第33話 王都、ふたたび

 石畳の上に降り立ったハーシェルは、心の中で感嘆の声を上げた。

 隙間なく立ち並ぶ建物の群れに、その間を埋めるようにうごめく大勢の人々。露店のテントは赤や黄色と色とりどりで、雑踏をかき分けるように、客寄せの声があちらこちらから聞こえてくる。

 ハーシェルは目をまんまるにしてその光景を眺めた。

 すごい。城の屋上から見るのと、自分がその中にいるのとではまったく違う。城から見ていた時は、ただ遠くにある世界を鑑賞するような気持ちだったが、今はまるで街に飲み込まれるようだ。それほど、街はあふれんばかりの活気に包まれていた。

 しかし、同時に心の奥では別の感情が流れていた。ゆっくりとそこで渦巻く苦さが何なのか、ハーシェルは最初分からなかった。

 手に小枝を持った子どもたちが、笑いながらハーシェルのわきを駆け抜けていく。道端に一定の間隔で植えられている花はどれも生き生きとして華やかで、その側では旅の一座が弦を弾きながら軽快な音楽を奏でている。

 あの音を追いかけて迷子になり、母とラルサを困らせたりしたっけ……

 突然、ハーシェルは気づいた。

 この街の雰囲気は、あの頃となんら変わっていない。ラルサとセミアと共に城に向かっていた、あの頃と。

 自分はこんなにも変わってしまったというのに――

 懐かしさに入り混じるのは、寂しさと虚しさ、そして理不尽だという思いだった。ハーシェルには、まるでこの街の時が五年前で止まっているかのように見えた。この国の王妃が亡くなったことなど、もうみんな忘れてしまったのだろうか。

 とぼとぼと街を歩いていると、ふと誰かの視線を感じた。

 顔を上げると、その先にいたのは一人の幼い女の子だった。店先で母親に手を引かれて立つ女の子は目をまんまるに見開き、やけにキラキラとした眼差しでこちらを見つめてくる。

 女の子だけではない。道行く人の多くが、気になるようにちらちらと自分に視線を送っていた。通り際に一べつするだけの人もいれば、女の子と同様、魅入られたような表情で立ち止まる者も少なくはない。

 いぶかしんだのもつかの間、原因はすぐに思い当たった。

 服が目立ち過ぎるのだ。

 ハーシェルの服は、金の刺しゅう入りの白地に淡いピンクの薄絹を重ねたようなデザインをしており、周囲の人々が身につけている綿や麻布の服とは似ても似つかない。城の服装のままで来るなんて、なんて馬鹿だったのだろう。

 どうしたものか悩んでいると、ふと、人垣の向こうに衣服の陳列棚が見えた。

 人混みをかき分け店の前に出ると、布を張ったテントの下には様々な衣類が並んでいた。頭上には豊富な種類の生地が垂れ下がり、ゆらりと天井を覆っている。

 ハーシェルは端の方につり下がっている、落ち着いた色のマントを手に取った。

 今着ている服は、城に帰るときまた必要になる。そう考えると、上から羽織るだけで済むマントが一番便利だろう。

「銀五枚だよ」

 声の方に目をやると、店の内側で、退屈そうにひじ掛け椅子に体を預けた店主がこちらを見ていた。

「そのマント。丈夫だし、値段の割には悪くない代物さ。父さんにかい?」

 君には地味過ぎるだろう、と眠そうな目を少しだけ見開き、店主はハーシェルを上から下までじろじろ眺め回しながら言った。

 ハーシェルは呆気にとられ、マントを片手に固まった。

 そうだ。物を買うにはお金がいるんだった。

 長年城の中で過ごしてきたせいで、ハーシェルは世間ではごく当たり前のルールをすっかり忘れていた。自分の金など、持っているはずもない。

 一考したのち、ハーシェルは片方の耳飾りを外した。

「これじゃだめかしら?」

 突如鼻先に差し出された珍品に、店の主人は弾かれたように立ち上がった。

 幾重にも重なる金の輪に、キラリと輝く宝石の粒。ハーシェルにとっては数ある装飾品の一つに過ぎないが、その価値は家が一軒立つほどの高級品だ。

 うっとりした表情を浮かべていた主人はしかし、我に返ったように首を振った。

「いや、だめだだめだ。確かにそいつを受け取ったら、俺はこんな店即売っぱらって、悠々自適な生活が送れるだろう。マントなんざいくらでもくれてやる。だがな、そうする前に、俺は確実にここにいる誰かに首を取られちまうよ」

 主人はちらりとハーシェルの背後に目をやった。

 一つの場所にとどまっているせいで、ハーシェルは周囲の客からかなりの注目を浴びていた。その客の多くは、あっけにとられたような表情、あるいは貪欲な表情で手元の耳飾りに魅入っている。

 ハーシェルはがっかりした。

「そう。分かったわ」

 これ以上ここにいるのは危険なようだ。仕方なく耳飾りを元の位置につけ直すと、ハーシェルは店をあとにした。

 客の壁を抜けて大通りに出た途端、再び多くの人の視線さらされる。ハーシェルはため息をこぼした。

 これでは、城にいる時とたいして変わらないではないか。気ままに散策などできたものじゃない。それに、もし城の兵が探しに来たら、あっという間に見つかってしまうだろう。

 とりあえず、早急に服をどうにかしなければならない。他の店を当たろうと歩き出したその時、後ろで声がした。

「もし」

 振り向かずにいると、「お嬢さんや」と言葉を続けられ、ハーシェルはそこでようやく自分が呼ばれているのだと気づいた。

「はい?」

 振り返った先にいたのは、一人の老人だった。

 腰が曲がり、しわの寄った浅黒い肌はまるで枯れ木のようだ。身なりはお世辞にも整っているとは言えず、古びた生地には継ぎはぎの跡が見える。

「お前さん、宝石を売りたいんだろう?」

 老人はにこにこと人の良さそうな笑みを浮かべて言った。

 はあ、と気のない返事をすると、老人はこちらに半分背を向けた。

「それなら、いい店を知ってるよ」

 そのまま歩き出してしまった老人に、ハーシェルはぽかん、とその場に突っ立った。これは、ついて来いという意味だろうか……?

 迷っている間にも、老人はどんどん離れていく。今にも人混みの奥に消えそうになったところで、老人は立ち止まってこちらを振り返った。

「こっちだよ」

 ハーシェルはしばしためらったが、老人の後を追うことにした。お金がないと困るのは事実だし、たとえ悪意があったとしても、相手は小さな老人。張り倒せば済むことだ。

 大通りを外れ、老人は建物と建物のすき間の暗い路地裏に入っていった。

 ハーシェルも後に続き、細い路地に足を踏み入れた。

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