第19話 失ったもの

「そなたとは、これ以上話しても無駄なようだ。――もう帰っていいぞ」

 二人は無言でにらみ合った。

 やがてハーシェルはさっと回れ右をすると、むかっ腹を立てながらもと来た道を帰り始めた。

 アスリエルも壇上から降りて身をひるがえすと、さっさと奥の扉から出て行った。

 ハーシェルはずんずんと速足で扉へと向かった。

 なにが『ナイル帝国の姫として』、だ。こんなことなら、本当にラルサがお父さんの方がずっと良かった。

 ぶつぶつと腹の中で文句を言いながら扉を開けると、扉のそばにまさにその人が立っていた。

 初めて見るきちんとした身なりをしたラルサは、いつもより少しだけ若く見える。ちゃんとした服装をしてみればなるほど、将軍だというのもうなずけるような気がした。

「おじさ……」

 久しぶりに見知った顔に会ったハーシェルは、ほっとして声をかけようとした。

 しかし次の瞬間、目の前で信じられないような出来事が起こった。

 片ひざを床につき、右手こぶしを左手で包み込む正式な敬礼の姿勢、それは、サラバンがやった時のものと同じものだった。

 深々と頭を下げるラルサに、ハーシェルは呆然とその場に立ち尽くした。

「これまでの数々の無礼、どうかお許しください。これからは誠心誠意、ハーシェル様にお仕えすることをここに誓います。ご要望等ございましたら、いつでもこのラルサにお申しつけくださいませ」

 ハーシェルの方をまったく見ることなく、ラルサは言った。

「おじさん、なに言ってるの……?」

 ハーシェルはよろよろと後ずさりした。

 こんなラルサ、自分は知らない。

 知っているのは、いつも陽気で明るくて、ハーシェルをからかったり、大口を開けて笑ったりするラルサだけだ。目の前でひざまずくこの人は、いったい誰なんだろう……?

「わたくしのことは、ただ『ラルサ』と、そうお呼びください。ハーシェル様」

 ハーシェルは泣きそうな顔になった。

 ラルサに「様」なんて呼んでほしくなかった。いつもみたいに、にかっと笑って「嬢ちゃん」って呼んでほしかった。本当のおじさんは、いったいどこへ行ってしまったのだろう。もう、ハーシェルが大好きだったおじさんには二度と会えないの……?

 締めつけられる胸をぎゅっと押さえると、ハーシェルは逃げるようにラルサに背を向けて走り出した。

 ハーシェル様!

 背後で、ラルサが自分を呼ぶ声を聞いた気がした。ハーシェルは聞きたくもなかった。

 行き当たった角を曲がり、何も考えずに階段を駆け下りる。

 その先で仲良く談笑しながら歩いていた侍女たちが、ハーシェルの姿に気づいてハッと足を止めた。姫様よ、と中の一人がささやくと三人は道の端に寄り、そろって敬礼をした。ハーシェルが通り過ぎるまで動くつもりはないようだ。

 ハーシェルは、はたと立ち止まった。

 よろめくように数歩後ろに下がる。くるりと背を向けると、ハーシェルは侍女たちとは反対の方向へ走り出した。

 それからいくつもの廊下を抜け、幅広い階段を上がったり下りたりした。すれ違う人々は、みな知らない人たちばかりだ。その横を通り過ぎれば、誰もがあわてたように頭を下げた。

 なんでみんな頭を下げるの? 王女はえらいから? 自分は、そんなこと望んでいないのに……

 そこには、隣に立って話を聞いてくれそうな者など一人もいなかった。同じ場所に立っているはずなのに、ハーシェルは自分だけ全く別のところにいるような気がした。それはひどく孤独だった。

 もう何度目か分からない角を曲がろうとしたとき、何かにどんっとぶつかった。

「ぶへっ」

 変な声を上げて顔を離すと、そこにはふっくらとした女の人が立っていた。どうやら、頭から突っ込んでいってしまったらしい。

 ハーシェルは、あっ、と思った。

(さっき着替えのときにいた人だ……)

 女の人は、ハーシェルを見ると目を丸くした。

「おやまあ、どうされたのですか? こんなところで。ラルサ将軍がそちらにいらっしゃいませんでしたか?」

 驚いた顔で言うヘステラに、ハーシェルは間髪を入れずに聞いた。

「お母さんは?」

 ヘステラは眉をひそめた。

「セミア様なら、今は宰相殿とお話中です」

「それ、どこ⁉」

「だめですよ、大事なお話の邪魔をされては」

 ハーシェルはがく然とした表情をした。

「会えないの……? お母さんに……」

 今まで、会いたいときに母に会えなかったことなんて一度もなかった。一人で外で遊んでいても小屋に戻れば必ずいるし、その他に母と離れていたことなどなきに等しい。

 一人ショックを受けるハーシェルに、ヘステラは表情を緩めた。

「そんな、永遠に会えないわけじゃないんですから。そのようなお顔をなさらなくとも大丈夫ですよ。ただまあ、少し勘違いなさっているようなので申し上げておきますが……姫というものは、そうしょっ中母上にお会いになるものではありませんよ」

「え……?」

 ハーシェルは呆然とした。

「姫様は姫様でお忙しいですし、王妃様もいろいろとやらねばならぬことがございます。そのため、あまりお会いできる時間がないのですよ。――しかし、ご安心ください。姫様のお世話は、わたくしたちが責任を持ってしっかりとさせていただきます。ですから、姫様は何も心配されなくていいのですよ」

 ヘステラが優しく微笑んだ。

 しかし、ハーシェルは笑えなかった。

 ナイルの姫として城に戻った今日、ハーシェルは様々なものを手に入れた。だが、それは同時に多くのものを失うことも意味していた。

 もう二度と、あの頃の生活には戻れない。

 すべての環境が変わってしまったのだと、ハーシェルは悟ったのだった。

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