」
ラルサも目を細めて笑った。
「よくここが分かったわね」
「これまでも何度か、こちらの方向へ向かわれるのを見たことがあったので。もしやと思い」
ラルサの言葉を聞いて、ハーシェルはちょっと残念に思った。誰にも知られていないと思っていたのに。いくつになっても、自分だけの秘密の場所というものは持っていたいものだ。
ラルサはハーシェルがいる場所を見上げて顔をしかめた。
「それより、さっさとそんなところから下りてきてください。危ないですよ」
「いいじゃない別に。落ちやしないわよ」
さらりと言い流すと、風で顔にかかる髪もそのままに、ハーシェルは再び城の外に顔を戻した。
ラルサは一つため息をつくと、仕方なくハーシェルの隣に並んだ。落ちられては元も子もない。
砂塵の舞う城壁越しに、ラルサはハーシェルと同じ方向を見やった。
「何を、眺めているのですか」
「……街を」
ハーシェルは答えた。
「何でも持ってるわけじゃないけど、家族や自由な未来がある平民と、何でも持ってるように見えて何にも持ってない王女、いったいどっちが本当に幸せだと思う?」
言葉がこぼれ落ちるように、ハーシェルはつぶやいた。
ラルサは眉をひそめて隣に座る王女を見た。
「ハーシェル様」
「なあに?」
「その……大丈夫ですか?」
ハーシェルは笑った。その目元には、どこか疲れを感じさせるものがあった。
「何が? 稽古なら欠かさずやってるし、ご飯だってきちんと食べてるわよ」
「いえ、それはそうなのですが……」
ラルサは顔を曇らせた。
母である王妃が亡くなってから一ヶ月、ハーシェルは一人で考え込むことが多くなったように思う。稽古にはむしろ熱が入り過ぎているようで、それは心の穴を無理やり埋めようとしているようにも見えた。
城の中で、ハーシェルをただの女の子として接することができたのは、母のセミアだけだった。セミアがいなくなった今、ハーシェルは一人ぼっちだった。
「たまには、気分転換に街へ下りてみてはいかがでしょう。もちろん護衛をつけてですが。気ままに歩きながら、店や旅の一座を見るのも楽しいものですよ」
ラルサは声を明るくして言った。
頰づえをつき、遠い目をしたハーシェルは上の空で答えた。
「そうね。考えてみるわ」
流れるように風になびく髪が、その横顔を隠す。
昔、よくセミアに三つ編みに結わえられていたその髪も、もう二度とその手で結われることはない。肩を少し過ぎた髪は、何にも拘束されることなく、行き場を失ったようにゆらめいていた。
「ごめんなさい。一人になりたいの」
ハーシェルは振り返らずに言った。
ラルサは心配そうにハーシェルを見つめていたが、やがて身体を後ろに引くと、そっとその場を離れた。
ラルサが去った気配を背中で感じながら、ちょっと悪いことしたかな、とハーシェルは思った。きっと、自分のことを心配して探しに来てくれたのだろう。
ラルサだけじゃない。
母を亡くしてからというもの、ハーシェルは色々な人から気遣いの視線を感じることがあった。心配してくれるのはありがたいが、最近ではそれすらも少しわずらわしくなってきた。私は、そんなに不幸そうな顔をしているだろうか……?
(街か……)
赤い屋根の家々や人の群れを遠くに眺めながら、ハーシェルはラルサが言った言葉を思い出した。
そう言えば、ここに来てから一度も城の外へ出たことがない。森や湖に行ったことはあるが、それも結局すべて城の敷地内だった。街へ下りてみるのもいいかもしれない。
ハーシェルは街を歩く自分の姿を想像してみた。
市場で買った食べ物を片手に、好きなお店を見てまわり、通りすがりのベンチに腰かけてひと休みする。周囲はたくさんの人であふれ返っているが、自分のことを気にする人など誰ひとりいない。石畳の通りを走ろうと服が地面にこすれて汚れようと、すべてハーシェルの自由だ。
ハーシェルは久しぶりに心が浮き立つのを感じた。
(――行ってみようかな)
ただし、出かけるなら一人でだ。
せっかく自分のことを誰も知らない場所へ行くのだ。護衛つきでは意味がない。姫ではなくただの女の子として、自由気ままに街を散策してみたかった。
だが、城を抜け出すことは容易ではない。目には見えないが、ハーシェルには常に護衛のダルーシアがついている。一人で街へ行くためには、相当綿密な計画が必要だろう。
ハーシェルは城下に広がる街を見据えた。
(――よし)
決意を固め、ハーシェルはとん、と城壁から下りた。
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