第18話 ナイルの王

 王の間は、ハーシェルの部屋からそれほど遠くはなかった。

 ハーシェルはどきどきしながら扉の前に立った。今日通り過ぎてきたどの部屋よりも、大きくて立派な扉だ。

 ヘステラは小さく咳払いをしてから、扉をノックした。

「アスリエル様、姫様がお着きです」

 少しの間のあと、内側から低い声が響いた。

「入れ」

 扉が重々しく両側に開かれる。ハーシェルは中へと入った。

 部屋は広々とした造りで、磨き上げられた琥珀色の床が一面に広がっている。高い天井はアーチ状になっており、咲き乱れる花のような形をした照明が一つ、天井からぶら下がっていた。

 その奥、床より数段高くなったところに、この国の王はいた。

 ナイル帝国王、アスリエルは、鋭い眼光と濃い眉毛をもったとても風格のある人物だった。口ひげを生やし、灰色がかったうねるような黒髪はうなじの下で緩く一つに結わえられている。

 もうちょっと優しげな父親像を想像していたハーシェルは、その圧倒的なオーラで王座に居座る父を見上げて思わず固まった。

「ヘステラ、そなたは下がってよい」

 アスリエルが言うと、ヘステラは「かしこまりました」と頭を下げて踵を返した。

(いや待って行かないで!)

 ハーシェルは反射的に心の中で叫んだ。

 しかしそれも虚しく、ヘステラはあっという間に部屋から出て行ってしまった。ハーシェルは一人部屋に取り残された。

 しん、としばし二人の間に沈黙がただよった。気のせいかもしれないが、ハーシェルはその鋭い瞳でじっとアスリエルに観察されているような気がした。ちょっと居心地が悪い。

 アスリエルが口を開いた。

「まずは、そなたの帰還を祝いたい。よく戻ってきてくれた、ハーシェル。私はこの国の国王、アスリエルだ。そなたの父親でもあるな。覚えていなかろうが、私たちが会うのは七年ぶりになる。会えて嬉しいぞ」

 にこりともせずに、アスリエルが言った。

(いや、ちっとも嬉しそうじゃないんだが……)

 ハーシェルはがく然と立ちすくんだ。

 アスリエルの声にも表情にも、久しぶりに娘に会えた喜びというものは一切感じられなかった。まるで、任務から帰ってきた部下を、表面上の言葉だけでねぎらうのと同じだ。

 こんなはずじゃなかったのに……

 ハーシェルが黙っていると、アスリエルはひょいと片眉を上げた。

「なんだ、ろくなあいさつもできないのか」

 ハーシェルは顔をしかめて口を開きかけたが、結局そのまま閉じてしまった。なんだか、この王の前では何を言っても否定されてしまいそうな気がした。

 たいして失望した様子もなく、アスリエルは続けた。

「まあよい。礼儀作法については、これから学ぶことになるだろう。また、国民には七年前にこの国に王女が生まれていたことはまだ知らせていない。明日には、国じゅうが上から下への大騒ぎになるだろう。帰還祝いの宴も開催されるゆえ、必ず参加するように」

 まるで業務連絡でもするように、アスリエルは言った。ハーシェルは思わず顔をしかめたくなった。

「ところで、アッシリアでの暮らしはどうだった。不便等はなかったか」

「うん、まあ……」

 ハーシェルは言った。

 町におりるのがちょっと遠かったくらいだが、すでに慣れてしまったハーシェルにはそれほど苦ではなかった。

 それに、自信をもってあの場所が好きだと言えた。あれからたくさんのすばらしいものを目にした今でも、ハーシェルにとってアイリスの野が一番であることに変わりはなかった。

「そうか。ならば結構」

 アスリエルは表情を変えずに言った。

「アッシリアでの暮らしは、おそらくのんびりと平凡なものであったろうが、ここでは違う。明日から、そなたには王族として必要な多くの知識を学んでもらう。マナーはもちろんのこと、その他語学、歴史、地理学、天文学、法律、経済……など、他にもやることは山のようにある。それぞれの分野に適した先生をつけるゆえ、しっかりと勉学に励むように」

「え、明日から……?」

 父の言葉に、ハーシェルは戸惑ったように眉を寄せた。

「でも、まだ自分の部屋の位置も覚えてないのに……」

「安心せよ。移動の際は、必ず誰かが一緒についてまわることになるだろう。それに本来、これらは五歳の時から学ぶべきものだ。二年遅れているそなたには、一日の猶予もない」

 ハーシェルはさらに眉をしかめた。

 それにしても、あまりに急ではないだろうか。ハーシェルは、もう少し城のあちこちを見てまわる時間がほしいと思った。

「だけど、お父さ――」

「ああそれと、私のことは『父上』、または『お父様』と呼ぶように。母親についても同様だ」

 淡々と言う父親に、ハーシェルは、え、と目を瞬いた。

 お母さんを――?

 ――――。

「おい、聞こえているのか」

 突然何も言わなくなったハーシェルに、アスリエルは若干いらついたように言った。

 ハーシェルは口を開いた。

「いやだ」

「……なんだと?」

 ぴくり、とアスリエルは頬を引きつらせた。

 ハーシェルはキッと顔を上げた。

「いやだって言ったの! お母さんは、ハーシェルのお母さんだもん! ハーシェルがなんて呼んだって勝手でしょ⁉」

 アスリエルはたちまち表情を険しくした。

「いいや駄目だ。そなたはナイル帝国の姫として、それ相応の振る舞いを身につける義務がある。言葉づかいもそうだ。他国の前で少しでもおかしな真似をしてみろ、それは、ひいてはこの国の恥となるのだぞ」

「なんでお母さんのことをお母さんって呼ぶのが恥になるの? 意味わかんない!」

 声を高くするハーシェルに、アスリエルはイライラしたように言った。

「一国の姫は普通、母親に対してそのような呼び方はしないものだ。多くの王家では、親に対する敬意というものを重んじている。ハーシェル、そなたは一般庶民ではないのだぞ」

「ハーシェルだってお母さん大事にしてるもん!」

「話にならんな」

 アスリエルはすっと立ち上がった。

「そなたとは、これ以上話しても無駄なようだ。――もう帰っていいぞ」

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