第34話 闇市

 路地裏に入ってしばらく。

 賑やかな街の雑音が遠のき、やがてあたりは静けさに包まれた。どこからか、生ごみの腐ったような匂いがする。

 大人が二人並んで通れるかすら危うい狭い路地を二、三度曲がると、やや空間の広がったところへ出た。

 布を敷いた台の上に雑多な物を並べ、その前であぐらをかいているのは中肉中背の男である。葉巻をくわえ、片手で札束を数えていた男は人が来たことに気づくと顔を上げた。

「……おや、女の子のお客とは珍しい。何かお探しかな? それとも――」

 葉巻を口から離し、男は検分でもするようにハーシェルを見た。その瞳に一瞬、獰猛な獣のような光がひらめく。

「売りたい物でも、あるのかな?」

 いつの間にか、老人はその場から姿を消していた。

 吐き出された煙にわずかに眉をひそめ、ハーシェルは片方の耳飾りを男に差し出した。

「これを売りたいんだけど」

 耳飾りを受け取った男は、皮の厚い手でそれを吟味した。角度を変えるごとに、わずかな光を受けてきらきらと宝石が光を放つ。

 ややあって、男は耳飾りを台の上に置いた。

「金三枚だ」

「いいわ」

 即答すると、男は口の端でにやりと笑った。

 おそらく、本来の値段よりかなり安く買われたのだろう。だが、ハーシェルにとってそんなことはどうでも良かった。もとより、マントが買えればそれでいいのだ。

 それに、この男はどこか危険な香りがする。さっさとこの場を立ち去った方が良い、とハーシェルの直感は告げていた。

 お金受け取るため手を出そうとすると、男はさらに笑みを深めた。

「もう片方もだ」

「は?」

「二つで三枚だと言っている」

 ハーシェルは手を引っ込め、男をにらんだ。

「両方売るつもりはないわ」

「そうかい。じゃ、あきらめて他を当たるんだな」

 男は素っ気なく言った。

 二人の間に沈黙が降りた。腕を組み、男を見据えること数秒後、ハーシェルは敗北のため息をついた。

「分かったわ。だけど、お金が先よ」

 またあの人だかりの中、脚光を浴びながら歩き回るなんてごめんだ。一日で二つも耳飾りを無くした言い訳を考えるのが、少々面倒ではあるが。

「物分かりのいい嬢ちゃんで助かるぜ」

 男は金をハーシェルに渡すと、反対の耳飾りも受け取った。

 今度こそ売買は成立した。要は済んだとばかりに出て行こうとしたハーシェルだったが、男は「ちょっと待った」と淡々とした口調で引き止めた。

「それだけか?」

 ハーシェルは怪訝な顔をした。

「それだけって?」

「他にも売れる物があるだろう。その首飾りはどうだ。さっきよりも高く買ってやるよ」

 男が瑠璃色の石の方をあごで指し示して言った。

 どきり、と心臓が音を立てた。反射的に片手でぎゅっと石を握りしめる。

「これはだめよ」

 ハーシェルは低い声で、しかしはっきりと言った。

 渡す気がないと悟ったのだろう。じっとこちらをうかがっていた男は不愉快そうに鼻を鳴らすと、投げやりに言った。

「あー、じゃあ服だ。えらく高そうな生地使ってやがんな。いったいどこの金持ちだ?」

「はあ⁉ 無理に決まってるでしょう!」

 ハーシェルは怒ったような、あきれたような声で叫んだ。

「これ以上、あなたに売るものなんて一つもないわ。それじゃ、私はもう帰るから」

 男に背を向けたハーシェルはしかし、その先を見てぴたり、と足を止めた。

 後ろで男がくつくつと笑う。

「――帰るだって?」

 大通りへと続く細い道の前には、風体の悪い二人の男が立っていた。さらに反対側の出口も、別の男によって塞がれている。

(やられた)

 ハーシェルは心の内で悪態をついた。

 始めから、まともに商売をする気などなかったのだろう。安い値段で買い取れるだけ買い取って、それでも足りなければ無理やり奪えばいい。ただそれだけのことだ。

 その時、男たちの体の隙間を通して、路地の奥で動く人影が目に映った。

 腰をかがめて路地を曲がっていく小さな背中は、ここまで案内した老人ものである。金貨を空中でもてあそびながら悠々と歩いていた老爺は、角を曲がり切る前に、ちらりとこちらを見た。

 老爺がにやりと笑った。歯の欠けた口は、闇を飲み込んだかのように空洞だった。

 そのまま、老人は何事もなかったかのように壁の向こうに姿を消した。

 ハーシェルはカッと頭に血が上った。

「残念だったな。素直に全部置いていけば、傷一つなく帰れたものを。……ああ、ついでにどこの貴族か吐かせるとしよう。いやはや、これはとんだ金ヅルが手に入ったもんだな」

 浮かれる男の声は楽しげだ。ハーシェルは振り向くことなく、無言でその場に突っ立っていた。

 そういうことか。

 あの老爺は、何も親切心でハーシェルを案内したわけではない。おそらくこの男に雇われているのだろう、無害な老人を装い、カモを見つけてはここへ連れてくる。後のことは腕っぷしの強いやつに任せ、自らは報奨金を片手に帰るだけだ。なんと簡単な仕事だろう。

 徐々に怒りの波が引くと、後には水底のような静けさだけが残った。

 ハーシェルはため息をつき、半眼で男を見やった。

「よく言うわよ。最初から帰す気なんてなかったくせに」

 その落ち着きぶりに、男は一瞬驚いたように目を瞬いた。それから鼻で笑った。

「分かってるじゃねぇか」

「でもそうね、一つ勘違いしてることがあるわ」

 相手は四人。実践は初めてだが、男たちの立ち居振る舞いはラルサやアスリエルのそれとは比べものにならない。

 おそらくだが、これなら――行ける。

「――私が手に入ったと思っていること」

 動いたのはハーシェルが先だった。

 路地の出口に陣取っている男の足を容赦なく払い上げ、横から伸ばされた別の男の腕を反対の足で蹴り上げる。身を低くして脇の下をくぐり抜けると、一目散に大通りに向かって駆け出した。

 狭い路地を通り抜けるのは、体の小さいハーシェルの方が有利だ。

 男たちの怒号を背中に浴びながら、速度を失うことなく路地を駆け抜けると、ハーシェルは群衆の中に飛び込んだ。

「コラァ! 待ちやがれ、くそガキめ!」

 人の間をすり抜けながらちらりと後ろを見やると、男たちはハーシェルを見失うことなく後を追いかけてくる。邪魔な通行人を無理やり押しのけ、あろうことか殴り飛ばす者までいるその所業に、周囲の人々は悲鳴を上げた。

 ハーシェルは唇を噛んだ。

 このままでは多くの怪我人が出てしまう。なんとかして早く引き離さないと……

 その時、視界の先に見覚えのある店が見えた。

 ハーシェルは店に走り込むと、握りしめていた金貨三枚を居眠り中の主人の長机に叩きつけた。

「これ、マントのお代ね。おつりはいらないから」

 主人は机の音と振動にぎょっと目を見開いた。降ってわいて出た金貨に状況が飲み込めず、口を半開きにして固まる。

 ハーシェルは構わず店の端に掛かっている深緑のマントを手に取ると、頭から羽織るなり店を走り出た。

 これで少しは目くらましになるはずだ。あと二、三度角を曲がって距離を取ればきっと……

「わっ」

 急に横道から現れた人影に、まともにぶつかったハーシェルは声を上げた。

 くすんだ茶色のマントの裾がひらりと揺れる。相手は当たった反動で足を一歩後ろに引いた。

「ごめんなさい」

 振り返りながら言うと、相手の少年は驚いたように目を見張った。

 少年が何か言いかけたような気がしたが、ハーシェルに立ち止まっている暇はなかった。走った先に細い抜け道を見つけると、ハーシェルは考える間もなく角を曲がった。

 道は思ったよりも短く、一本隣の通りへ出ただけだった。

 ひとまず周囲に男たちは見当たらないが、もう少し遠くへ行っておいた方が身のためだろう。

 少し視線を上にやると、探すまでもなく空の下にはナイル城の濃紺の塔の先が見える。ハーシェルはその大きさを目視した。

(大丈夫、まだ帰れる)

 歩き出そうとして、視線を前に戻したハーシェルは固まった。

 城の近衛兵だ。二人の兵が通りの先で額を突き合わせ、何やら真剣な顔で話し込んでいる。

 ハーシェルはくるりと方向転換した。

 まさか、城にいないことがばれたのだろうか。

 そうだとすれば、想像以上に早い。しかしまだろくに楽しんでもいないというのに、連れ戻されるのは何としても避けかった。

 やや焦りながら早足で歩いていると、一軒先の店の陰からぬっと例の男が現れた。

 ハーシェルはびっくりして物陰に隠れた。テントの柱の間から様子をうかがうと、男はイラついたように口元をゆがめている。後ろには二人の仲間も連れていた。

 男はぐるりとあたりを見回すと、近くにいた若い男の首根っこをひょいと捕まえた。

「おい、お前」

 蛙がつぶされたような声を上げ、目だけで後ろを見た若者は、危険な雰囲気をまとった男の姿にヒィ、と身をすくませた。

「なな、何でしょう」

「こんくらいのガキ見なかったか。ぴらぴらした派手な服着た」

 男は自分の胸下の高さを手で示した。

 若者はブンブンと首を横に振った。

「いや、俺は知りませんで。すまっせん!」

 どうやら、男たちはまだハーシェルをあの服装のままだと思っているらしい。少し距離をとって歩けば、もしかしたら気づかれないかもしれない。

 だがハーシェルは動かなかった。それは、不安や恐怖のせいではなかった。

 ハーシェルは面倒くさそうに眉をひそめた。

 こちらに非があるわけではないのに、なぜこそこそと逃げ回らばならない。自分はただ気ままに街を歩きたいだけだというのに、とんだ時間の無駄だ。

 ハーシェルは不意に逃げることが馬鹿らしくなった。

 それならば、いっそこのまま迎え撃った方が早い。覚悟を決め、ハーシェルは自ら男たちの前へ出て行こうとした。

 ――その時、くいっと誰かに後ろへ腕を引っ張られた。

 驚いて振り向くと、そこには先ほどぶつかった少年が立っていた。ハーシェルと同じく全身をすっぽりと覆ったマントには着古した跡があり、華やかな街の中ではあっという間に見失ってしまいそうな色合いをしている。

 少年のグレーの瞳が、静かにこちらを見つめた。再び軽く腕を引くと、少年はハーシェルを反対方向へと促した。

「こっち」

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