第二部 影の王子

◇ ◇ ◇

 夜、ハーシェルが母と食事をしていると、トントン、と小屋のドアを軽くノックする音が聞こえた。

 夜に誰かが訪ねてきたことはほとんどない。

「誰かしら……?」

 用心深い母のセミアは念には念を入れて、ドアの側に立て掛けてあった箒をつかんだ。

「どちら様?」

 セミアは、いつもの調子を装って明るい声で聞いた。

 しかし、ためらうような間の後に返ってきた返事は予想外の人物だった。

「おばさん、ぼくです。ウィルです」

 セミアが答えるよりも早く、ハーシェルが立ち上がって言った。

「え、ウィル⁉」

 セミアが驚いて箒を置きドアを開けると、そこには茶色のマントに身を包んだウィルが立っていた。

 今日は昼間遊びに来なかったから、夜に来たのだろうかという間抜けた考えが頭をよぎったが、ハーシェルは即座にその考えを取り消した。

 ウィルが夜に家に来たことなんて、今まで一度もない。何かあったのだ。

「ウィルくん、どうしたの?」

 セミアが聞いた。

 ウィルはセミアを見上げて口を開きかけたが、そのまま何も言わずに閉じてしまう。

「とりあえず、中に入りなさい。外は寒いでしょう?」

 セミアは優しくそう言うと、戸惑ったように口ごもっているウィルを家の中へ招き入れた。

 ウィルは靴を脱いで中へ上がると、いつもの定位置、ハーシェルの右隣、セミアの左斜め前の席についた。テーブルの上には、ホワイトシチューやかぼちゃのスープ、野菜などが並べられている。

「ご飯はまだ?」

 セミアが聞くと、ウィルは「はい」と頷いた。

 セミアはやわらかく微笑んだ。

「じゃあ、一緒に食べましょう。シチューもサラダも、まだ残っているから」

「はい、ありがとうございます……」

 セミアは席を立つと、新しい皿にシチューをつぎ始めた。蓋を開けた鍋から白い湯気が立ち昇る。

 ウィルはそれらを受け取ると、いただきます、と手を合わせた。

 お腹が空いていたのか、皿の中のシチューとスープは思ったよりも早く減っていった。スプーンを片手に持ったまま、ハーシェルはその様子を不思議そうに見つめた。

「ねえウィル、どうして夜に来たの? 何かあったの?」

 それまで一時も止まらずに進んでいたウィルの手が、ぴたりと止まった。ウィルは一旦食べるのをやめると、スプーンを皿の上に置いた。

「実はその、……家出してきたんだ」

 ぼそぼそとつぶやいたウィルの言葉に、ハーシェルはびっくりして大きな声を出した。

「家出⁉」

 ウィルは気まずそうに小さく頷いた。

「うん……。どこに行こうとか全然考えてなかったんだけど、気がついたら身体がこっちに向かっちゃってて……つい。他に行くあてもなかったし。すみません、おばさん。突然押しかけて」

 ウィルは申し訳なさそうにセミアに顔を向けた。

 セミアは片手を軽く振って笑った。

「いいのよ、そんなこと。むしろ、頼ってくれて嬉しいわ」

「それであの……。もしよかったら、今晩、」

「もちろん、泊まっていきなさい。こんな夜に、子どもを一人で帰らせるわけにはいかないわ」

 その言葉を聞いた途端、ハーシェルはびっくりしたように母を見た。

「えっ、ほんとうに⁉ ウィル、うちに泊まるの? ほんとのほんとに?」

「ええ、そうよ」

セミアがにっこりと笑った。

「やったぁーっ!」

 ハーシェルは弾けるように椅子から飛び上がると、そのままテーブルの周りを走って一周し、ウィルに飛びついた。

「やったね、ウィル。お泊まりだって!」

「うん」

 ウィルもつられたように笑った。

 ハーシェルはいいことを思いついたとばかりにウィルを見た。

「そうだ、一緒に星を見ようよ。今日は晴れてるから、星がとてもきれいだよ? ね、いいでしょう? お母さん」

 懇願するハーシェルに、セミアは少し考えてから言った。

「そうねぇ……いいけれど、冷えるから暖かい格好をして出るのよ?」

「うん!」

 それから約十分後、ハーシェルとウィルは食事を終えると、軽い上着を羽織って外に出た。

 夏も終わりの夜は、少し肌寒かった。野花は皆その花びらを閉じ、静かに眠っている。りんりんりん、と鳴く鈴虫の声が、秋がもうすぐそこまで来ていることを告げていた。

 明かりは小屋の他には何もない。あまり離れると何も見えなくなるので、二人は小屋の近くで適当な場所を選ぶと、ぱたん、と草の上に寝転がった。

 静かな野原の景色から、視界は満天の星空へと移り変わる。

「うわぁ……」

 ハーシェルが感嘆の声を上げた。

「きれいだね」

 ウィルが言った。

 夜空には赤や黄、白など様々な色の星が輝いている。小さな星が密集している部分は、黒よりもやや薄い青に染まっていた。

「見て、ハーシェル。シカ座のユマだ。ほら、あの右上の方にあるやつ」

 ウィルが空を指差して言った。

「あ、前にお母さんが言ってた。夏に見える星だって」

「うん。その左のがフィスで、下の方にあるのがアルキウス。もうだいぶ西にそれちゃってるけど」

 ハーシェルは目を丸くしてウィルを見た。

「すごーい! ウィル、よく知ってるね」

「いや、うん……。――あ、」

「どうしたの?」

「流れ星」

 えっ、と叫んでハーシェルが飛び起きた。

「どこどこ⁉」

「……もう流れちゃったよ」

 ウィルが眉をひそめて言った。

 ハーシェルはがっかりして頬をふくらませた。

「えー、つまんないの。もっと早く言ってよ」

「いや、そんなこと言われても」

 あれ以上早く言うには、流れ出す前に言うしかないのだが、そんなことはできるはずもない。そういうところに気づかないのがハーシェルだ。

 ハーシェルはしばらく空とにらめっこしていたが、やがて諦めるとまたぱたんっ、と後ろに倒れた。

 それから二人は、空を指差して星の名前を言い合ったり、たわいのないおしゃべりをしたりして過ごした。ただぼーっと星を眺めることもあった。ウィルが意外と星の名を知っていたことは驚きだった。

 そんなことをしていると、一時間はあっという間に過ぎていった。

 今は、二人とも黙って星を眺めていた。

 りんりんりん、とどこからともなく鈴虫の鳴き声が聞こえてくる。

「……ぼく、やっぱり明日の朝には帰ろうかな」

 ウィルがぽつり、と言った。

 ハーシェルは隣に顔を向け、ちょっとしかめっ面をした。

「えっ、もう帰っちゃうの? ずっと泊まっててもいいんだよ?」

「でも、やっぱり帰らなきゃ。ハーシェルに会えてよかった。なんだか、楽しくて全部吹っ切れちゃった」

「お母さんが心配してるから?」

 ハーシェルが聞いた。

「きっと、誰もぼくのことなんか気にもかけてないよ」

 ウィルが皮肉めいた口調で言った。ウィルは口に出してから自分がそのような言い方をしたことに気づき、ごまかすように慌てて話題を切り替えた。

「そういえば、ハーシェルはなんてお願いするつもりだったの? 流れ星に間に合ってたら」

「それは……そうね、アップルパイをいっぱい食べられますように! かな」

 ハーシェルが言った。

 ウィルが噴き出した。

「なにそれ」

「だって、いつも二個目でお腹いっぱいになっちゃって、最後まで食べられないんだもん。ほんとうはもっと食べたいのに」

 ハーシェルは大真面目に言った。

「じゃあ、どんなにアップルパイを食べてもお腹がいっぱいになりませんように、だね。正確には」

「うん。そういうこと」

 一瞬、二人の視線が交わった。そしてわずかな間のあと、同時に弾けるように笑い出した。

「見てなさいよ、次の流れ星はぜったいに見逃さないんだから」

 ハーシェルが笑い涙を手で拭いながら言った。

 ウィルの目にも同じように笑い過ぎて涙がたまっていた。

「うん……あ!」

「あ!」

 二人はほぼ同時に声を上げた。

 闇色の星空の中を、一筋の白い光がすーっと線を描いて通り過ぎていった。それも、さっきの星よりもゆっくりとした動きで。

「今の見た⁉」

 ハーシェルが興奮して言った。

「うん!」

 ウィルも嬉しそうに言った。

「ハーシェル、願い事できた?」

「うん。ちゃんとできたよ。ウィルは?」

「あー……見とれてたから、できなかった」

「えー⁉ もったいない」

 じゃあ、もう一回流れ星が流れるのを待とう、とハーシェルが言って、二人はまたじっと星空を眺め始めた。

 そうして眺めているうちに、気づけば二人ともそのまま眠りこけてしまっていた。

 満天の、星空の下で。



「まったくもう……。こんなことになると思っていたわ」

 そろそろかと思って小屋を出てきたセミアは、苦笑しながら仲良く並んで眠っている二人を見つめた。二人の手は、互いにしっかりと握られていた。

(二人とも、幸せそうね……)

 しかしセミアの顔は、そんな二人とは対照的に、苦しげにゆがんでいった。

 セミアはこの幸せがそう長くは続かないことを知っていた。自分はいいが、この二人にとっては、きっと。

 そして、部屋から持ってきた毛布をそっと二人にかけた。

「おやすみなさい……よい夢を」

 優しく声をかけると、セミアは静かに小屋の方へと戻っていった。



  *  *  *



 ハーシェルには、本当は別の願いがあった。

 そもそも、願いなんて本当はなかったのだ。今のままで、充分幸せだった。ウィルがいて、お母さんがいて。アイリスの花が咲くこの場所も、大好きだった。

 だから、願った。

"このままでいられますように"

 もっともハーシェルは、当たり前過ぎてこれほど簡単な願いはないと思っていた。

 ただ、それだけの願いだったのに。


 ――その願いが最も困難で、不可能なものだということを。


 この時のハーシェルは、知るはずもなかった。

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