第29話 真実
「そなた、『王の石』という話を知っているか」
ハーシェルは拍子抜けしたようにきょとん、とした。
「もちろん知ってるけど……それがどうしたの?」
「あれは、ただのおとぎ話ではない。実際に起こった出来事をしるした、史実だ」
ハーシェルは目を丸くした。
「古くから、世間では古代史をもとにした作り話として知られている。このような非現実的な話、そのまま事実としてとらえる者がいるはずないからな。だが、それでよいのだ。力を持つ石の存在を知られると厄介だ」
確かに、誰も子どもに読み聞かせるようなおとぎ話を現実のものとは考えないだろう。実際、ハーシェルもこれまでは作り話だと思っていた。
しかし、ハーシェルは怪訝そうな顔をした。
「でも、石は砕けたんじゃなかった?」
意見の食い違いが武力による争いへと発展したとき、二つの民族の対立を象徴するように、石は砕けた。だから、話が事実であるにしろ、現時点で石が存在するはずがないのだ。
アスリエルは何食わぬ顔で言った。
「ああ。そこだけが事実と異なるところだからな。本当は、石は砕けてなどいない。そなたが今首に下げて持っている、それがその石だ」
ハーシェルはあんぐりと口を縦に開けた。
「なんですって……?」
ハーシェルの首にかかる銀色のチェーンの先には、母から受け取った瑠璃色の石が下がっている。
昔からこの石には何かあると思っていたが、まさかそんな由来のあるものだったとは。
「石は別名『ラピストリア』という。パルテミア語で『ラピス』は『王』、『トリア』は『石』という意味だ。石は一時は戦乱のさなかに消えていたが、めぐりめぐってナイル王家のもとに再び現れたという。砕けたことにしたのは、その存在を隠すためだろう。石が持つ力についてはまだはっきりと解明されてはいないが、 自然界のあらゆる力をあやつるとも言われている。悪用されれば、恐ろしい結果を招くことになるだろう」
『王の石』では、王は大地が乾けば石を使って雨を降らし、嵐が来ればそれを治めることができた。なるほど、確かに自然をあやつっていると言えるかもしれない。
だが、ハーシェルにはまだ分からなかった。
「だけど、それが母様の死とどう関係してるって言うの?」
アスリエルはうなずいた。
「ああ。大事なのはここからだ。ある時、誰かが石の内側にその力を封じ込めたらしい。時期も目的もさだかではないが、少なくとも二百年以上は前だと言われている。守りは非常に強力で、眠っている石は普通の宝石類となんら変わりはなかった。だから、ナイル王家も長いことあまり気にかけていなかったのだが……」
不意に言葉を止めたアスリエルを、ハーシェルは不思議そうに見上げた。
重さを感じる間のあと、アスリエルは口を開いた。
「つい最近、その封印を偶然にも解いてしまった人物がいる」
アスリエルは真っすぐハーシェルを見据えた。
「それがハーシェル、そなただ」
今度こそ、ハーシェルは言葉を失った。
思い当たる節はあった。
忘れるはずもない。大切な友達と約束を交わしたあの日、ハーシェルが触れた石が小屋からあふれるほどの光を発した。その後、強い生命力を感じさせる石は、それまでのものとは全く違って見えた。
まるで、長い眠りから目覚めたかのように――
「まさか……」
ハーシェルは瞠目した。
ハーシェルの考えを察したのか、アスリエルはうなずいた。
「そうだ。そなたが初めて石に触れたとき、封印が解け、眠っていた石は力を取り戻した。アッシリアにとって、敵国が力のある石を持っていることは大きな脅威だ。もしそのことを知れば、アッシリアは黙ってはいないだろう。だから、ラルサはそなたらを連れて一刻も早く国を出たのだ」
ハーシェルはようやく理解した。
それで、あんなに急に家を出たわけか。もしあのままアッシリアに残っていれば、きっと自分たちは殺されていたのだろう。
そう思うと、今さらながらぞっとした。
「それで、アッシリアはもうこのことを知ってるの?」
ハーシェルが聞くと、アスリエルはやや硬い表情で言った。
「ああ。アッシリアの行動は、予想以上に早かった。国を出る前に、一度は追っ手に追いつかれたほどだ。そうだな、ラルサ」
ハーシェルが驚いてラルサを振り向くと、ラルサはにやり、と口元に笑みを浮かべていた。
「ええ。すぐに蹴散らしてやりましたが」
いつの間にそんなことがあったのだろう。
あいまいになりつつある記憶をいくら思い返しても、ハーシェルの中にそのような覚えは全くない。
「そして、ここからは私の推測だが……」
アスリエルは思案するようにあごに手をかけた。
「アッシリアが今最も危険視しているのは、封印を解いた人物だ。二百年以上解けなかった封印を解いた者には、他にどんな力が備わっているか分からない。石を奪うことができればそれでよいが、やはり危険の芽は摘んでおきたいところだろう。石が目覚めたあの時から、アッシリアはその機会をうかがっていたはずだ」
「だけど、それは母様じゃないわ!」
思わずハーシェルは叫んだ。
ああ、とうなずいたアスリエルは、表情に暗い影を落としていた。
「おそらく勘違いしたのだろう。あの時、そなたはまだ幼かった。たった七つの子どもに封印を解く力が備わっているとは考えにくい。同じく王家直系のセミアが解いたと考える方が、まだ妥当だろう。それに加え、石が光った場所、王妃の国外逃亡と帰国のタイミング……アッシリアが王妃を疑うのも無理はない」
それじゃあ、お母さんは私の代わりに……
ハーシェルはのどの奥深くをぎゅっ、と絞られたような心地がした。
そんなの理不尽だ。
母は何もしていない。私だってそうだ。
それなのに、危険だと一方的に決めつけて、簡単に人を殺していいはずがない。アッシリアの王は卑怯者か、それか憶病者だ。
「しかし今夜、そなたは石を使った。あのような強大な力、そうそう誰もが引き出せるわけではあるまい。今回のことで、アッシリアは間違いに気づいたかもしれぬ。――そうなれば、次は確実にそなたの命を狙ってくる」
ハーシェルはこぶしを硬く握りしめた。湧き上がる怒りに、その目はとぎすまされた刃物ようにぎらついた。
「やれるもんならやってみなさいよ。私は、そう簡単に殺されたりはしないわ! 返り討ちにして――」
ふと、ハーシェルの声が途切れた。
皆が心配そうに見つめる中、少しうつむいたハーシェルはぽつり、とつぶやいた。
「だけど私、お母さんを守れなかった」
薄暗い部屋の中、短剣を振り上げる男。視界に飛び込む母の姿。
嫌な音と、冷たい床に広がる赤い血――
あの時、自分が動いていれば。戦っていれば。
そうすれば、お母さんは……
視界が、すりガラスを通したようににじんだ。
「私のせ――」
不意に、アスリエルがハーシェルの両肩を強くつかんだ。
ハーシェルは驚いてアスリエルを見上げた。その拍子に、涙がひとしずくこぼれ落ちて頰をつたう。
「そなたのせいではない」
ハーシェルの目を見つめ、アスリエルははっきりとした口調で言った。
「戦ったところで敵う相手ではなかった。今回のことは、我々の計算不足が招いたことだ。そなたが気に病む必要はない」
その表情は、思いがけず優しいものだった。
ハーシェルの顔が苦痛にゆがんだ。
「だけど私が動いていれば、お母さんが私をかばうことはなかった。死なずにすんだかもしれない。それなのに、急に体が石みたいに固くなって。逃げることすら――」
ハーシェルはハッとした。
気づいたのだ。
最初に部屋で母を見つけた時に感じた違和感。あの正体は――
「お母さん、逃げようとしなかった」
ハーシェルは信じられないように言った。
セミアが部屋で見つめていた視線の先には、あの男たちがいたはずだ。
しかし、セミアは恐怖に立ちすくんでいたわけではない。その表情は、まるで目の前の状況を受け入れるかのようにきぜんとしていた。
「なんで――」
「それは、そなたを守るためだろう」
迷いなくつながれた言葉に、ハーシェルは驚いて目を丸くした。
「え……?」
セミアを想ってか、心なしかアスリエルの瞳は憂いを帯びていた。
「賢い王妃のことだ、いつか自分の命が危険にさらされることを予想していたのかもしれぬ。封印を解いた者として自分が死ねば、今後そなたが狙われることはない。そなたの母が考えそうなことだ」
「そんな……」
ハーシェルは悲痛な声を上げた。
ではあの時、母は自らの死を受け入れようとしていたのか。私のために……
胸の苦しみを抑えるように、ハーシェルはぎゅっと両手を握りしめた。
「ちなみに、ナイル帝国内で『王の石』の真実を知っているのは、ここにいる者だけだ。石の存在は国の命運に大きく関わっているゆえ、決して他言はせぬよう」
ハーシェルは部屋にいる面々を順番に見回した。ラルサ、シーモア、知らない男が二人に、そしてスコット……
(――あれ?)
ハーシェルはふと違和感を覚えた。
「先生も知ってたの?」
ハーシェルが怪訝そうにスコットを見やると、老人は細い指で小さな丸眼鏡を押し上げ、やや得意げな表情で言った。
「歴史学者であるこの私が、歴史を知らぬはずがないでしょう」
くだらぬおとぎ話だと散々言っていたくせに……
ハーシェルはあきれたように口を開けた。
アスリエルは隣にいる二人の男に目を向けた。
「この二人に会うのは初めてだったな。私の側近の、サシャとダルーシアだ。――(二人の男が頭を下げた)――。あまり表に顔を出すことはないが、私の影としてよく働いてくれている。そなたは気づいていなかろうが、ダルーシアについては幼い頃からそなたの護衛につけていた。今回の事件を真っ先に知らせてくれたのも彼だ」
「えっ、護衛?」
聞いてないんだけど、と明らかに不満げなハーシェルに、アスリエルはつけ足すように言った。
「そなた一人で城を歩かせるわけがないだろう。それに、離れている方が物事がよく見えることもある」
「それはそうだけど……」
ハーシェルは眉をひそめた。
知らない間に見張られていたのかと思うと、あまりいい気分ではない。
――とその時、真面目そうな面持ちをしたダルーシアが一歩近づいたかと思うと、突然ハーシェルに向かって深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした!」
その勢いに気圧され、思わずハーシェルは後ろに引いた。
「いや、別にあなたが謝ることじゃ……」
「王妃様が亡くなったのは、すべてわたくしの責任です。部屋に入る前までは、わたくしも後ろについていたのです。しかし、さすがに王妃様の部屋に無断で入るわけにはいかず、外で待っておりまして――。……異変に気づいたときには、すでに何もかもが手遅れでした。本当に、申し訳ありませんでした!」
声を震わせながら謝罪するダルーシアを、ハーシェルは目を見張って見つめる。
アスリエルがさとすように言った。
「昨日も言っただろう。お前は、やれるだけのことはやった。お前の知らせが早かったおかげで、我々は迅速に行動することができたのだ。刺客はまだ王都から出られていないはずだ」
「そのことですが王、刺客がアッシリアの者であるのなら、東海岸の方に兵を集中されては。険しい山脈地帯よりは、海を利用して国境を越える可能性が高いでしょう」
真っ白な長いひげをゆらし、シーモアがやんわりと口をはさんだ。
アスリエルがうなずいた。
「ああ。そのことについては、ちょうどこれから話そうと思っていたところだ。――ハーシェル」
ハーシェルはアスリエルを見上げた。
「そなたは、もう部屋にもどって休んでいいぞ」
この先は、子どもが入る話ではないということか。
いつもなら「私も一緒に聞く」と言い出していたところだろうが、ハーシェルは疲れていた。
少し肩をすくめると、ハーシェルはおとなしく部屋から出て行った。
体が鉛のように重い。
窓の外を見れば、そこでは霧のような小雨がさらさらと降り続けていた。鏡のようにぼんやりとガラスに映る自分の姿は、この世の絶望でも見たように暗く沈んでいた。
『そなたのせいではない』
震えそうになる唇を小さくかむ。
部屋に帰るまで、ハーシェルは誰とも言葉を交わすことはなかった。
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